第九話 助言(Trusted advice)

 知鶴は、いざベッドに横たわって眠りについてしまうと、熟睡してしまった。何ひとつ夢を見ることはなかった。

 取りあえず、自分の身体はここにある。幻ではなさそうだ。目を開けた光景も昨晩と変わらず、自分の客室のベージュ色がかった天井が網膜に映し出されていた。

 部屋を荒らされた様子もない。ドアが破壊されたり窓が割られたりしている様子もなかった。

 良かった。私は生きている。知鶴はほっと胸をろした。


 いつもはメンバーでチャットをしてから寝るのが、ここ最近のお決まりだったが、さすがに今回はそれを行わなかった。知鶴のスマートフォンは一回として鳴ることも震えることもなかった。


 それでも時間は朝の六時半。身体は疲れていても、やはりいつもの仕事のある日の朝と同じ時間に目が覚めてしまうとは、習慣というものはなかなか拭い去ることができないものである。

 外は曇り空だ。高地ゆえに涼しいが、雨上がりだからかかなり湿度が高く感じられる。


 そして驚くほどに静かな朝だった。これは単純に朝が早いだけなのか。

 しかし昨日の状況が状況だけに、ひょっとしてここにいる自分以外、もうこの世にいないなどという通常はあり得ない可能性まで、考えざるを得なかった。

 ゆっくりと部屋の外に出ようと、ドアノブの手をかけようとする。しかし、ちゃんとドアスコープで廊下の様子を確認せねばならない。誰もいないことを確かめると、ゆっくりと扉を開けた。廊下には誰もいない。そして、少なくとも殺人をにおわすような光景はなかった。とは言っても、一つ隣にはドアを隔てて後藤の死体が転がっているはずだ。朝っぱらからこれを見に行く勇気はなかった。


 安心したら、空腹を自覚した。いったん自分の部屋に戻り、顔を洗って、寝癖を直したり眉を描いたりなどのごくごく身だしなみを整えた。また部屋を出て施錠して何となく食堂に向かってみると、キッチンで菓子オーナーが朝食の準備をしている。他のメンバーはいない。こんな状況でも、黙々と宿泊客のために準備をしているオーナーには感服する。しかも、自分の経営するペンションを犯行現場に使われ、しかも内部犯であることが示唆されていて、不届き者の客がいるという可能性が高い中で、通常なら仕事などする気にはなれないだろう。さらに彼も被害者になり得るのだ。一連の事件の流れからすれば、カシスの実を使って殺人を見立てることが可能だ。きっとろくに眠れなかったろうに、ものすごい精神力で仕事をしているに違いない。

 朝食は午前七時から九時までと聞かされていたので、まだほんの少しだけ早いような気もする。催促しているように思われたくはないので、遠目からキッチンを眺めていると、オーナーは知鶴の存在に気付いたようだ。

「おはようございます。ご無事でしたか? でも、よくは眠れなかったでしょう。朝食もうすぐできますので少しだけお待ち下さいね」

 オーナーは生存者を確認したかのように、ほっとした表情を浮かべて応対する。

「いえいえ、私は何事もありませんでした。急がなくて良いですよ。ゆっくり準備して下さい」

 知鶴もできるだけの気遣いをしようと思ったが、困ったことに生理現象には逆らえず、ちょうどこのタイミングでお腹がぎゅうっと大きく鳴ってしまった。空腹であることがバレてしまい、知鶴は顔を赤らめる。

「ありがとうございます。でも、本当にもうすぐできますからね」とオーナーは柔らかな笑顔で答える。本当は空腹の客を待たせない配慮だと知鶴は感じて、実に恐縮な気持ちになる。

「す、すみません。ありがとうございます」と礼を言った。


 無事か否かと言えば、『シルバーベリー』が気になる。彼(たぶん女性だと思う)こそ安否が気になる。しかし、一部屋ずつノックして生存確認するのは気後れするし、もし死んでしまっていても何もすることはできないのだ。

 昨日の後藤のときのように、まだ間に合うかもしれないと言ういちの望みでもあれば良いが、この静かな朝にその可能性は極めて低いだろう。


 そう言えば、知鶴の勤務先の歯科医院の院長に電話しなければいけない。昨日は非日常的すぎる状況に直面して気がすっかり動転していた。隔絶されたエリアで動機不明の連続殺人事件に巻き込まれていて生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされているとでも言えば、立派な言い訳にはなるだろうが、それでも社会人としてのモラルは守りたい。

 部屋に戻って電話をかけても良いのだが、誰かが聞き耳を立てているかもしれない。壁に耳あり障子に目ありだ。犯人の目的が分からない以上、この場でやすやすとうじじょうさらすような真似はしたくない。

 仕方なく外で電話をかけることにした。ペンションの建物から離れればファームと森林しかない。ペンションの中で話すよりも話を聞かれる心配は少ないだろう。空気はかなりひんやりして肌寒かったが、雨が上がっていて良かった。そしてここが圏外でなくて良かった。

 ふと知鶴は、川上犬のシンに吠えられなかったことに気付いた。シンはちゃんとエントランスでおりこうさんにおすわりをしている。翌日からは吠えなくなる、とオーナーの話していたとおりだ。なお、昨夜大雨が降ったときには、川上犬のシンはちゃんと屋根のある犬小屋に入れたとのことである。

 院長に電話をかける。こんな朝から何ごとかと思われるだろうが、まだ皆が活動していない時間の方が、こちらとしては都合が良いのだ。

「もしもし、おはようございます」

『も、もしもし? あれ、チヅちゃん? こんな時間にどうしたの?』院長は眠たそうな声で怪訝そうな返答をする。それにしても公私混同していると誤解を招くような呼び方は止めてもらいたいものだ。しかも院長は、妻子持ちの身なのだから。

「あのですね。冗談に思われるかもしれませんが、私、事件に巻き込まれてるんです」

『じ、事件? 何よそれ!?』

 ビックリするのは当然の反応であると思うが、動揺したときに『オネエ口調』が混在するのも止めてもらいたいものだが、気にせず今置かれている状況について説明をする。最初はなかなか信じてもらえないかと思ったが、つまびらかに説明しているうちに院長も信用してくれたようだ。普段から真面目に働いていて院長からも一目置かれている知鶴だから、少なくとも嘘をつくような人間だとは思われていないだろうが。

 院長は『連休明けの診療は俺が何とかするから、こっちの心配はするな!』と言ってくれた。そればかりか知鶴の話に真剣に耳を傾けてくれている。時には共感の言葉をかけてくれる。本当はこういうことは口外してはいけないのかもしれないが、疑問を投げかけてみる。もちろん秘密にしてもらう約束で。院長は普段はおどけた態度を取ることも多いが、実はかなりの切れ者だと思う。歯学博士号も持っていて、大学院時代には遺伝子の研究をしていたとか。大学院卒業後も後輩の研究生へのサンプル提供まで行う仁の心が厚い人だ。余談だが、比較対照コントロール群として知鶴の唾液も採取されたことがある。口腔粘膜には遊離細胞が含まれており、微量な唾液からでもDNAを抽出することが可能だとか得意気に語っていた。話は逸れたが、それらが、知鶴が院長を評価しているポイントでもあるからだ。

「以前、院長のすすめで私、一時救命処置BLSの講習、受けましたよね。実は今回、被害者を救命しようとしてそれをやったんですが、しっかり頭部後屈させたつもりで呼気を吹き込んでも、うまくいきませんでした。私のやり方が悪かったんですかね?」

『まぁ、俺はその現場を見ていないから何とも言えないけどな。チヅちゃんのやり方が間違っていなかったという前提で話すと、考えられる理由はただ一つ』

「ただ一つ?」

『非常にシンプルな理由だよ。それは……』

 院長の回答を聞いたとき、確かにあまりに単純明快な理由すぎて自分を恥じた。こんな簡単なことに気付かないなんて、恥ずかしくて後輩に見せられないと思ったほどだ。そして、彼の口腔内を覗いたときに感じた違和感の正体も判明した。蘇生中は必死だったし、仕事とは違って歯科用無影灯はなかったのだから気付かなかったのだ。しかし確かにあのとき院長が今話した通りの所見が認められていたのだ。

「ありがとうございます!」院長に礼を言うとき思わず大きな声を出してしまった。周りには誰もいないが、つい嬉しさのあまり勢い余ってしまったことを悔やみつつ電話を切った。

 しかし、まだすべてが解決したわけではなかった。むしろ、この事件を解決するための材料は全然揃っていないと思う。犯人はおろか、どうやって被害者に接触したかすら分からない。ひとまず、ペンションに戻って、朝食を摂りながら皆が目覚めるのを待とうと思った。

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