負目。

 

 --------放課後、早速木崎先輩からLINEメッセージが来た。


 〔資料室に来て〕


 話す事なんて『ダメでした』以外ない。わざわざ会って話さなくとも、LINEで事足りるのに。


 でも、行くしかない。どうせ、逃げられない。


 気が乗らないと言うより、全然行きたくない為足取りは重い。


 歩きたがらない足を無理矢理動かし、資料室へ向かう。


 資料室の扉を開けると、木崎先輩は先に来ていて、窓の外を眺めていた。


 そんな木崎先輩が振り向き、私に視線を向けた。


 とぼとぼと木崎先輩に近づき、昨日の経緯を説明。と、言っても『母にLINEで忠告しましたが、シカトされました』と言っただけだけれど。

 

 「話し合ってはいないんだ?」


 木崎先輩があからさまに不満気な顔をした。


 「…はい」


 だって、嫌だったんだもん。気持ち悪かったんだもん。


 それに、木崎先輩に『ちょっと』何かある様に、ウチにだって色々ある。


 「ウチ、弟がまだ小6なんですよ。あんまり事を大きくしたくないんです」


 お母さんのせいで、まだ小学生の弟の胸を痛めたくない。


 「小6って、言う程コドモじゃねぇだろ。話せば分かるだろ。ちゃんと弟にも話せよ」


 木崎先輩は、小6の心を傷付ける事に何も抵抗がない様だ。


 …鬼畜だ。


 木崎先輩は悪くない。悪いのは、ウチの母親と木崎先輩の父親だ。


 分かっているけれど、木崎先輩の言い分が、やり方が気に入らない。腹が立つ。


 …もう、怒らせてもいいや。


 物凄い顔で睨まれようとも、罵声を浴びせられようとも、女に手を上げる事はないだろう。


 …別にいいや。殴られても。


 だって、ムカつく。言わなきゃ気が済まない。

 

 「木崎先輩は何でお父さんを説得出来ないんですか?」


 『他人に指図ばっかりしてないで、自分でどうにかしろよ』と付け加えようかと思ったが、何だかんだ怖くて言えなかった。


 自分、情けない。チキンすぎる。


 「…ウチの母親、足が悪くて…オカンの耳には入れたくない。これ以上悲しませたくない。親父と話合った時、『離婚を考えろって事か?』って言われてさ。俺は不倫なんかする親父の事が大嫌いだけど、オカンはそうじゃないから。だから…」


 木崎先輩が言葉を詰まらせた。


 木崎先輩の気持ちは分かる。私だって、足の悪い木崎先輩のお母様を悲しませたくはない。でも、だからって…。


 「足の丈夫なウチのお父さんの耳には入れてもいいだろうって事ですか? 私の弟は幼いけど元気に走れるから、巻き込んでも問題ないと思ってるんですか?」


 わざと揚げ足を取る。自分でも、なんて根性が悪いのだろうと思う。木崎先輩が、そんなつもりで言ったんじゃない事だって分かっている。


 でも私だってこんな事、お父さんや弟に知られたくない。

 

 「そういう意味じゃない。…そうだよな、ゴメン。自己中だった。…今から俺ん家行かない?」


 木崎先輩が、私の悪意たっぷりの言葉に顔を顰めては、申し訳なさそうに謝った。


 素直に謝られると逆にこっちがいたたまれない気持ちになる。


 …今から木崎先輩の家。


 もし、お母さんが不倫なんかしてなかったら、どれだけワクワクしただろう。


 お母さんが不倫してなかったら、木崎先輩と話す事もなかったか。皮肉だなぁ。


 「…いいですよ」


 さっき木崎先輩に嫌味を言った挙句、『行きたくない』などと言う底意地の悪さを、私は持っていなかった。

 

 

 資料室を後にすると、学校を出て暫く歩き、電車に乗った。


 2人とも無言。だって、私たちは楽しく会話出来る様な間柄ではない。


 電車を降りて駅から少し歩くと、高級住宅街に入った。


 さすが、木崎グループ。


 木崎先輩が、ひと際デカくて綺麗なマンションの前で立ち止まった。


 ココかよ、木崎先輩の家って。


 見上げるだけで首が痛くなる程の建物を眺めていると、


 「入って」


 木崎先輩に促され、びっくりするほど広いエントランスを抜けて、エレベーターへ。


 木崎先輩が最上階のボタンを押した。


 木崎先輩の家は、桁違いのお金持ちだ。


 ウチだって別に貧乏ってわけじゃないのに、比べる必要なんかないのに、恥ずかしくなってしまう。


 でも、こんなにお金持ちの社長さんが、何でウチのお母さんなんかに…。

 


 エレベーターを降りて、木崎先輩が玄関のドアロックを解除した。ドアを開くと、


 「おかえりなさーい」


 木崎先輩に良く似た、綺麗な顔をした女の人が、車椅子に乗って出迎えに来た。


 「ただいま。あ、このコは学校の後輩の、早川さん」


 木崎先輩に紹介され『ペコ』と頭を下げる。


 「いらっしゃーい。どうぞ入って入って。湊がお友達連れてくるなんてめずらしー!! もしかして、彼女さん? ウチの息子、ヨロシクねー」


 木崎先輩のお母さんが、ニッコニコな笑顔で私を見上げるから、思わず私も笑顔を返した。


 『足が悪い』って、車椅子だったんだ。


 思わず視線が車椅子に向いてしまうのを、慌てて木崎先輩のお母さんの方に戻した。


 にしても、明るいなー、木崎先輩のお母さん。顔は似てるのに、性格が木崎先輩と全然違う。木崎先輩は、割と冷めてるタイプだし。

 

 「てゆーか、彼女じゃないから」


 木崎先輩は、キッチリ誤解を訂正すると、適当に靴を脱ぎ捨てて車椅子の後ろに回った。


 慌てて私も靴を脱ぎ、木崎先輩の靴と一緒に揃えて並べると、


 「だからアンタはモテないのよ。いつまで経っても彼女出来ないし。早川さんより先に家に入って、靴まで直してもらうって、何事よ。親として悲しいわ。早川さん、ゴメンナサイね」


 それを見ていた木崎先輩のお母さんが、木崎先輩の腕を『パシン』と叩き、私に困った顔を向けた。


 彼女いないんだ、木崎先輩。てゆーか、


 「モテてますよ、木崎先輩。ウチのクラスの女子、キャーキャー言ってましたよ」


 こんなにカッコイイんだ。モテないわけないじゃん。沙希だって『カッコイイ』って言ってたし。


 「早川さん、気を遣わなくていいのよ? ウチの息子がモテるわけがない」


 何故か自分の息子を全否定する、木崎先輩のお母さん。


 木崎先輩が息子だったら、私なら超自慢するのにな。

 

 「早川さん、ゴメン。靴、ありがとう」


 そう言うと木崎先輩は、『ちゃんと謝ったから』と木崎先輩のお母さんに視線を落とした。


 木崎先輩のお母さんは『はい。よろしい』と満足気な顔をすると、


 「早川さんはお茶とコーヒー、どっちが好き? 後で湊の部屋に持って行くから」


 と、私に微笑んだ。


 「あ、お構いなく!! すみません、手ぶらで来てしまいまして…」


 そうだよ。『俺ん家行かない?』って言われて、なんで菓子折りとか買わなかったんだよ、私!!


 「構うわよー。構いたいわよー。だって嬉しいんだもん。湊がお友達連れて来てくれて。それに、高校生が手土産なんか用意しなくていいの!! で、どっち?」


 言葉通り、本当に嬉しそうにホクホクな笑顔の木崎先輩のお母さん。


 『湊のお友達』。…お友達なんかじゃない。


 喜んでもらう資格もない。


 だって私は、木崎先輩のお母さんの旦那様の愛人の、娘だ。

 

 「早川さんの飲み物は、後で俺が聞いて俺が持っていくから」


 木崎先輩が、少々強引に車椅子を押し、木崎先輩のお母さんをリビングに押し戻した。


 『別に邪魔しないのにー』と頬を膨らます木崎先輩のお母さんは、ウチのお母さんと同じ様な年齢だろうのに、とても可愛かった。


 「俺の部屋、こっち」


 木崎先輩が手招きをした。


 リビングを出て、突き当たりが木崎先輩の部屋らしい。木崎先輩がドアを開けると、広くて綺麗に片付いた部屋が見えた。


 木崎先輩は、あまり物を置かないタイプらしい。


 無駄なものが1つもない、木崎先輩の部屋。木崎先輩が、

 

 「適当に座って」


 と言うので、部屋の真ん中にある小洒落たソファーに腰をかけた。


 うわぁ。ふっかふかやん!! さすがお金持ち!!


 思わずお尻でジャンプする。


 「フッ。コドモか」


 それを見ていた木崎先輩が、少しだけ笑うと、私の隣に座った。


 木崎先輩の笑顔は、さっき見た木崎先輩のお母さんの笑い方に良く似ていて、凄く可愛い。


 もっと笑って欲しいけど、私には無理だ。


 だって私は、木崎先輩に嫌われる理由はあっても、好かれる要素が何も無い。


 大きな大きな嫌われる原因だけしか、持ち得ていない。

 

 「今日来てもらったのは、オカンの足が悪いのは嘘じゃないって知って欲しかったから」


 木崎先輩が、一瞬で笑顔を消して表情を暗くした。


 「別に、疑ってなんか…」


 「うん。ゴメン。そういう意味じゃない。卑怯なやり方だと思うけど、早川さんに哀れんでもらってでも、協力して欲しいと思ったから」


 木崎先輩がもう一度『ゴメン』と言いながら頭を下げた。


 「……オカンの足、ダメにしたの…俺なんだ」


 「…え」


 驚いて木崎先輩の方を見るも、彼は俯いていてどんな表情をしているのか分からない。


 「俺、2時間ドラマでよくお目にかかる様な事、本当にしちゃったの。4歳の時にさ、風で飛ばされた帽子を追いかけて車道に飛び出して、車に轢かれそうになったところをオカンが助けてくれて…俺の身代わりになって車に撥ねられて、オカンの足がダメになった。俺があの時ちゃんと注意してれば…」


 木崎先輩が膝の上で『きゅう』と拳を握った。


 「注意って…。誰も4歳児に注意力なんか求めてないですよ。誰も木崎先輩が悪いなんて思ってませんよ」


 思わず木崎先輩の握られた拳の上に自分の手を置いてしまった。


 私に手なんか触られたくないかもしれない。


 でも、あまりに話が痛々しかったから。


 だって、木崎先輩は悪くない。 


 ただ、運が悪かっただけ。


 「4歳児だったら、幼かったら親の足を奪ってもいいの!? 違うだろ!? 早川さんは4歳の時に親の足を奪ったりしなかっただろ!?」


 木崎先輩に手を払われてしまった。


 私のやる事は、木崎先輩の気に障ってしまう。


 もう調子に乗らない様にと、私もまた太股の上でスカートを握り締めた。

 

 「もし、オカンが歩けたら、普通に抱く事が出来たなら、親父は浮気なんかしなかったかもしれない。俺があの時…」


 木崎先輩が苦しそうな声を出す。


 そうか。木崎先輩は、お父さんにも罪悪感があるから『不倫なんか辞めろ』と強く言えなかったんだ。


 お母さんの足の事も、お父さんの不倫も、全部自分のせいだと思ってるんだ。


 辛いだろうな、木崎先輩。


 -------胸がズキズキする。苦しくて、痛い。


 …私しかいない。私がやらなきゃダメなんだ。


 私があの2人の不倫を終わらせる。


 お母さんは、この事情を知らないのかもしれない。


 でも、何をしてくれてんだ、お母さん。何て事を…。

 


 ----------涙が込み上げる。


 「すみません。お手洗いお借りできますか?」


 お母さんへの怒りで、涙が滲む。


 この涙を、『木崎先輩への同情』と勘違いされたくなくて、逃げ場を探す。


 こんな涙は見せたくない。見せてはいけない。


 泣いたりなんかして、これ以上木崎先輩を追い詰めてはいけない。


 「うん。トイレはリビングの向かい」


 木崎先輩は俯いたまま、私の方を見なかった。


 私が泣きそうになっている事は、気付かれていないだろう。


 木崎先輩の部屋を出て、急いでトイレに逃げ込む。


 目と鼻が赤くならない様に、顔を手で仰ぎながら泣いた。

 

 早く泣き止まなきゃ。あんまり長いとウンコだと思われる。などと、この期に及んで変なプライドが顔を出す。だって、私だって一応女子だ。

 

 鼻をかもうと、トイレットペーパーを引く。


 何コレ。柔らかッ!! 普段こんなお高そうなトイレットペーパー使ってたら、木崎先輩がウチのトイレ使おうモノなら、お尻ガッサガサに荒れるんだろうな。


 想像したらちょっと面白くなって、涙も引いた。


 てか、木崎先輩がウチのトイレを使う事なんか、一生ないから心配無用だわ。

 

 トイレを出て、木崎先輩の部屋に戻ろうとした時、


 「待って、早川さん」


 リビングから、木崎先輩のお母さんが顔を出した。


 「どうされました?」


 「あの子、『俺が飲み物を用意する』って言ったのに、全然取りに来ないんだもの。あんな子ほっといて、ちょっとリビングでお茶しない? おいしいケーキもあるの」


 木崎先輩のお母さんが『おいでおいで』と手招した。


 「あ、じゃあ、木崎先輩を呼んで来ます」


 さすがに、何も言わずに木崎先輩のお母さんとお茶をするのはマズイだろう。


 木崎先輩の部屋に戻ろうとする私を、


 「呼ばなくていいわよ。大事なお客様にお茶を出さない様なアホに食わせるケーキなんかない」


 木崎先輩のお母さんが、意地悪な顔をして笑いながら止めた。


 きっと、木崎先輩のお母さんみたいな人を『チャーミング』と言うのだろう。


 あまりにも愛くるしく笑うから、


 「…そうですね」


 木崎先輩のお母さんと一緒に、リビングに行ってしまった。

 

 「で、コーヒーとお茶、どっちがいい?」


 木崎先輩のお母さんが、器用に車椅子を動かしながらキッチンに向かった。


 「私が、やりますよ!!」


 足の悪い木崎先輩のお母さんに、私ごときのお茶を用意させるのは忍びない。


 慌てて私もキッチンへ行こうとすると、


 「早川さんはお客様なんだから、何もしなくていいの!! 私、車椅子なだけで何でも出来るのよ? キッチンだって、車椅子用の高さになってるし、この車椅子だって電動だから楽ーに移動出来るし。だから、早川さんは変に気を遣わないで。で、コーヒーとお茶、どっち?」


 木崎先輩のお母さんに笑顔で拒否された。


 そりゃそうだ。キッチンは主婦の聖地。赤の他人にいじって欲しくなんかないだろう。よりによって、私なんかに…。


 ちょっとでもいい子に思われたくて、考えなしに出した親切心が恥ずかしい。


 あぁ、もう。帰りたい。

 

 「…じゃあ、コーヒーをお願いします」


 「はーい。すぐ用意するから、早川さんはソファに座っててー」


 木崎先輩のお母さんに言われるがままソファへ。


 リビングのソファは、木崎先輩の部屋のヤツ以上に高そうで、私が普段寝ているベッドよりデカかった。


 言うまでもなく、座り心地は最高で。


 でも私は一般庶民なわけで。


 お尻にそこはかとない緊張が走る。


 あぁ、もう。帰りたい。

 

 落ち着きなくソワソワしていると、


 「ゴメンナサイねー。そりゃ、急に友達の親と二人きりにされたら緊張するわよねー。でも、本当に全然気なんか遣わないでね。私、湊がお友達を連れて来た事が嬉しくて。どうしても早川さんとお話したくって」


 木崎先輩のお母さんが微笑みながら、私の前にケーキとコーヒーを置いてくれた。


 あ。このケーキ、バイト先のケーキだ。


 私は週3で、駅前の美味しいと評判の結構有名なケーキ屋さんで、沙希と一緒にバイトをしている。


 目の前に置かれたケーキは、あのお店で1番高い1ピース¥980。


 さすがお金持ち。これをサラっと私なんかに出してくれちゃうんだ。


 「ここのケーキ、本当に美味しいのよねー。たまに主人に頼んで買って来てもらうの」


 木崎先輩のお母さんが、嬉しそうにケーキにフォークを刺した。


 『主人に買って来てもらう』。私、木崎先輩のお父さんを接客した事があったのかもしれない。でも、あの店は客足が途切れなくて忙しいし、週3しか働いていない私は、お客さんの顔をいちいち覚えていない。


 でも、昨日クローゼットから見てしっかり覚えた。


 木崎先輩のお父さんは、きっとまた買いに来るだろう。


 その時、私は笑顔で接客出来るだろうか。

  

 なんとなく『私、ここでバイトしてるんですよ』とは言わなかった。


 『じゃあ、今度主人に連れてってもらうわー』とか言われそうだから。


 木崎先輩のお母さんを嫌いなわけじゃない。


 むしろ、綺麗で明るくて可愛くて大好きだ。


 でも、母がしてしまった事を思うと、苦しいんだ。


 こんな風に親切にされたり、笑顔を向けられたりすると、申し訳なくて。辛い。


 ごめんなさい。ごめんなさい。木崎先輩のお母さん、ごめんなさい。


 謝れたら、どんなに楽だろう。

 


 「私、本当は女の子が欲しかったのよねー。でも、出来なくって。まぁ、男の子は男の子で可愛いんだけどねー」


 あっと言う間にケーキを食べ終えた木崎先輩のお母さんが、コーヒーを啜った。


 「そう…なんですか」


 もう1人子どもを作れなかったのは、きっと怪我をしてしまったからだ。


 何て返事をしたらいいのか分からない。


 「私の足の事、湊から聞いた?」


 私の戸惑いを余所に、木崎先輩のお母さんの話は続く。


 「…はい」


 「そっか。湊の前では『本当は女の子が欲しかった』なんて気軽に言えなくて困っちゃう。そんな事を言おうものなら、『俺のせいだ』っていつまでも落ち込むから、あの子。私は何にも後悔してないのに。湊が無事なら、自分の事なんてどーでもいいのにね。親ってそういうモンなのに。何回言ってもダメなのよねー。いつまでもグヂグヂグヂグヂしてさー。本ッ当にしつこい」


 木崎先輩のお母さんは、なんてサッパリした人なのだろう。


 お母さんが不倫なんかしていなかったら、きっと木崎先輩のお母さんと楽しく会話出来ただろうに。

 

 「ねぇねぇ、早川さんって下の名前何て言うの?」


 自分の旦那と私のお母さんが不倫をしている事を知らない木崎先輩のお母さんは、私にとてもフレンドリーに接してくれる。


 事実を黙っているのは、木崎先輩のお母さんを悲しませたくないから。


 でも、言わないのは、木崎先輩のお母さんを騙している様な気になる。


 隠し事というのは、なんてしんどいのだろう。


 「…莉子です」


 「莉子ちゃんかー。可愛くていい名前ね。『莉子ちゃん』って呼んでもいい? 私は綾子。おばさんって呼ばれるの嫌だから『綾子さん』って呼んで」


 「え…あ…ハイ」


 木崎先輩のお母さんの言葉に、一瞬ドキっとした。


 『綾子』は珍しい名前じゃない。


 でも、木崎先輩のお母さんの名前も『綾子』だったとは…。

 


 「ねぇ莉子ちゃん。莉子ちゃんの髪の毛、ちょっと弄ってもいい? 私、娘の髪の毛を結んであげるのが夢だったんだけど、叶わなくって」


 木崎先輩のお母さんが、近くに置いてあったゴムを手首に巻きつけた。


 …弄る気満々だ。


 そして、あんな言い方をされては『嫌です』などとは絶対に言えない。


 「…私の髪なんかで良ければ」


 すんなり頭を差し出すと、木崎先輩のお母さんは『やった。勝手に弄らせてもらうから、莉子ちゃんは気にせずケーキ食べててね』と、私の長めのおかっぱ頭を優しく撫でた。


 事実を知ったなら、私の頭なんか触りたくもないだろうに。


 …黙ったままで良いのだろうか。騙したままで良いのだろうか。


 …でも、言えない。言いたくない。


 こんな優しい人を泣かせたくない。こんな優しい人に、嫌われたくない。

 


 木崎先輩のお母さんに頭を預けながら、ケーキを食べた。


 私は、人に髪を弄られるのが割りと好きだ。


 複雑な気分になりながらも、やっぱり心地良い。


 「どう? 可愛いでしょ?」


 木崎先輩のお母さんに手鏡を渡され覗くと、木崎先輩のお母さんの器用な手によって、私の頭はパーティーにでも出るかの様な華やかな編み込み姿になった。


 「おぉ…凄い」


 ここぞとばかりにやってくれましたね、木崎先輩のお母さん。


 これ、解いたら髪の毛チリッチリになりそう。


 弟に見られないように解かなくては…。アイツは絶対『チン毛頭』って言って、指差して笑うに決まっている。


 鏡を見ながら、帰宅後の心配をしていると、


 「全然帰って来ないから、どんだけデカイうんこしてんのかと思ったら、これからどこぞのパーティーに出席するつもりなの? 早川さん」


 気付かぬ間にリビングのドア付近に立っていた、明らかに機嫌の悪い木崎先輩から、刺々しい言葉が飛んできた。


 きっと私に、木崎先輩のお母さんと仲良くなって欲しくないのだろう。

 

 「なんで素直に『カワイイ』って言えないのかしらね、このコは。だからモテないのよ」


 木崎先輩のお母さんが、木崎先輩に向かって『イィー』と歯を見せながら顰め面をした。


 『そのリアクションは若干古いな』と思いつつも、やっぱり可愛いかった。


 そんな木崎先輩のお母さんの顔を見て、木崎先輩が困った様に、でもちょっと嬉しそうに笑った。


 …このマザコンめ。


 「あ、ねぇ、莉子ちゃん。今日ウチで晩ご飯食べて行かない? 今日、カレーにしようと思ってて、お肉もたくさんあるし、カレーっていっぱい作った方がおいしいし」


 木崎先輩のお母さんが、『グッドアイディア』とばかりに自分の左手のひらに、右手の拳を『ポン』っと置いた。


 その古いリアクションは、可愛いから許されるけど、ウチのお母さんがやったら処刑モンだわ。


 そんな木崎先輩のお母さんは、ニコニコ笑って私を見ているけど、その隣にいる木崎先輩は、物凄い目で私を睨んでいた。


 分かってる。そんな怖い顔をしなくても、ちゃんと分かっているのに。

 

 「折角ですが、多分ウチも私の分を用意してくれていると思うので…」


 木崎先輩のお母さんの誘いを断ると、『よしよし』と木崎先輩が頷いた。


 そんなに分かり易く嫌われると、ダイレクトに傷つく。


 「そっかー。じゃあ、次遊びに来る時は晩ご飯ご馳走させてね」


 残念そうな顔をする木崎先輩のお母さんに、


 「是非」


 大嘘を吐いた。


 もう、ここに来る事はないだろう。木崎先輩が私をここに呼ぶ事は、2度とない。


 「じゃあ、私はお暇しますね」


 高そうなソファにより、緊張しすぎて変に筋肉痛になったお尻を上げて立ち上がった。


 早く帰って、背もたれが3段階に調節出来る安ッいMY座椅子で寛ぎたい。


 「湊、莉子ちゃん送ってきなさい。その間にカレー作っておくから」


 木崎先輩のお母さんが『行け』とばかりに、木崎先輩の膝を叩いた。


 いい、いい。そんな事しなくて!!


 「ひとりで帰れますから!!」


 必死に両手を振って拒否。


 だって木崎先輩、この上なく嫌そうな顔してるし。


 「カレーは俺が作るから。俺が戻って来るまでオカンは何にもしなくていいから」


 木崎先輩のお母さんにそう言うと、木崎先輩が『行こう』と私の背中を軽く押した。


 …え? 木崎先輩は私を送ってくれようとしているの?


 「ハイ、始まったー。このコ、私が車椅子だからって『料理も洗濯も掃除も全部自分がやる』って聞かなくて。ほんっとマザコン。いい加減気持ち悪いでしょー? ねぇ、莉子ちゃん」


 面白くなさそうに私に同意を求める、木崎先輩のお母さん。


 『ねぇ、莉子ちゃん』て…。 


 確かに木崎先輩は若干マザコン気味だと思うけど、それは木崎先輩のお母さんの足の事を過剰に気にしているからだからだろうし。


 「気持ち悪くなんかないですよ。凄く優しいなって思います」


 当然私は優しくなどしてもらえていませんが。


 という言葉はぐっと飲み込んで返事をすると、『まぁ、優しいとは思うけどねー』と木崎先輩のお母さんがちょっと自慢気な顔をした。


 自分の息子を褒められるのは、やっぱり嬉しいのだろう。

 

 ご機嫌な木崎先輩のお母さんに挨拶をして、木崎先輩とマンションを出た。


 『オカンに言われて仕方なく送ります』感を全面に押し出した木崎先輩と並んで歩く。


 …空気が重い。そんなに嫌なら別にいいのに。全然1人で帰れるのに。私、高校生なんだから。てゆーか、むしろ1人で帰りたい。


 「…あの、駅まででいいですから」


 機嫌の悪そうな木崎先輩に、遠慮がちに話し掛ける。


 「当たり前だろ。早く戻らないとオカンが勝手にカレーを作り出す」


 一刻も早く帰りたい木崎先輩に、私を家まで送る気など更々なかった。


 言わなきゃ良かった。無駄に傷ついたし。

 

 そして沈黙。


 木崎先輩にとって、仲が良いわけでもない…と言うか、大嫌いの部類に入っているだろう私に話したい事など、『お前の母親の不倫をやめさせろ』しかない。


 そんな木崎先輩が、私の為に話題を考えて振ってくるなんて事を、するわけもない。


 無言の気まずい時間が流れる。


 …何か、たわいもない話はないだろうか。


 「…木崎先輩のお母さんも『綾子』って名前なんですね」


 気まずすぎて何を思ったか、全然たわいもなくない話をし出してしまった。


 自分の阿呆さ加減に驚愕する。


 木崎先輩の右眉が『ピクッ』と動いたのが見えた為、視線を合わさぬ様慌てて明後日の方向を見た。


 「呼び間違えようもない女と不倫。ふざけてるよな、親父」


 怒りを握り潰すかの様に、木崎先輩が『ぐっ』と拳を握った。


 「……」


 最早返事もしない。もう黙っていよう。余計な事は喋らない。


 木崎先輩の気分が悪くなるだけだから。なのに…。

 

 「早川さん、ウチのオカンと随分仲良くなってたみたいだけど、またウチに来るの? 晩ご飯を一緒に食べよう的な話になったけど」


 木崎先輩が話しかけてきた。


 喋らないわけにいかない。


 分かってる。ちゃんと分かっているから。


 私はそんなに無神経じゃない。


 「心配しなくて大丈夫ですよ。もう、行きませんから。私だって心苦しかったです。木崎先輩のお母さんに本当の事を隠して親切を受ける事。そんな事、してもらえる立場じゃないのに。…騙してるみたいで辛かった」


 言いながら泣きそうになった。


 正直、結構しんどかった。


 俯いたら零れ落ちそうな涙を、これでもかと目をカッ開いて風に当てて乾燥させてやろうと試みる。


 泣いて済まされる話じゃない。泣いた所で許されるわけがない。

 

 「…ゴメン」


 私と同じような表情を浮かべながら、木崎先輩が謝った。


 木崎先輩は何に対して謝罪しているのだろう。


 何の『ゴメン』なんだろう。


 『もうウチには呼んであげないから』のゴメンだろうか。『辛い思いさせてゴメン』という事だろうか。


 前者のような気がムンムンにするけれど、後者の方が自分に都合が良いから、後者って事で解釈しよう。


 だってそうじゃなきゃ、嫌われすぎて鬱になりそう。

 


 駅に着き『それじゃあ』と木崎先輩に軽く頭を下げ、改札を抜けた。


 向かいのホームに行くべく、階段を上って渡り通路を歩く。



 ふいに緊張の糸が切れた。



 「…もう、嫌だ」


 蹲って泣いた。



 終わらそう。やめさせよう。


 今日、お母さんと話し合おう。

 



 家に帰ると、お母さんは既にいてキッチンで晩ご飯を作っていた。


 キッチンから繋がるリビングでは弟がゲームをしている。


 だから、今は話せない。


 「ただいま、お母さん。ちょっと話があるんだけど」


 鞄から空のお弁当箱を取り出し、食洗機に入れながらチラッとお母さんに視線をやると、何の話か察しのついたお母さんが眉間に見た事もない深い皺を寄せ、


 「忙しいから、また今度にして」


 また私をスルーした。


 「いつなら時間あるの?」


 スルーされてる場合じゃないから食い下がる。


 お父さんも木崎先輩のお母さんも、まだ気付いていない。


 今ならまだ間に合う。今なら、無かった事に出来る。


 母親の悪事を隠蔽する事は、決して良い事ではない。


 でも、これが得策なんだと思う。


 私はこれからも、今まで通り平和な日々を安穏と暮らしたい。なのに、


 「暫くずっと忙しい」


 お母さんは私の方を見もせずに、弟でさえしない様な幼稚な返答をして、私との話し合いを拒否した。


 突っ込みどころ満載の私の頭にも気が付かない、お母さん。


 お母さんは、自分の事しか考えていない。


 お母さんへの嫌悪感が止まらない。

 


 その日から、お母さんが私を避け出した。


 話しかけても返事もしない。


 お母さんに一方的に文句を言おうにも、寝室に逃げて鍵をかけたり、お父さんや弟の傍に行って言えない様にしてみたり。


 お母さんは、不倫をやめる気などないのだろう。


 お母さんに、心底ガッカリした。


 どうしたら、お母さんの不倫をやめさせられるのだろう。


 不倫を続行するつもりのお母さんは、私の話には聞く耳を持たないが、それでも毎日私のお弁当を作ってくれる。


 他所の旦那に現を抜かしてようとも、決して家事には手を抜かない母。


 家庭を蔑ろにしないのは、後ろめたさからなのか、お母さんなりの誠意なのか。


 たとえそれが誠意であろうとも、不倫は許される事じゃない。


 私にバレようとも不倫を終わらせようとしない母は、きっと本当に木崎先輩のお父さんの事が好きなのだろう。



 母が、恋をしてしまった。


 そして今日も、そんな母が作ったお弁当を鞄に入れて学校へ行く。

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