21-1.最後の助け・前
「何を隠そう、俺も黒い森に住む妖精なんだけどね。君だけ眠らないのは可哀想だから──」
何だろう、これは。
思い出したら僕は終わる。だけど思い出さずにはいられない。
「──攻撃すんのは、話を聞いてからにしてくれよ!」
剣撃がスカッと空を切る感触。
あいつが、シャーグが空中からこちらを見下ろしている。
冷え切った風が肌を刺す。
「家族に会いたいとは思わないのか?」
記憶の中の僕はピタリと動きを止め、あいつを睨みつける。
元はといえば、君たちのせいだ。僕は言った。
「そうだ。俺の仲間がかけた呪いのせいで、君は家族に会えない。だから君も呪ってやろう、っていう提案を、慈悲深い俺の主人がな……おい待て、落ち着け」
殺気を滲ませた僕を、あいつは制止した。
「考えてもみろ。呪われでもしない限り、君は一生家族に会えないぜ?」
本当にそうだろうか。諦めずに戦えば──と、あの時の僕は考えた。しかし確信はできなかった。
ダンスホールの冷たい床が蘇る。あの夜感じた、奇妙な諦観。本当はどんなに頑張っても、みんなを目覚めさせることはできないのではないか。たとえ明日、城を奪還できたとしても、眠りの呪いを解くことができなくては、何の意味もない……。
「家族と平穏に暮らす以上に大切なものなんて、この世に無いだろ?」
悔しいが、この黒マントの言う通りだ。
このままだと僕はその幸せを手放したまま死ぬ運命になる。
「一度、呪われてみなって。決心がつかないなら、俺はまた来るよ。その時までに考えておきな」
間に合ってるよ、僕は勝つんだから……くらいの啖呵は切ったっけか。
そうでもしないと、うっかり話に乗りそうだったのだ。
僕は、勝つんだから……。
アルトは夢うつつで、吹き荒れる寒風に身を揉まれていた。
(あれ、夢?)
目を開けた。
まず、猛烈に寒い。凍てつく強風に耳がもげそうだ。
目に映るは黒一色。
一面に瞬く月と星が、眼下に広がる黒々とした木々の群れを浮かび上がらせている。
(……眼下?)
そういえば妙な浮遊感がある。足元が覚束ない、どころか、無い。
アルトは何者かに抱え上げられ、空を飛んでいた。その者の顔を振り仰ぎ、思わず呟いた。
「セウェルさま……何してるんですか」
ふぉっふぉっふぉ、と善の神は笑った。
「オマエを運んでいるんじゃよ」
「いつも思うんですけど、もうちょっと僕にも分かるように説明して下さい」
「失敬な奴じゃのう。お前が祈りの言葉を唱えて、ワシを呼び出したんじゃろうが」
どうやら、隠し通路での祈りが届いたらしい。
喜びよりも安堵がまさった。そして、安堵よりも混乱が。
今は、この不可思議な状況を把握するのが先だと、アルトは考えた。
「一体、どこに連れて行くんですか」
「オマエの敵に見つからん所へじゃ」
「屋敷じゃなくって?」
「宮廷に戻ったら、オマエは間違いなく死ぬぞ」
どういうことだろう、それは。
寒さで頭が痺れているせいか、よく理解できない。
宮廷の人々は、そうやすやすとアルトを死なせはしないだろうに。
側近がいる。乳母がいる。
「みんなやセウェルさまがついてますから、きっと僕は死にませんよ」
「ふぉっふぉ。ワシもそう何度も駆けつけはせんよ。それに、今宵とて誰も起きては来んかったじゃろ。オマエの伯父は眠り薬をひそかに研究させておったのじゃ」
ああ、眠らせたって言っていたのは、そういうことだったのか。
そういう、こと……。
「え、伯父さんが?」
内部の協力者がいることは考えたが、首謀者があのヴァシリー伯父だとは……最悪の事態だ。
「何でそんなことを?」
「それはワシには言えん。じゃが、あの屋敷は敵だらけじゃよ。オマエの味方はだいたいが、死んだか、戦に向かわされたか、遠くに左遷されたかじゃ」
信じたくはなかったけれど、否定できる要素などアルトの頭のどこにもなかった。
敵だらけの状況を、意図的に作り出せた人物は誰か、そんなものは分かりきったことだった。
戦争準備を指揮していたのはヴァシリーだ。フェルナンドの死後、急に大胆な人事異動を実行したのもヴァシリーだ。
「わずかな側近だけでは、オマエを守ることは難しかろう。寝こけたら終いじゃからのう」
沢山の大人が動かしているはずの宮廷で、そんな間違いが起こりうるとは。
──大人なのに?
──大人なのにだ。
大人にも分からないことはあるし、できないことはあるのだと、アルトは知っていたはずだ。
それでも、手を差し伸べてくれた人々ならば、頼っていいと思っていた。
泣くまいと決めていたのに、勝手に水がこぼれおちてしまう。茫洋とした夜の森に、雫が点々と散っていくのを、アルトは黙って見つめていた。
全てヴァシリー伯父のせい。
伯父に見捨てられたら、本当に一人ぼっちになってしまう。唯一の保護者として頼りにしていたのに、何と冷血なことか。
アルトにお菓子を差し入れておきながら、裏ではそんなことを企んで……いや、今日はあのお菓子に薬が入っていたんだ。きっとそうだ。食べなくてよかった……。
「ひっく……セウェルさま、あの罰当たりな人々を、やっつけて下さいよ」
「そりゃワシの仕事じゃない」
知っていた。それならとうに、黒い森は罰されていただろうから。
「けち。セウェルさまのいじわる」
「言うたじゃろうが。ワシは善の神ゆえ、負けるやつに味方することは叶わん」
確かに、そのようなことを言っていた気もするが。
「……僕にも分かるように言ってって言ったじゃないですかぁ」
「駄々をこねるでない。オマエの負けが込みすぎていたゆえ、オマエの儀式では力が出なかったのじゃ」
落胆が徐々に全身を満たす。
気持ちのやり場に困って、アルトは足をぶらぶらさせた。
これでも、一生懸命に仕事をやってきたつもりなのに、全部が無駄だったらしい。
アルトの努力など、森に散らばった涙と同じで、変化をもたらすにはあまりにも無力だったのだ。
そして、もうどこにも居場所はなくなった。伯父さんは追手も放つだろうから、どこにいても安全ではない。
アルトは、力なく垂れ下がった左腕を、見下ろした。
いばらの漣に絡め取られるような感触が、まだ生々しく残っていた。
この手に願えば、全ての災いから解放される……。
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