わたしのバイクの原点
わたしの処女作『出たとこ勝負のバイク日本一周(準備編)』の第2章、「バイク馬鹿ができるまで」の第一項、「バイク馬鹿が育つまで」のp42~45あたりで紹介しているのだけど、わたしにとってのバイクの原点は、カブに乗っていた祖父だった。
その祖父が、2007年7月9日月曜日、亡くなった。明治45年5月生まれ、享年95歳であった。
明治45年といえば西暦1912年。マン島TTレースが始まったのが1907年。1912年のTTは平均速度が時速約40~48マイル(=時速64~77km)という時代。活躍していたメーカーは、ダグラス、スコット、トライアンフ、マチレス、インディアン、DOTなどという時代だ。
個人的なはなしではありますが、わたしのバイク乗りとしての原点である祖父との思い出など書こうと思う。
祖父の危篤が知らされたのは、イタリアで行われたトライアンフのニューモデル試乗会に出発する2日前で、急遽、7月2日(月)に甲府に向かった。本当はその前から入退院を繰り返していたというが、その報はわたしのところまでは届かなかった。“大人”たちのいろいろな思惑があったのだろう。悔しいけれど仕方ない。
とはいえ、実のところ、この20年ほどの間に祖父に会ったのは4、5回しかない。
思い出深いのは、19歳のころ、初めて自分のバイクを買ったので嬉しくなってカワサキ250CSに乗って一人で甲府まで走って行ったことだ。
高速道路に乗り、一人で100km以上走るというのは、当時のわたしにとって大冒険であった。同じ(?)バイク乗りの祖父に、バイク乗りになったわたしを見て欲しかった。その当時も祖父は原付に乗っていたけれど、「カブ」と呼ぶそのバイクはどう見てもスズキ・バーディであった。
「ゆきちゃんのそのヘルメットは高そうだけど、いくらか? 3000円か? 5000円か?」
と桁違いの数字を聞くので、「うん、まあ、そんなもんです」と3万8000円という本当の数字を言えないでいた。
祖父とはあまり会ったことがなかったので、こんな風にいつも敬語で話をしていた。祖父と会うというのに、菓子折りを持って行ったことが場違いで、「あんまり気ぃ遣うな」とくぎをさされた。
3年前、自著を出版し祖父の話題にも触れていたので、今度はGPZ900Rで会いに行った。あまりにも久しぶりだったので、老人ホームで祖父は「どなたかな? ヘルパーさん?」と混乱した。いろいろと説明して「ああ、なんだゆきちゃんか」と気付いたものの、わたしの本に自分が出ていることにピンとこなかったようで、最後までキョトンとしていたことが印象的だった。
「耳も目もしゃんとしているので、あと3年くらいは生きられそうだ」
そんな祖父の予告通り、3年経って今年、いっきに具合が悪くなっていったようだ。
先週、見舞いに行ったとき、病室に入り酸素マスクを付けた祖父は痩せこけていたが、わたしはすぐに自分の祖父だと解った。
そして、奇跡的とも言っていいが、祖父も祖父で目をまん丸くしてわたしが来たことに驚いていた。
話もできない、意識も混濁している、目でしか意思疎通ができないと聞いていたのだけれど、わたしの一人語りに対して祖父は全てを理解し答えようとしてくれた。
「なにかして欲しいことある? 欲しいものある?」
とたずねると、わたしの手を取って、太ももの後ろに手をやった。
「痛いの? かゆいの?」
すると酸素マスクの向こうで「いたい。。」と答える祖父。
「看護士さん呼ぼうか? お医者さんに薬出してもらう?」
と聞くと、大きく首を振った。
「さすったら少しは楽になる?」と聞くと、うん、うんと答えるので、わたしは大学院のゼミに出席しなければならなかったのだけど、ギリギリの時間まで祖父の足や肩、腕をさすった。
さすりながら、自分の近況を報告した。今は学生もやっていて、バイクのレースのことについて研究していること。明日から仕事でバイクに乗りにイタリアへ行くこと。1週間後に帰ってくるからそれまで待っていてね、またすぐ来るからね、と。
祖父の身体をさすりながら、祖父の気持ちをいろいろと想像してみた。きっと祖父はもう自分の命が長くはないことを自覚しているだろう。それでも、痛い、と意志表示するのは生きる力を失っていないに違いない。天井しか仰げない病室で一番辛いのは退屈、そして寂しい気持ちではないだろうか。病室を見回すと祖父のベッドにだけテレビがないことに気がついた。それに、花や写真などもなく殺風景なベッド周り。
「おじいちゃん、テレビは? テレビ見たくない?」
尋ねると、ちょっと悲しそうな顔をして、違う、とか、いらない、とか言う。もしかして、老眼鏡がないから見えないのかな、とも思った。それで、次に来るときはラジオを持ってこよう、飾る写真を持ってこよう、握っていると安心できるような小さなぬいぐるみを持ってこよう、などとあれこれ思考を巡らした。
「おじいちゃん、もう行かなきゃ。そろそろ」
そういうと、目に涙を浮かべて、イヤイヤをする祖父。細く細くなってしまった腕を目一杯上げて、何かをしようとしている。何かと思ったら、わたしの頭を撫でてくれた。
後ろ髪をひかれたが、ゼミが終わる時間ギリギリ(出席できないとしても欠席の事情を教授に話はできると思ったからだ)まで数時間はいただろうか。帰り際、ベッドのかたわらに置いてあった数日前の新聞を見つけ、少しは退屈しのぎになるだろうと思って、「おじいちゃん、新聞読む?」と聞くとうなずくので、ベッドに新聞を置き、差し出す手を握り、そして病院をあとにした。
涙で風景が霞む帰り道、イタリアから帰ってきたら、できるだけ外出予定がないときは甲府に通おう、ニンジャ19万㎞まであっと言う間になるなあ、などと決意したのだが。
日曜日にイタリアから帰ってきて、月曜日にゼミの発表があったので必死に最後のまとめとレジュメを作り、なんとか発表が終わったそのころ。祖父は息を引き取ったそうだ。訃報が入ったのは火曜日の夕方。大人の事情があったのだろうか。もう一度、ひと目会えなかったことは残念だったけど、最後に来週またねと約束をし、帰国後の月曜日までおじいちゃんはわたしを待っててくれたに違いないと勝手に思っている。
葬儀の席では祖父の思い出話をあまり聞けず、最後までぼんやりとした祖父像しか描けないのだが、わたしの本を祖父はたいへん喜んでくれていたらしいことを知って嬉しく思った。
寡黙でいつも本や新聞を読んで過ごしていた祖父。ものを書くのも好きで、当時はまだ珍しかった自費出版までした祖父。わたしのバイク乗りとして、もの書きとしてのDNAのルーツはこの祖父にあると思っている。
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