和解。

 


 -----------3時間目が終わり、沙希と『そろそろ小腹が空いてきましたねぇ』などと言いながら、次の授業まで自席でダラダラしていると、


 「莉子ー、木崎先輩が呼んでるよー」


 クラスメイトの梓ちゃんが私を呼びに来た。


 教室のドアの方を見ると木崎先輩が立っていて、私を見ている。


 絶対に怒っている。あんな酷い事を言われて怒らないはずがない。


 こーわーいー‼︎


 「沙ーー希ーーー。ついて来てー」


 沙希を道連れにしようと、沙希の制服を引っ張るも、


 「1人でちゃんと謝ってこい。バカタレが」


 サクっと断られた。


 沙希に昨日の話をしたら『反省してるみたいだから莉子の事を嫌いにはならないけど、人としてどうかと思う』と若干の軽蔑を受けた為、『謝らない』とか『逃げる』という選択肢は私にはない。


 沙希にまで嫌われたら、人生終わりだ。

 

 「…梓ちゃーん」


 だけど、やっぱり1人で行くのは怖い。今度は梓ちゃんに縋る。


 「え? 何?」


 事情を知るはずもない梓ちゃんが、困った様に沙希に視線を送った。


 「この鼻くそが!! 何も知らない梓を巻き込むな!!  さっさと行け!! アホが!!」


 沙希が丸めたノートで『パシーン』といい音を立て、私の頭を叩いた。


 「行きますよ、ちゃんと行きますよ」


 叩かなくてもいいじゃんよ。


 頭を擦りながら、意を決して木崎先輩の元へ。

 

 木崎先輩の目なんか恐ろしくて見れるはずもなく、視線を合わさぬ様に顔を伏せながら木崎先輩の正面まで移動。


 さっさと謝って戻ろう。うん、そうしよう。


 「あの、昨日は…「これ、使える様なら使って」


 謝ろうとしたとき、木崎先輩が何枚かの紙を差し出した。


 それを、わけも分からず手に取る。


 「俺が1年の時の試験プリ。テスト範囲違うかもだけど」


 木崎先輩から受け取ったプリントは、全部90点以上で、間違えた部分もちゃんと赤ペンで正しい答えが書かれていた。


 「…物持ちいいんですね。いいんですか? お借りしても」


 正直、凄く助かる。


 「オカンが保管してた。俺、もう使う事ないから、どうぞ」


 木崎先輩が恥ずかしそうに俯いた。


 ちょっと面白かったから『未だに親にテストの結果見せてるんかい!!』って突っ込んでやろうかと思ったが、さすがにやめた。


 「これ、ありがとうございます。それと、昨日は本当にすいませんでした」


 プリントを胸に抱え、勢い良く頭を下げた。


 しかし、あんなキツイ事を言った私に、なんで試験プリを貸してくれるのだろう。


 「謝んないで。…俺さ、ずっとイライラしてて。親父にも、原因を作ってしまった自分にも。早川さんの事も『親父の愛人の娘』って思うとイライラして…。

 早川さんは悪くないって分かってるのに、なんかムカついて。早川さんが怒るのは当然だから。俺が悪かった。ゴメン」


 木崎先輩も頭を下げた。


 木崎先輩が試験プリを貸してくれるのは、木崎先輩なりのお詫びの印なのだろう。


 ふと試験プリに目を落とす。……え。

 

 「じゃあ」


 顔を上げ、立去ろうとする木崎先輩の制服の裾を掴み、引き止める。


 「ちょっ!! ちょっと待って下さい!! なんで英語、筆記体で書いてるんですか!?」


 目に留まった英語のプリントの字体に驚き、焦った。 


 長文問題なんて、パッと見『外国人のラブレターか?』くらいのオシャレ感さえ漂う、木崎先輩の解答欄。


 もちろん私は、英語も得意ではない。ブロック体で書かれた英語すら読めなかったり、ナチュラルに書き間違える様な人間だ。 


 「…あぁ。いつもはブロック体で書いてるんだけど…そん時急に腹痛くなって…。筆記体の方が早く書けるじゃん?」


 木崎先輩が、ちょっと恥ずかしそうに答えた。


 ヤバイ。笑いそう。木崎先輩、テスト中にまさかの…。


 「…下痢に見舞われたんですね」


 「…早川さん、オブラートに包んだものを、何でわざわざ剥ぎ取るの?」


 苦笑いをする木崎先輩に、


 「ククッ」


 我慢出来ずに、普通に笑ってしまった。

 

 「読み辛い?」


 「はい」


 バツが悪そうに問いかける木崎先輩に、正直に答える。


 頭が悪いんだから、意地を張ってもしょうがない。ちょっとでもいい点数を取りたいし。


 「…勉強、教えようか? …ウチ来る?」


 木崎先輩の言葉に、思わず目を見開く。


 木崎先輩が『もう、木崎先輩の家には行きたくない』とか数々の暴言を吐いた私を、家に誘ってくれた。


 木崎先輩が、私との間に作った壁を崩してくれている様な気がした。


 嬉しかった。その壁を、取っ払ってしまいたいと思った。



 「…今日の晩ご飯は何ですか?」


 「クリームシチューにする予定…って、食う気かよ‼︎ …別にいいけど…親父も一緒に食うかもよ」


 図々しい私に、木崎先輩が乗り突っ込みを入れた。


 なんだ。木崎先輩って、結構喋り易い人なんじゃん。


 気難しそうに見えていた木崎先輩への苦手意識が、どんどん薄まる。


 てゆーか、木崎先輩のお父さんもいるのかぁ。それはだいぶ嫌。


 でも、木崎先輩ともっと喋りたいと思った。


 「別に構いませんよ」


 「じゃあ、また校門の前で待ってる…って、俺、次移動教室なんですけど!!」


 木崎先輩がそう言った瞬間、始業を告げるチャイムが鳴った。


 『じゃあ、また後で!!』と、慌てて木崎先輩は走って行ったけど、次の授業には絶対に間に合わないだろう。

 

 笑いながら木崎先輩の背中を見送り、私は余裕で席に戻った。


 「沙希、沙希!!」


 「うん?」


 自分の席に座り、沙希の肩を『ポンポン』と叩くと、沙希がクルっと振り向いた。


 「じゃん!! 木崎先輩が1年の時の試験プリ貸してくれた!!」


 「おぉ!!」


 沙希に試験プリを翳すと、沙希が喜び勇んで喰いついた。


 『類は友を呼ぶ』とはこの事で、沙希と私は頭のレベルがほぼ一緒だ。


 イヤ、嘘吐いた。厳密に言うと、沙希の方がちょい頭が良い。とは言っても、どんぐりの背比べ。2人共、自称『ミス・ボーダーライン』。平均点付近を彷徨う女たちである。言い換えれば、一歩踏み外すと、あっさり平均以下になってしまう、危うい女子なのである。

 

 「沙希。これ、コピーしてあげるから今日のバイト代わってくれるよね?」


 実は今日、バイトの日だったりする。


 が、折角木崎先輩が私に歩み寄ってくれているのに、バイトでみすみすこのチャンスを逃すわけにいかない。


 今日木崎先輩の家に行かなかったら、また不穏な関係に逆戻りしそうな気がした。


 ので、ちょっとやり方は汚いが、試験プリをエサに沙希にお願いする。


 「『よね?』って。まぁ、それ欲しいから代わってやるけどさ。てゆーか、言う程アンタ、木崎先輩に嫌われてないじゃん」


 『良かったじゃん』と笑う、沙希。


 そうだろうか。まぁ、好かれてはいない事は確かだ。


 しかし、やっぱり沙希の事は大好きだ。


 ごちゃごちゃ文句を言わずにバイトを代わってくれるし、サッパリしていて男らしい。


 沙希が男だったら、間違いなく恋に落っこちてたと思うわ。


 やだなー。沙希に彼氏とか出来ちゃったら。どうしよう、変な男に沙希を取られたら。私、号泣すると思う。


 「さんきゅうね、沙希」


 余計な妄想で無駄にセンチメンタルになりながら沙希にお礼を言うと、


 「どーいたしまして。あぁー。数学不得意ー」


 と、得意な教科など1つもないくせに、次の授業を嘆きながら、沙希は教科書ではなく机からマンガを取り出した。


 全ッッ然やる気ねぇな、コイツ。


 だから私は、沙希が大好きだ。



 -----------放課後、校門で木崎先輩と落ち合い、木崎先輩の家へ向かう。


 …なんか今日は、木崎先輩と楽しく会話が出来る気がする。


 何か話を振ってみよう。何を話そう? そわそわしていると、


 「早川さんは何の教科が得意なの?」


 木崎先輩から話しかけてくれた。


 やっぱり格段に話し易くなっている!!


 なんか今日、イケそうな気がするーーーーー!!

 

 「体育です!!」


 笑顔でハキハキ答えると、


 「そういうお決まりのボケはいいから。テストに体育なんかないでしょうが」


 ボケたつもりもなく正直に答えたのに、木崎先輩に呆れた様に笑われた。


 得意教科…。沙希同様、得意教科など何も無い。


 「体育と音楽以外は、全部満遍なく不得意です」


 私の良い所は、バカを包み隠さないところだと自負しております。


 「何、胸張って言い切ってんの」


 木崎先輩、失笑。


 「早川さんって、頭…「弱めです」


 木崎先輩の言葉に被せてみたけれど、『早川さんって、頭悪いよね?』って言いたかったんだよね、この人。


 大概失礼な質問だ。にも関わらず、


 「薄々気付いてた。そっかそっか。全教科教えないとなんだ…」


 『まじかよ』くらいのテンションで苦笑う、木崎先輩。


 てゆーか、私がバカだって事に気付いてたくせに、再確認しようとしてたんかい!! コイツ!!


 「…やっぱり、バカの相手するのは嫌ですよね」


 木崎先輩が若干引いてしまっている為、こっちも恐縮してしまう。


 「諦めるな!! 諦めたら、そこで試合終了だぞ!!」


 木崎先輩が鼓舞する様に、私の背中を『パシン』と叩いた。


 え? どういう事?

 

 「諦めるって何をですか? 私、何1つ諦めていませんけど?」


 「え? 自分の頭の悪さに悲観して、投げやりになっているのかと…」


 質問をしているのは私の方なのに、木崎先輩にキョトン顔を返されてしまった。


 木崎先輩、どんだけ失礼やねん。


 「木崎先輩、私の得技、知っていますか?」


 「知るわけないよね?」


 「私の得技は、悪あがきです」


 「なんか、似合うね。ジタバタする様が」


 木崎先輩が目を閉じて、想像の中のあがいているだろう私に笑った。


 今日の木崎先輩は失礼極まりないが、よく笑う。


 だから私も楽しくて、嬉しい。

 


 木崎先輩と、奇跡の談笑をしながら木崎先輩の家に到着。玄関を開けるなり、


 「莉子ちゃーん!! 今日も来てくれたの? 嬉しいー!!」


 木崎先輩のお母さんが笑顔で迎えてくれた。


 木崎先輩のお母さんに『嬉しい』なんて言われると、やっぱり罪悪感に苛まれる。


 こんな私が連日やって来てごめんなさい。


 「勉強を教わりに来ちゃいました。すみません」


 気まずくて、木崎先輩のお母さんの顔を見れずに小さく頭を下げると、


 「何で謝るの? いいから上がって上がって。もう、なんならウチに住んじゃえばいいのに。部屋、余ってるから、1コ莉子ちゃんの部屋にしちゃえば?」


 木崎先輩のお母さんが、私の手を引っ張った。


 嬉しくて、切ない。


 木崎先輩のお母さんに、自分をそんな風に思ってもらえている事が、苦しい。


 てゆーか、さすがお金持ち。部屋が余る事ってあるの? ウチ、収納無さ過ぎて、物が溢れかえるくらい狭小住宅なのに。

 

 木崎先輩のお母さんの優しさに胸を痛め、木崎家のセレブぶりに驚愕していると、そんな私の様子に気付いてか、


 「早川さん、早く勉強しなきゃ。1分1秒も無駄に出来ないよ。早川さん、頭が…調子悪いんでしょ?」


 木崎先輩が、私を自室に連れて行こうと気を利かせてくれた。


 …のは、いいけれど。何、『頭が調子悪い』って。普通に失礼。


 さては、『頭が悪い』って言ったらお母さんに怒られると思って、咄嗟にオブラートに包もうとしたな。


 そのオブラート、破れてますがな。包みきれてませんがな。


 「絶不調です」


 でも、これ以上木崎先輩のお母さんといると辛くなるから、木崎先輩の言葉に乗っかった。

 

 木崎先輩に手を引かれ、2人で木崎先輩の部屋へ。


 2人並んで、ソファーとテーブルの間に座る。


 「じゃあ、今日は問題の英語を勉強しよっか」


 木崎先輩は、本当に1分1秒を無駄にしないらしい。


 部屋に入った途端に本題に入った。


 「あ…ハイ」


 正直、ちょっと休んでからにして欲しかったけど、1分1秒を無駄に出来ないポンコツ頭の私が『少し休憩しませんか?』などと言えるわけもなく、おとなしく英語の教科書とノートを鞄から取り出し、テーブルに置いた。


 その教科書を手に取り、ポストイットが貼られたページを見つけると『範囲はココからココねー』と言いながらパラパラ捲る、木崎先輩。


 その手が止まり、


 「じゃあ、この練習問題訳してみ?」


 木崎先輩が、短めの英文を選び、指差した。


 その文を見つめ、凍り付く。


 …。


 ……。


 ………どうしよう。わかんない。

 

 「スイマセン。辞書を使ってもいいですか?」


 木崎先輩の返事を待たずに、鞄から電子辞書を取り出す。


 だって、『ダメ』と言われたところで訳せない。


 「ん? どの単語が分かんない?」


 木崎先輩は、私が何か1つ分からない単語があるために訳せないでいると思っているらしい。


 「言ってしまえば、全部です」


 名詞も副詞も関係代名詞も、全部分からない。


 「…え。」


 木崎先輩が一瞬固まって、『ふぅ』と溜息を吐いた。


 ヤバイ。木崎先輩の顔、めっさ歪んでる。


 「ごめんなさいごめんなさい‼︎ やっぱ、嫌ですよね⁉︎ 私みたいなアホに勉強を教えるのなんて‼︎」


 英文、サッパリ解けないから謝るしかない。


 ふざけてる様に見えたかもしれないが、決してそんな事はなく、真剣に分からないんだ。


 「別に、勉強を教える事は嫌じゃないよ」


 と、木崎先輩は否定してくれたけど、じゃあさっきの溜息は何なんだ。


 『勉強を教える事は嫌じゃない』。あ、そっか。


 「…私の事が、嫌なんですよね」

 

 ちょっと会話が出来る様になったと言っても、私を嫌いな事には代わりないだろう。


 悲しくて、『ぎゅう』とシャーペンを強く握った。


 そんな事したところで英文を訳せない私は、シャーペンを動かす事など出来ないのだけれど。


 「早川さんの事、確かにむやみに目の敵にしてたけど、今は嫌いじゃないよ。面白いコだなって思う。

 そうじゃなくて、俺、他人に勉強を教えた事がないから、どうやったら分かり易く説明出来るかなーと思ってさ。多分俺が今、何かを言ったところで、すげぇ分かり辛い気がするんだよね。

 そこんとこ、シチュー作りながら考えてくるから、早川さんはひたすらノートに単語書いて覚えててくれない?」


 木崎先輩が私の顔を見て『教えるって言ったくせにゴメンね』と困った様に笑った。


 木崎先輩の言葉が、嬉しくて、切なくて、申し訳なくて、心臓がドキドキした。


 耳が、チリつくほど熱い。


 良かった。私、長めのおかっぱ頭で。


 おそらく真っ赤になった耳は、上手いこと髪で隠せているだろう。

 


 木崎先輩がシチューを作りに部屋を出て行き、言われた通り私はひたすら単語を暗記。


 …出来るわけがない。


 心臓がドンドコドンドコ鳴って、全く集中出来ない。


 あ、お母さんに『今日も晩ご飯いらないよ』ってLINEしなきゃ。


 ポケットからスマホを取り出すも、手を滑らしそれをフローリングに転がす。


 もう、何をやってるんだ。どうした!? 私!!


 …コレは、アレだ。恋ってヤツだ。


 なんて簡単な女なんだ、私は。


 ちょっと優しくされると、コロっとすぐ好きになっちゃって。


 木崎先輩は私の事を『嫌いじゃない』とは言ってくれたけど、それは『好き』というわけではない。


 と言うか、木崎先輩の大事なお母様の旦那様の不倫相手の娘を、好きになるはずもない。


 分かってるのに、なんで恋しちゃうかな、私は。


 頭が悪いからだ。お母さんの娘だからだ。


 好きになってはいけない人を好きになってしまった、お母さんの気持ちが理解出来てしまった。


 でも、私は絶対お母さんよりバカじゃない。


 誰も傷つけないし、私自身も傷つくもんか。


 この恋は、私の胸の奥底に埋葬しよう。


 どうか、成仏して下さい。

 

 …が、私の特技は『悪あがき』。


 埋葬どころか、心臓はち切れんばかりにズンドコズンドコ大騒ぎする恋心。


 勉強なんて、全く手につかない。


 くそ!! 負けてたまるか。恋する気持ちを掻き消そうと、ノートに単語を書き続ける。



 ……完敗。ページいっぱいに書いたのに、1つも覚えられなかった。


 そうこうしてる間に、


 「早川さーん、シチュー出来たよー。お腹減ったっしょ」


 木崎先輩が私を呼びに部屋に戻って来た。


 木崎先輩の声を聞いただけで『ピクッ』と肩も胸も飛び跳ねる。


 私の恋心は、なかなかしぶとい。


 『諦めたら、そこで試合終了』。


 ごもっともだけど、私の場合は試合自体がない。


 好きになってもらえる可能性など全くないのに、勝手にひとりで舞い上がってるだけの、ひとり相撲だ。


 だから、いい加減諦めて頂きたい。


 ほとほと自分のしつこさにうんざりする。

 

 「うわー。すげぇいっぱい書いてある。頑張ったねー」


 木崎先輩が、私の頭上からノートを見下ろすと、私の頭を撫でた。


 ヤバイヤバイ。やめてやめて。


 木崎先輩にそんな事されたら、嬉し恥ずかしで今、顔がチンチンに熱い。


 しかも、いっぱい書いたにも関わらず、単語1コも覚えてません。スイマセン。


 心の中で1人でドタバタしていると、


 「…あのさ、親父帰ってきちゃったから、親父も一緒に食べる事になるんだけど…ゴメン」


 木崎先輩の言葉が、落ち着きない私の心を静止させた。


 「『ゴメン』って何がですか? 私が図々しく『ご飯食べたい』って言ったんですから」


 そうだ。浮かれている場合じゃなかった。


 私には、1つ思いついたことがあった。


 木崎先輩に『親父も一緒に食う事になるかもしれない』と言われた時、物凄く嫌だと思ったけれど、木崎先輩のお父さんに会って訴えかけたい事があった。

 

 木崎先輩と一緒にリビングへ行くと、既に木崎先輩のお父さんとお母さんがダイニングの椅子に腰を掛けていた。


 木崎先輩のお父さんとお母さんは隣同士に座っていて、木崎先輩が木崎先輩のお母さんの前に、その隣に私が座った。


 私の目の前に、あの日クローゼットから覗いた顔がある。



 私とお母さんの顔は、似てない事もないがそっくりというわけでもない。


 ただ、声が結構似ている。


 母寄りに声を似せて、『早川です』と挨拶したら、木崎先輩のお父さんは気付くだろうか。


 不倫相手の娘が自分の息子と親しいと分かれば、母との関係を解消してはくれないだろうか。

 

 木崎先輩のお父さんと目が合う様に、不自然なくらいに木崎先輩のお父さんに視線を飛ばすと、容易に目を合わせる事が出来た。


 小さく息を吸い込み、決死のモノマネをすべく、喉を軽く摩った。


 「初めまして。早川莉子です。勉強教えて頂いた上に、晩ご飯までお邪魔してすみません」


 自分で自分を賞讃してやりたいくらいに、今の母マネは似ていた。


 そんな私の声に、木崎先輩のお父さんの右眉が『ピクッ』と動いた。


 木崎先輩のお父さんは、多分気が付いただろう。


 一瞬だけ真顔になった木崎先輩のお父さんは、すぐに笑顔を作って私に微笑むと、木崎先輩の方に目を向けた。


 その視線に気付いた木崎先輩は、木崎先輩のお父さんを一瞥すると、無言でシチューを口に運んだ。


 木崎先輩のお父さんが、私に視線を戻す。


 「こんなバカ息子じゃなくて、もっと頭の良いコに教えてもらった方が良いんじゃないの?」


 木崎先輩のお父さんは、口角は上がっているのに、目が全く笑っていなかった。


 …怖い。木崎先輩のお父さんは、お母さんと別れるどころか、私を除外しようとしている。だけど、


 「木崎先輩、凄く頭良いじゃないですか。私は木崎先輩に教えて頂きたいです。…迷惑じゃなければ」


 まず、木崎先輩はバカではない。テストで全教科90点以上取っていたし。


 それに、シチューを作りながら分かり易い教え方を考えると言ってくれた。


 私は、木崎先輩じゃないと嫌だ。

  

 「早川さんの勉強は、俺が責任持って教えるから。だから、ちょくちょく早川さんをウチに呼ぶから」


 木崎先輩が、木崎先輩のお父さんに冷たい視線を送った。


 「『俺が責任持って教えるから』だってー。もう、付き合っちゃえばいいのにー」


 木崎先輩のお母さんが、ニヤニヤしながら冷やかしてきた。



 何も知らない木崎先輩のお母さんだけが、楽しそうにしている不思議な食卓。


 憎悪と、懺悔と、恋慕が渦巻く空間。


 物凄く気持ちの悪い時間だった。

 


 シチューを食べ終え、挨拶をして帰ろうした時、


 「莉子ちゃん、来月のクリスマスって何か用事ある? 良かったら莉子ちゃんもウチでパーティーしない? 莉子ちゃんが来てくれたら楽しいだろうなと思って」


 玄関で靴を履こうとしている私に、木崎先輩のお母さんが話しかけて来た。


 「すみません。24日も25日もバイトなんです」


 彼氏もいないし、しっかりバイトの予定を入れていた。


 弟も仲間内でパーティーするらしいし、クリスマスらしい事をするとしたら、25日の夜にケーキを食べて親にプレゼントらしい何かを貰うくらいだろう。


 「えー。莉子ちゃん、バイトしてるんだー。偉いねー。バイト終わってから、ちょっとだけでも顔出せないかな?」


 木崎先輩のお母さんがそう言ってくれるのは嬉しいけど、何て答えるべきだろう。


 『じゃあ、お邪魔します』なんて言ったら、木崎先輩のお父さんは嫌がって、その日家を空けたりしないだろうか。ウチのお母さんと会ったりしないだろうか。


 でも、逆もあるかもしれない。私が余計な事を言わない様にと、監視の意味で家にいるかもしれない。


 …どっちだろう。てゆーか、木崎先輩が嫌かもしれない。


 クリスマスにまで私と一緒になんか居たくないかもしれない。

 

 「オカン、やめなよ。早川さん、困ってるじゃん。早川さん、無理しなくていいから」


 答えあぐねている私に、木崎先輩が助け舟という名の拒否をした。


 やっぱり木崎先輩は、私には来て欲しくない様だ。


 「だってぇー。折角莉子ちゃんと仲良くなれたのに…」


 しょんぼりする木崎先輩のお母さんに、苦笑いを返すしかなかった。


 だって、木崎先輩のお母さん以外、誰も私を招いていない。


 木崎先輩のお父さんに至っては、口を真一文字に結んでしかめっ面をしている。


 木崎先輩は許せても、木崎先輩のお父さんにそんな顔されるのは納得いかないんですけど。


 「…じゃあ、私は帰りますね。お邪魔しました」


 わざと木崎先輩のお父さんの目を見て挨拶した。


 『悪いのは私じゃないでしょ。アンタでしょうが』と眼力で念を飛ばしてみたが、


 「気をつけて帰るんだよ」


 木崎先輩のお父さんに、笑顔で手を振られた。


 木崎先輩のお父さんにとって、私の念など屁でもないらしい。

 

 「早川さん、送るよ」


 木崎先輩も靴を履くと、一緒に玄関を出た。


 2人並んで駅まで歩く。


 「凄かったね。早川さんと親父の攻防戦。疲れたでしょ」


 木崎先輩が困り顔で笑った。


 「…気付いてましたか」


 「うん。早川さん、わざと親父に気付かせようとしてるなー、頑張ってるなーって。親父、気付いたくせにね。…ゴメンネ」


 やるせなさそうに溜息を吐く、木崎先輩。


 「謝らないでくださいよ。悪いのは木崎先輩じゃない」


 そう、悪いのは木崎先輩のお父さん。と、ウチのお母さん。

 

 「早川さん、バイトって何してるの?」


 木崎先輩が、淀んだ空気を断ち切ろうと話題を変えた。


 木崎先輩は、私のバイト先までは調べていない様だ。


 よくよく考えてみれば、私のバイト先を知っているくらいなら、私の顔だって知っていただろう。


 そういうところに気付かないあたり、私はやっぱりバカなんだ。


 「……D駅前のケーキ屋さんです」


 言い辛い為、超小声で答える。 


 「あぁ、あそこのケーキ、オカンがすげぇ好きなんだよね」


 木崎先輩が、既に知り得ている情報を口にした。


 「…なんでよりによってって感じですよね。あそこ、時給がいいんですよ。私、お小遣い少ないし、携帯代が自分持ちなので、バイトしないと携帯が止まっちゃうんですよ。あ、でも他にいいところ見つかれば、すぐにバイト先変えますから!! スミマセン」


 『だから嫌そうな顔しないでくれ、こっちも死活問題』とばかりに、木崎先輩には全く関係もないし、興味もないだろう懐事情を暴露した。

 

 「誰も『バイト辞めろ』なんて言ってないじゃん。そもそも俺にそんな権限ないし。そっかぁ。ケーキ屋かぁ。クリスマスは忙しいんだろうなぁ。…やっぱ、ウチに来るのは難しいかな? …もし、来れる様なら迎えに行くけど」


 思いもよらない木崎先輩の言葉に足が止まる。


 え? 今なんて? 木崎先輩が、私の事を誘ってくれているの?


 「…嫌じゃないんですか? クリスマスにまで私と会うのは」


 「…早川さんが嫌なんでしょ?」


 「嫌じゃないですよ。私は」


 「嘘吐け。昨日、『触らないで』って俺の事をバイキン扱いしたくせに。『放して』ならまだしも『触らないで』。傷ついたし。今まで俺、女の子にそんな事言われた事ないし」


 木崎先輩が突然コドモみたいな事を言い出し、むくれた。


 『バイキン』て…。しかも傷ついたところが、そこかよ。


 『木崎先輩のお母さんが歩けないのも、私が悪いわけじゃない』の件じゃないんだ。

 

 「スイマセン。それについては謝りますけど、私だって傷つく事、木崎先輩に結構されましたけど」


 ちょっとふてぶてしく謝ると、


 「弁解の余地もないね。本当にゴメン」


 木崎先輩も開き直り気味に頭を下げた。


 『クククッ』


 そして、ふたり同時に笑い出す。


 「…クリスマス、お邪魔してもいいですか?」


 この恋は実らないと分かっていても、やっぱりどうしても木崎先輩が好きだ。


 「もちろん。バイトが終わったら電話して。迎えに行く」


 木崎先輩の返事を貰ったところで、駅に着いた。


 「…あの「立ち話も何だから、今日は家まで送る」


 そう言って、木崎先輩が先に改札を抜けて行ってしまった。


 木崎先輩は、どこまで私を恋の穴に落とす気なのだろう。

 

 電車に乗り込み、木崎先輩の隣に座る。


 夕食の時とは違って、肩が触れ合う距離。全神経が肩に集中。


 「早川さん、さっき何か言いかけたよね?」


 「あ、ケーキってもう予約したのかなぁと思って…。もしだったら、バイト先がケーキ屋なので私が用意しましょうか?」


 木崎先輩に話かけられて、そんな肩がビクンと跳ねた。


 「まだしてないけど…あそこのケーキはムリでしょ。すぐに予約完売しちゃうし」


 「私、オーナーと仲良しなので1コくらい都合つけてもらえると思います」


 「えぇぇぇぇええ!! まじで!? お願いしてもいい?」


 木崎先輩が見た事もない、良いリアクションをした。


 きっと、木崎先輩のお母さんが喜んでくれるだろうから、木崎先輩も嬉しいのだろう。


 「ハイ。任せて下さい」


 それでも、木崎先輩が喜んでくれるなら私も嬉しい。

 


 電車を降りて、私の家まで2人で歩く。


 「早川さん、明日ってバイト?」


 以前なら、私の歩く速度になんか合わせてくれなかった木崎先輩が、足の短い私の為にゆっくり歩いてくれている。


 「ハイ」


 今日、沙希に代わってもらったから明日はバイトだ。


 「そっか、良かった。じゃあ、次にウチに来るときまでにテストの要点まとめたテキスト作っておくわ。今日中に作るのはちょっと無理」


 『範囲は確認しといたから大丈夫。1年の教科書もまだあるし』と木崎先輩が『ニィ』と笑った。


 イヤイヤイヤイヤ。アナタ受験生でしょうが。


 「木崎先輩、私の事は二の次でいいですよ。テストもそうですけど、もうすぐ入試ですよね? 自分の勉強して下さいよ」


 「大丈夫。俺、頭良いから」


 全く謙遜しない木崎先輩が、逆に清々しい。


 「自分で言っちゃうんだ」


 そんな木崎先輩が面白くて突っ込むと、


 「俺、全教科学年3番以内だから。俺が自分の事を謙遜しちゃったら、ウチの高校の人間の殆どを『バカ』扱いする事になっちゃうじゃん。逆に失礼。早川さんはさ、ホラ。俺と違って、頭の回転が…緩め?」


 逆に痛いところを突き返された。

 

 「何、疑問系にしてるんですか。しかも今の、オブラートに包んでるつもりですか? 全ッ然ですよ。ボロッボロですよ、そのオブラート。木崎先輩の場合、贅沢に2、3枚使ってくれませんかね? お金持ちなんだから」


 だからムキになって言い返すも、


 「そんなにふんだんにオブラート使っちゃったら、結果俺が何を言いたいのか分かんなくなるでしょ。早川さん、頭が…イっちゃてるから」


 アッサリ反撃されてしまった。


 「木崎先輩、それ、最早悪口です。言っておきますが、私はいつも平均点は取れているんですよ。私の下にも人はいるので、私の事をバカ扱いしないで下さいよ」


 「あぁ、下には下が」


 「……」


 頭の良い木崎先輩に、私の様な人間が言い合いで勝てるわけがなかった。でも、


 「嘘嘘。別に早川さんの事、そこまでバカだとは思ってないから。馬鹿にするのが楽しいだけ」


 木崎先輩が楽しいなら、馬鹿にされるのも悪くないなって思ってしまう。


 恋ってやっぱり凄いんだ。

 

 そうこうしてるうちに家に着いてしまった。


 「じゃあ。明日、バイトがんばって」


 木崎先輩がサラっと帰ろうとした。


 もうちょっと一緒に居たいと思っているのは、当然私の方だけで、


 「…駅まで送りましょうか?」


 往生際の悪い事を言ってしまう。


 「さっきの訂正するわ。やっぱ、早川さんってバカ。

 早川さんが俺を駅まで送ったら、俺がここまで早川さんを送った意味ないじゃん」


 『何言ってるの』と木崎先輩が呆れている。


 私に何の好意も抱いていない木崎先輩は、私の恋心など気付きもしない。


 私は、木崎先輩に自分の気持ちに気付いて欲しいのだろうか。


 …イヤ、気付かれたりしたら迷惑がられるだろう。


 木崎先輩は、私の事だけは絶対に好きにならない。


 「~~~木崎先輩のばーか。送ってくれてありがとうございました!! おやすみなさい」


 恋煩いを拗らせすぎて、何故か木崎先輩に悪態をつく。


 好きにさすな、バカ木崎。 


 苦しくて、切なくて、面倒臭いわ、この恋。

 

 「バカはお前じゃ。誰がどう見てもお前じゃ。もう、さっさと風呂入って寝ろ。あ、やっぱ勉強しろ。早川さん、バカだから」


 見事に一言も二言も多く言い返されるし。


 「即刻寝てやる。秒で爆睡してやる」


 バカだから、幼稚な反抗しか出来ない。


 「分かったから、さっさと家入れよ。風邪ひくぞ」


 木崎先輩が、寒そうに両腕を擦った。


 風邪ひきそうなのはお前じゃ、木崎先輩。


 あ。確かウチにカイロがあったはず。


 「木崎先輩、ちょっと待ってて下さい!!」


 急いで家に入り、玄関脇の棚を探る。


 あった!! カイロを手に玄関を出ると、


 「いないし!!」


 木崎先輩の姿はなく、駅の方角に目をやると、木崎先輩は既に随分遠くを歩いていた。


 どんだけ足長いねん。早すぎやろ。


 「~~~もー!!」


 短い足をしゃかりきに動かして走った。


 「木崎先輩!! 待ってて下さいって言ったじゃないですか!!」


 追いつかない為、後ろから大声で呼ぶ。


 「声デカイ!! 黙れ!! 近所迷惑じゃ!!」


 木崎先輩が振り返り、半ギレしながら戻って来た。

 

 半ギレた先輩の声だって、なかなかデカイっつーの。


 木崎先輩がこっちに向かって歩いてきてくれた為、木崎先輩との合流に成功。


 「何で待っててくれないんですか!?」


 全力で走ったせいで息が上がり、上手く喋れない。


 「待つわけないじゃん。寒いし。早川さんも俺も、テスト前に風邪ひいたらどうするんだよ」


 木崎先輩が、細い目をしながら私を見下ろした。


 「だから!! 寒いだろうから、風邪ひいたら困るから、カイロあげようと思ったんじゃないですか!!」


 木崎先輩の胸にカイロを押し付ける。


 「だったらそう言えよ、バカ。早川さん、なかなか家に入ろうとしないから、早川さんが家に入ったのをいいことに『コレ幸い』って帰っちゃっただろうが」


 木崎先輩は、『もう少し一緒にいたい』と思う私の気持ちが、鬱陶しかったらしい。


 『コレ幸い』て…。


 「バカだからしょうがないじゃないですか」


 「本当にばか。折角家まで送ったのに、また送らなきゃじゃん」


 木崎先輩は、袋から出したカイロを左手に持つと、その手で私の右手を握った。


 手と手の間にカイロが挟まってしまっているけど、木崎先輩が私と手を繋いでくれた。


 「どうせ自分の分のカイロ持って来なかったんだろ。バカだから」


 木崎先輩が私の手を引っ張りながら歩く。


 「バカだからじゃないですよ。敢てですよ。まさか木崎先輩が待っててくれないなんて思ってなかったですもん」


 「まともに言い返したー。バカのくせに」


 木崎先輩が『フッ』と笑った。


 お。初めて木崎先輩に言い勝ったかも、私。


 「今日は『触らないで』って言わないんだ?」


 何気に木崎先輩は昨日の私の言葉を根に持っているらしい。


 言うわけないじゃん。好きなんだから。

 

 「ちゃんと謝ったじゃないですか」


 「もっかい言ったら、鼻フックしてやろうと思ったのに」


 木崎先輩が右手の人差し指と中指を、私の鼻の近くで動かしながら笑った。


 私って、どうしたって恋愛対象にならないんだなって思い知らされる。


 普通、好きなコに鼻フックはしないもんなぁ。


 ついつい出そうになる溜息を飲み込む。


 そして、本日2回目の帰宅。


 「今度こそ、さっさと家に入れ」


 木崎先輩が『バイバイ』ではなく『シッシッ』と追い払う様に手を動かした。


 「スイマセンでした。送ってくれてありがとうございました」


 ペコっと頭を下げると『ん』とだけ言って、木崎先輩はアッサリ帰って行った。


 木崎先輩の背中を少し眺めてから家に入る。


 玄関で靴を脱いでいると、ポケットの中でスマホが光っている事に気付いた。


 〔カイロ、アリガトウ〕


 木崎先輩からのLINEメッセージだった。


 木崎先輩のアホ。


 どんだけ好きにさせたら気が済むんだよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る