別離。



 ----------木崎先輩に送ってもらい、無事帰宅。


 これからお父さんにこっぴどく叱られるであろう私を心配してか、木崎先輩が『俺も早川さんのお父さんと話をしようか?』と言ってくれた。


 が、今ウチに木崎先輩を入れるわけにはいかない。


 入試を控えている木崎先輩に、お父さんにお母さんの不倫がバレてしまった事、離婚する事は言わない。余計な心配はさせたくない…などと、散々心配させておいて、どんな神経で言ってるんだ、私。


 木崎先輩の親切を『大丈夫ですから!!』と丁重にお断りして、木崎先輩の背中を見送った。


 玄関の扉を開ける前に深呼吸を1つ。


 別に怒られたっていいもん。だって、今日は大吉な出来事ばっかりだった。


 夜の山は相当怖かったけど、山の上で見た初日の出は物凄く綺麗だったし、木崎先輩が背中を擦ってくれて、髪まで撫でてくれた。


 お父さんに怒られるくらいの出来事がなきゃ、割に合わないくらい幸せすぎた。

 


 玄関のドアを開け、山に登って土まみれになった靴を脱ぐと、覚悟を決めてリビングへ。


 中に入ると、お父さんがソファーに座って私を待っていた。


 「ただいま。遅くなってごめんなさい」


 お父さんの近くに寄り、頭を下げる。


 「あんまり心配させるな。思い詰めて、家が嫌になって帰って来ないのかと思った。無事で良かった」


 お父さんは怒るどころか、苦しそうな顔をしながら私の頭をポンポンと撫でると、自分の寝室へ行ってしまった。


 離婚話で神経を磨り減らしているだろうお父さんに心配を掛けてしまった事が、申し訳なくて胸が痛んだ。


 ごめんね、お父さん。……それにしてもあの神社、ご利益がありすぎる。大吉すぎて怖い。

 


 翌日は沙希に会って、木崎先輩の合格祈願のお守りと一緒に買った、約束の縁結びのお守りを、沙希が地元で買ってくれた縁結びのお守りと交換しながら、沙希にも心配させてしまった事を謝った。


 沙希は『正月早々人騒がせな奴だよねー』と笑って流してくれた。


 どちらかと言うとネチネチタイプの私は、そんな沙希のサバサバした性格が羨ましくて大好きだ。


 その次の日には、沙希と新年セールへ洋服を買いに出かけた。


 お母さんと会わない様に、楽しいお正月を過ごした。



 ---------そして三が日は終わり、お母さんが家を出て行く日が来た。

 


 『2人でお母さんを送っておいで』とお父さんが、私と弟の背中を押した。


 お母さんは、莉玖には見送って欲しいだろうけど、私にはそんな事を思っていないだろう。


 お正月の間、散々逃げ回っていたけれど、最後だと思うとやっぱり淋しい。


 私にも、ちゃんとお母さんを送り出したい気持ちはある。


 だけど、お母さんは私を嫌っている。


 私の卒業式や成人式とかの人生の節目でさえ、会いたいと思ってもらえないかもしれない。


 だとしたら、今日で本当にお別れだ。


 『アンタなんか産まなきゃ良かった』。


 あの日のお母さんの言葉が過ぎる。


 お母さんとの最後の日。


 最後に、もう1度そんな事を言われたらどうしよう。立ち直れる自信がない。


 「…莉玖、1人で行っておいで」


 そう言って、そっと後ろに下がると、莉玖が『逃げるな』とばかりに私の手首を掴んだ。


 「お母さんが姉ちゃんに言った事、本心じゃないと思うよ、俺。俺も姉ちゃんも、お母さんにちょっと性格似てるじゃん。誰かにすげぇ癇に障る事を言われると、その相手にダメージを与えようと、その人が傷つきそうな事をわざと言って、冷静になった時、後味悪くて後悔するじゃん。お母さんも、多分ソレだと思うんだよね」


 莉玖の言葉に、妙に納得する。


 だってこの前、木崎先輩をわざと傷つけたばかりだから。


 「万が一、またお母さんが酷い事を言ったら、俺も一緒になってお母さんに文句言ってやるから」


 莉玖が私の手を引っ張った。


 莉玖は小6のくせに、私なんかより周りが見えていて、みんなの気持ちを汲み取れる、凄く優しい人間だ。


 「ありがとう、莉玖」


 玄関に行き、靴を履き、2人で駅までお母さんを見送りに行く。


 私と莉玖でお母さんを挟み、3人で歩く。


 何を話せば良いのか分からず、お母さんの顔を見る事も出来ず、ただ下を向きながら歩を進める。


 「お母さん、浮気しちゃった事、後悔してない?」


 莉玖が、私も聞きたかった質問をお母さんに投げかけた。


 莉玖は本当に気が利くなと思う。


 お姉ちゃんなのに、会話を振ろうともしない私の様子に、きっと莉玖は気付いたのだろう。


 だって、やっぱり怖い。お母さんのあの言葉を、もう聞きたくないんだ。



 「…してるし、してない」


 「どういう事?」


 お母さんの言っている意味が分からない様子の莉玖。


 そういう私も、さっぱり分からない。

 

 「莉子も莉玖も、テストの問題は平気で間違えるくせに、他人に対しては絶対に間違った事をしないじゃない。誰かを裏切るくらいなら、自分の欲望を抑える事が出来るでしょう? でも、私にはそれが出来ないの。

 2人からしたら、それは我儘にしか見えないかもしれない。実際そうなんだけど、どうしても出来ない人間っているのよ」


 「……」


 お母さんの言い分に納得出来ない莉玖が、無言で私に『姉ちゃんには分かる?』的な視線を送ってきた。


 弟よ、姉も納得出来ないわ。


 そしてお母さん、私も莉玖も、平気でテスト問題を間違っているわけではないですよ。


 確かに2人共勉強が苦手だから、いっぱい勉強しているかと聞かれればしていないのだけれども、ろくに勉強もしないでこんな事を言うのもおかしな話である事は、重々承知の上ですが、テストの時は『出来れば高得点を叩き出したい』という意気込みで臨んでいるんですよ。

 

 心の中で反論をしていると、


 「不倫をして、こんな結果になってしまった事は、当然悔やんでる。でも、好きな人に走らなかったとしても後悔が残っていたと思うの。私はこういう性格だから、痛い目に遭わないと分からない。後悔してやっと納得するの」


 母が更に理解に苦しむ主張を続けた。


 「厄介な性格」


 莉玖が呆れていた。


 お母さんの言っている事は、若い女の子だったら『奔放で可愛い』で済むかもしれない。でも、お母さんの歳では『身勝手で痛い人間』にしか見えない。



 「姉ちゃんを『産まなきゃ良かった』って言った事は、後悔してない?」


 押し黙ったまま何も喋ろうとしない私の代わりに、莉玖がお母さんに問う。


 自分からは聞けない。


 だって、私にとって不本意な答えだったら…。

 


 ゆっくりでも、歩けば駅に着いてしまう。


 時間は限られている。


 正直、お母さんの返事を聞くのは怖いし、聞かない方が良いのかもしれない。


 でも、今聞かなかったら、今後聞く機会なんかないかもしれない。


 私にはお母さんが産んでくれた、優しくて可愛い弟がいる。


 こんな時、1人っ子じゃなくて良かったと思う。


 莉玖が一緒にいてくれるから、お母さんの口からどんなに辛い事実が発せられたとしても、ちゃんと立っていられる様な気がする。


 弟よ、情けない姉ちゃんでスマン。


 チラっとお母さんの方に目をやると、お母さんが喋り出そうと、口を開くのが見えた。


 私は今から、何を言われるのだろう。

 


 「え? まさか莉子、私が勢いで言った事を気にしてるとか? あの時は、莉子が正論を翳してくるから頭にきて言っただけじゃない。私は、結婚した事も莉子と利玖を産んだ事も後悔なんかしていない。大変な事もあったけど、楽しかったもの。結婚生活も、子育ても。幸せだった」


 お母さんが『ふふッ』っと笑った。


 ホっとした。お母さんが、私を産んだ事を後悔していないと言ってくれた。私としては、それで良かったのだけど、


 「お母さん、いくら頭にきたからって、言っていい事と悪い事の判断くらいちゃんとしなよ。お母さんの姉ちゃんに対するその『そんな事を気にしてバカみたい』って態度、腹立つから。人としてどうかと思う。ちゃんと姉ちゃんに謝りなよ」


 莉玖は納得いかなかった様で、笑うお母さんに怒った視線を送った。


 莉玖に責められると、お母さんは笑うのを辞め、私にすまなそうな表情を向けた。


 「ごめんね、莉子。理詰めで責める莉子に負けるのが嫌で『莉玖だけ引き取りたい』って、わざと莉子が嫌な思いをするだろう事を言ったのに、莉玖の方が更に逃げ道も塞ぐ程の正論を言う子だったのね。

 でも、それで良いのよ。2人が正しく、良い子に育って良かった。私に似なくて良かった。2人は、私なんかに引き取られなくて正解よ。2人はずっとそのままでいてね」


 お母さんが辛そうに笑いながら、私たちの頭を撫でた。


 3人で笑い合って、そこからはたわいのない話をしながら歩いた。

 


 そして駅に着いた。



 「じゃあね。お父さんと3人で仲良くやるのよ。体に気をつけて元気でいてね」


 そう言うと、お母さんは改札に向かって行った。


 「姉ちゃん、何か言わなくていいの? お母さんに言いたい事、何もないの?」


 莉玖が私の腕を揺する。


 …何を言えば良いのだろう。


 なかなか会う事の出来なくなってしまうお母さんに、何を…。


 「…お母さん!! 今度は、いつ会える?」


 去りゆくお母さんを呼び止める。


 言いたい事は、今は思いつかない。だから、次に会った時に。だって、お母さんは私を嫌っては…いないんでしょう?

 


 お母さんが足を止め、振り向いた。


 「いつでも。2人の会いたい時に」


 お母さんが、優しく微笑んだ。


 「…とか言って、どうせ男優先なんだろ」


 切なく笑うお母さんに、莉玖がわざと憎まれ口を叩いた。


 「これからは2人を優先するわよ。もう、毎日会えるってわけじゃなくなるし。男の方に予定をずらしてもらうわよ」


 お母さんが開き直って言い返す。


 お母さんは独身になった。だから、恋愛をするのは自由なのだけれど…。子どもの前で男がどうのこうのとためらい無く話すお母さんは、1周して逆に清々しい。


 莉玖が私の隣で『この人、本当にしょうもない』と、眉を八の字にさせて笑った。

 

 

 「じゃあね」


 私たちに笑顔で手を振ると、お母さんは改札を抜けて行った。


 『……』


 そんなお母さんの後ろ姿を、無言で莉玖と見送る。


 「…電車が来るまで居てやるか」


 そう言って、莉玖も改札に向かった。


 本当は自分がお母さんと離れるのが嫌なくせに。可愛い奴め。


 そんな莉玖を追って私も改札を抜ける。


 「待ってよ、莉…」


 前を歩く足の速い莉玖を呼び止めようとした時、ピタッと莉玖の足が止まった。


 莉玖の視線の先には、ホームで泣き崩れるお母さんがいた。


 きっとお母さんは、笑顔で私たちとお別れしたかったのだろう。


 泣きたい気持ちを、我慢していたのだろう。


 その事は、莉玖も分かっている様で、


 「…帰ろっか。姉ちゃん」


 莉玖が身体の向きを変えて歩き出した。


 莉玖は、大人ぶっていたってまだまだ親に甘えたいだろう、小学生。


 高校生の私だって悲しい。莉玖はどんなに辛いだろう。


 泣きたいけれど、泣けない。


 だって、莉玖が泣かないから。


 私は、お姉ちゃんだから泣かない。莉玖は、男の子だから泣かない。


 お母さん、私たちは強い人間に成長しているよ。

 


 改札を出ると、莉玖が『仲間のとこに行ってくる』と、家とは別の方向に歩いて行った。


 多分、嘘だ。莉玖もきっと、1人になって泣きたいのだろう。


 私の前で泣いてくれていいのに。


 そしたら、いっぱい慰めるのに。


 お母さんの代わりに、私が。…私じゃダメなんだ。


 私がお母さんの代わりになれない事を分かっているから、莉玖は私に甘えてこないんだ。


 莉玖、ごめん。私が上手くお母さんと話合っていれば、莉玖からお母さんを奪ったりしなくて済んだのにね。


 どうしようもないお姉ちゃんでごめん。



 「…うぅ」


 お父さんに、莉玖に、木崎先輩に、木崎先輩のお母さんに申し訳なくて、お母さんと暮らせない事実が悲しくて、涙が出た。


 袖で涙を拭いながら、家へと歩く。


 何度目を擦っても、次から次へと滲んでくる。


 …が、家に近づいた時、ピタっと涙が引いた。


 家の前に、見覚えのある姿があったから。

 

 チャイムを鳴らそうとしていたその人に話し掛ける。


 「…ウチに、何か用ですか?」


 「キミのお父さんと話がしたい」


 家の前に立っていたその人は、私の大好きな大好きな木崎先輩の、お父さんだった。


 私が、今1番会いたくない人間だった。


 「お母さん…じゃなくてですか?」


 木崎先輩のお父さんが話し合うべき相手は、お父さんではなく、お母さんだろうに。


 「キミのお母さんとはもう話合ったから。キミのお父さんに、大事な話があるんだ」


 あんなにも泣き崩れていたウチのお母さんとは正反対の、どこか淡々とした様子の木崎先輩のお父さん。


 木崎先輩のお父さんは、ウチのお父さんと何の話をしようと言うのだろう。


 木崎先輩のお父さんが、赦せない。憎い。


 でも、木崎先輩のお父さんを追い返す理由がなかった。


 だって、追い返したところでお父さんとお母さんが元通りになるわけじゃない。


 お父さんだって、木崎先輩のお父さんに文句の一つでも言いたいはずだと思った。

 

 「…どうぞ」


 だから、木崎先輩のお父さんを家に招き入れた。


 木崎先輩のお父さんの前を歩き、リビングへ誘導する。


 リビングのドアを開けると、お父さんがソファで新聞を読んでいた。


 「お父さん」


 お父さんに声を掛けると、お父さんがこっちを見た。


 「おかえ…り」


 お父さんは、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに平静を取り繕うと、


 「散らかっていますが、どうぞ」


 木崎先輩のお父さんをソファに座るように促した。


 お父さんと木崎先輩のお父さんが、テーブルを挟み向かい合って座った。


 お茶を出そうと、リビングと繋がるキッチンへ向かう。


 「この度の事を、お詫びに参りました」


 キッチンから、木崎先輩のお父さんがウチのお父さんに頭を下げるのが見えた。


 そんな木崎先輩のお父さんを、ただ黙って見ているお父さん。


 当然の様に流れる気まずい空気。


 「粗茶ですが…」


 とりあえず、お茶と適当なお菓子を用意して、2人の間のテーブルに置いた。


 私はここにいない方が良いかな。掃けた方が良いのかな。


 でも、木崎先輩のお父さんが何を話すのか聞きたい。


 自分の身の振り方が分からない。

 

 どうしたら良いのか考えながら、お茶を乗せていたトレーをキッチンに片付けに行こうとした時、


 「そう多くはありませんが、受け取って下さい」


 木崎先輩のお父さんが、テーブルの上に何かを置いた。


 小切手だった。小切手というものを、初めて見た。


 金額までは見えなかったけれど。


 ただ、小切手を使うくらいだから、小額ではないのだろう事は、馬鹿な私でも分かった。


 「お金で解決…ですか?」


 お父さんが、嫌悪感を露にした作り笑いをした。 


 ウチのお父さんが馬鹿にされている様にも、逆にウチのお父さんが木崎先輩のお父さんを馬鹿にしている様にも見える。

 

 「他に術があるとは考えられませんでしたから。私は多くの従業員の生活を背負った雇い主です。私の悪評で経営が傾けば、従業員まで犠牲になります。出来る事なら穏便な対応をお願いしたい」


 木崎先輩のお父さんの勝手な言い分に、お父さんが『フッ』と溜息なのか笑い声なのか分からない息を吐いた。


 ただ、お父さんが呆れている事は確かだ。


 何が『従業員を犠牲にしたくない』だよ。だったら最初から不倫なんかしなきゃ良かったではないか。


 「もうアナタの耳にも入っているかと思いますが、ウチは離婚をしました。そちらはどうされるおつもりですか?」


 お父さんは、小切手を突き返すわけでもなく、貰う素振りも見せなかった。 


 小切手は、テーブルに置かれたまま。


 罵倒する事さえもしないお父さんは、冷静に質問をしていた。

 

 「私は、離婚するつもりはありません。今回の事も、出来れば妻の耳には入れたくない」


 どこまでも自分勝手な木崎先輩のお父さん。


 この人が、私の大好きな木崎先輩のお父さん。


 信じられないというよりは、残念で仕方がない。


 「妻との関係は、どうされるのですか?」


 お父さんが、別れたお母さんを『妻』と言った。なんか、嬉しかった。


 きっとお父さんは、別れても自分を裏切ったお母さんの事を気にかけているんだ。


 「ちゃんと終わらせました。彼女とはもう会いません」


 木崎先輩のお父さんの言葉に、複雑な気持ちになる。


 これで良い。木崎先輩の為にも、木崎先輩のお母さんにとっても。


 ただ、ウチのお母さんが一人ぼっちになってしまう。


 木崎先輩のお父さんは狡い。木崎先輩のお父さんだって、ウチのお母さんと同罪のはずなのに、何も失っていない。



 --------『ギリギリギリ』


 怒りで無意識に歯軋りをしてしまった。


 こんなに怒ったのは、生まれて初めてだ。

 


 ---------結局、小切手は受け取った。


 私がお父さんに『受け取って』と言ったからだ。


 だって、納得出来なかったから。


 木崎先輩と木崎先輩のお母さんを裏切って、お母さんを一人ぼっちにして、お父さんと莉玖と私からお母さんを奪った木崎先輩のお父さんが、何も失わないなんて赦せないと思った。


 お金だけでも奪ってやりたいと思った。


 はした金だろうが何だろうが、何だって良かった。


 木崎先輩のお父さんからしたら、痛くも痒くもない額なのかもしれない。


 でも、何もなしに木崎先輩のお父さんがした事に目を瞑るなんて、絶対に出来ないと思った。

 

 そもそも、木崎先輩のお父さんは何で…。


 どうしても理由が知りたくて、お父さんに頭を下げ玄関を出て行った木崎先輩のお父さんを追いかけた。


 急いでローファーに足を通し、上手く履けずに踵を踏み潰した状態で玄関のドアを開ける。


 「待って下さい!!」


 家の近くに停めていた車に乗り込もうとしていた木崎先輩のお父さんを、大声で呼ぶ。


 木崎先輩のお父さんが、車のドアノブから手を離し私の方を見た。


 ローファーを履き直す事なく、木崎先輩のお父さんに駆け寄る。


 「木崎先輩のお父さんは、どうしてウチのお母さんと? アナタの奥様とウチのお母さんの名前が同じだったからですか?」


 あんなに素敵な奥さんがいて、優秀な息子がいるのに、何でウチのお母さんと…。

 

 「気になったきっかけは、そう。『あぁ、ウチの家内と名前が一緒だな』って。でも、名前で惹かれるって有り得ないでしょ?」


 木崎先輩のお父さんが、何ともいえない顔をして私を見た。


 困った様な、情けない様な…馬鹿な私には表現が出来ない。


 「お母さんを選んだのは『呼び間違いの起こらない、安パイ』だと思われてたのかなって」


 だって、木崎先輩もそう言ってたし。


 「言い訳にしかならないけど、それでも聞きたい?」


 木崎先輩のお父さんが、言い辛そうに私に訊いた。


 「聞かせてください」


 聞いたところで納得なんか出来ないだろう。でも、知りたい。

 

 

 木崎先輩のお父さんが、『ふぅ』と小さな息を吐いて口を開いた。


 「私のスーパーでパートをしている奥様方ってね、『旦那の稼ぎが少ない』とか、『本当は正社員で働きたいのに、良い再就職先がなくて仕方なく…』みたいな人が多いんだよ。でも、キミのお母さんは違った。『旦那の稼ぎで充分暮らせる。でも、私が空いている時間に働けば、家族のお昼のお弁当だったり夕食だったりがちょっと豪華に出来るでしょう?』って、楽しそうに働いていたんだよ」


 思い出して少し微笑む木崎先輩のお父さん。


 でも、私は逆に胸がチクチク痛んだ。


 お母さんのお弁当を、『代わり映えしないな。いつも通りだな』って、なんの感謝もせずに食べていた。お母さんがそんな風に思って作ってくれていたなんて、知らなかった。


 「本当に楽しそうだった。キミのお母さん。『ウチには娘と息子がいるんだけど、どっちも私に似て頭が悪いの。でも、性格は旦那に似て優しくて良い子。見た目と頭さえ良ければ、ウチの子は世界一』って自慢していて…」


 木崎先輩のお父さんが、目を細めてはその時の事を懐かしんでいた。


 ちょいちょい、待て待て!! それ、自慢じゃないやん。と、木崎先輩のお父さんに突っ込もうにも、そんな空気じゃないので、ぐっと堪える。


 「羨ましかった。キミの家族が。キミのお母さんと話をするのが楽しくて、どんどん惹かれていった。

 …私の家内の足の事は、湊から聞いてる?」


 「はい」


 木崎先輩のお父さんの話の続きを聞きたくて、短い返事を返した。


 「湊、家内の足の事を気に病んで、いつでも母親優先なんだ。友達とも遊ばない。バイトも部活もしない。学校が終われば、用事がない限り真っ直ぐ家に帰る。

 …しんどかった。そんな息子を見るのも、車椅子の妻を見るのも」


 木崎先輩のお父さんの眉間に、深い皺が入った。


 木崎先輩のお父さんの気持ちは分かる。


 私も、木崎先輩の家に行く度に苦しい気持ちになっていたから。


 母親の足を気に病む木崎先輩。『あなたは悪くない』と言っても聞き入れて貰えない木崎先輩のお母さん。


 見ていて辛かった。


 木崎先輩のお父さんは、どうする事も出来ずに14年間、あの切ない光景を見ていたんだ。


 それでもやっぱり不倫はダメだ。

 


 私はいいよ。私は運が良かった。 


 幼い頃に風で帽子を飛ばされる事がなかったから、お母さんが足を怪我する事もなかった。


 でも、木崎先輩と木崎先輩のお母さんは運が悪かった。


 そんな木崎先輩たちを傷つけちゃダメだ。


 どんな理由があっても、やっぱりダメだ。


 私は運が良かった。


 親の離婚もある程度大きくなってからだったから。


 でも、莉玖は違う。まだ小学生だ。幼い莉玖に淋しい思いをさせたくなかった。


 毎日仕事で疲れて帰ってくるお父さんから、お母さんを奪わないで欲しかった。


 でも、普段頭が悪いくせに、こういう時に限って木崎先輩のお父さんの気持ちが理解出来てしまった私は、責める事さえ出来ない。


 むしろ、木崎先輩のお父さんが教えてくれたお母さんの気持ちに、ちょっと喜んでしまっていた。


 やっぱり私は馬鹿なんだ。

 


 「木崎先輩のお父さんがした事は許さない。でも、見逃します。だからもう、金輪際こんな事はしないで下さい。誰も傷つけないで下さい。誰にもこんな思いをさせないで下さい」


 木崎先輩のお父さんを責め立てる事も出来ないチキンな私の、精一杯をぶつける。


 「約束する。2度としない」


 『本当に申し訳なかった』と、木崎先輩のお父さんは、16歳のクソガキの私に頭を下げると、静かに車に乗り込んだ。


 車が走り去る様子を、ただボーっと眺める。


 ウチの家族は壊れてしまったけれど、どうか木崎先輩の家族は誰も欠けないで。


 私は木崎先輩の事が好きだから、そう思う。


 でも、お父さんと莉玖は違うかもしれない。


 『お前らのところも崩れてしまえばいい』と思っているかもしれない。


 でもお母さんは、お父さんの事も利玖の事も『優しい』って言っていたらしいし、完全に自分都合だけど、優しい2人がそんな風に思っていないと、私は信じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る