ノリックという現象

 阿部典史選手に初めて会ったのは、彼がアメリカバイク修行から帰ってきた16歳か17歳のときだったと思う。クラブマン誌で連載されていた高橋サトシ氏のTDMプロジェクトでノリックがTDMを乗ったときのはずだ。


 サトシさんに紹介された彼はまだまだ子どもという雰囲気で、ヒョロヒョロっとした背の高い子だなあという印象だった。


「アメリカでバイク修行」「ダートトラックでトレーニングを積み重ねた」という話は、いわゆる“峠上がり”のライダーがレース界でのし上がっていくという道が当たり前だった当時、とても新鮮に感じられた。

 そればかりか、「中卒」で高校には行かず「世界を目指すために」「アメリカにバイク修行」という一連の行動は、当時のわたしにとって、いや、バイク界にとって理解の範疇を越えていたのではないか。


 初めて会ったときと前後して、筑波選手権でのレースを幸運にも私は見ることができた。すでにパドック中に「スゴいライダーがいる」との噂が流れていて、前評判を確認すべくギャラリーが金網に群がっていたような記憶もある。


 筑波サーキットの第一コーナーと第一ヘアピンで見たノリックの走りは、ライン取りも走り方もライディングスタイルもこれまで見たことのないものだった。

 その後来日したスーパーモタードのライダー、ボリス・シャンボーンを見たときと同様の衝撃だった。コーナー入り口ではすでにカウンターが当てられ、両輪スライドしながらコーナリングしていくのだ。

 その走りが「危険行為に当たる」とかなんとか、タワーに呼び出されたというような噂も聞いたような気がする。


 ノリックはそのまま名門ブルーフォックスにスカウトされて、全日本最高峰クラス最年少チャンピオン、そして世界GPへ。あどけなかった彼は一気に時の人となり、二輪業界にいるわたしにでさえ雲の上の人だったけど、雑誌で、テレビで見る彼の走りや名前を見つけるたび、いちファンとして応援してきた。


 お父さまも含め、何度か挨拶程度にお会いする機会はあったのだけど、ノリックと最後にしゃべったのはこの8月のことだった。モトナビカフェというイベントに呼ばれ、そろそろ帰ろうかなと思ったとき、ノリックはわたしのヘルメットを見て「かっこいいですね、どこで塗ってるんですか」と気さくに話しかけてくれたのだ。

 実はわたしのヘルメットのデザインの原型には、初期のノリックデザインに入っていた☆を入れて欲しいとリクエストした経緯がある。そのことを伝えると、とても喜んでくれたのだった。


……などと自分語りしてもしょうがないんだけど。


 二輪レース界にとってノリックは、もはや“ノリックという現象”にまで昇華したのではないか、と思う。

 90年前後の時代、ロードレース界で上がっていくには、峠上がりのライダー→子どもの頃からポケバイ、ミニバイクに勤しんでいたライダー、というように変化していて若年齢化が始まっていた。しかし、海外に行ってまで修行しようというライダーの先駆はやはりノリックではなかったか。子どもの頃から、目標は世界GPに行くこと、ではなく、「世界GPのチャンピオンになること」と明らかに変化したのはノリック、その世代からではなかったかと思う。


 一番最初に弔辞を読まれたヤマハ発動機会長の印象的な言葉。


「二輪軽視のドライバーがいなくならない限り、悲しい出来ことはこれからも起こりうる。自工会(自動車工業会)の理事としても啓蒙を続けることを誓う」


というようなことを発言されておられた。ぜひともお願いしたいし、われわれも協力したい思う。


 告別式には名前と顔の知れたレース業界の面々が集結した。大勢のファンにゼッケン81番の青い旗が配られ、小旗のさざ波にノリックは送られていった。


 背後ではノリックが最終戦鈴鹿で乗るはずだった♯81番のマシンのエキゾーストノートが響いていた。


 そして、ノリックを乗せた霊柩車が去ると、そのマシンは火を噴き、燃えはじめた。

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