ベルギーでトルコに思いを馳せる(完結編) ――海外でひとりパブに挑戦の巻
この2004年の「ベルギー経由マン島TTレース取材ののちベルギーでレース参戦の旅」は、いま思い出しても今までのバイク旅のうち5本の指に入る珍道中であった。
初めての海外レース参戦、さらにはベルギーという場所柄あまり英語が通じず、ましてやBMWを現地で借りてのレースであり、緊張しっぱなしで3日間サーキットゾルダーを走りまくった。
最終日のスプリントレースでは、ジャポネーズ(日本人)のピローツ(選手)がボクサーツインでレースに出ていて、レース中に二度もアクシデントに遭うも、そこいら中でスネーキングしながらコーナーに進入する、というのが大ウケして、超満員の観客から拍手喝采を受けたのだった。
そこまではよかったのだが、3日間のコーチ役だったピーター先生たちはとっとと帰ってしまって、昼ごはんも夜ごはんも食べ損ねてしまった。
お腹ペコペコで宿に戻ると、併設している食堂もパブも明かりが消えて真っ暗。そういえば、ヨーロッパ諸国ではいまだに宗教上の理由で日曜日に店を開けない地域があるのだった。確かに、サーキットから宿までの道すがら開いている店はほとんどなかったように思う。
いったん部屋に戻ってバッグをあさるものの、非常食はこの3日間で完全に食べ尽くしていた。
腹減った。腹減った。腹減ったーー!!
どこかコンビニかパブが開いてないだろうか。宿主に聞きたくても、誰も出てこない。仕方なく、そのまま外に出てあたりを見回してみると、遠くにぼんやり明かりが見える。思い切って、近くまで歩いていって見ると、そこには確かにパブのような看板が。さらに近寄ってみると、中からワイワイと声が聞こえる。周りに何もないわりには、けっこう繁盛しているパブのようだった。
パブならサイアクでもビールのつまみにスナック菓子かナッツくらいは置いてあるだろう。もう、この空腹には耐えられない! ええい、ままよ!
思い切ってドアを開けてみると……。
大音量のBGM。タバコで煙った店内。
それまでガヤガヤと話していたのに、中にいる男たちがおしゃべりを止めて、一斉にこちらを振り向く。西部劇でおなじみの、あの光景だ。
「おめーさん、見たことねぇ顔だな? どこのもんだ?」
……なんてことは言ってないけど、いかにも葉巻を加えたボスがそう尋ねてきそうな雰囲気である。すわ、二丁拳銃で構えなければならないのか。いや、丸腰だし。
いかん。これはもう完全にアウェーですわー。泣きそう。でも、どうしようもなく腹が減っている。
もちろんサイアクの場合を考えて、カメラも持たなければ財布も持ち合わせてはいない。キャッシュはGパンのポケットの中だ。とはいえ、メモ帳とレースの写真は持ち歩いていたのだけど。
アウェーでの正しい振る舞いは、笑顔で接することだ。髪の毛一本から爪先まで舐めるように眺められているのを感じつつ、笑顔で気にしていないフリをしてカウンターに向かう。
「ビールいただけますか?」
なるべく丁寧な英語で注文してみたが、どうやら英語は通じないっぽい(涙)。そこで、こんなときは単語を並べればよい、とこれまでの海外旅で学習していたので、
「クリーク、プリーズ!クリーク、シルブプレ! クリーク、ビッテ!」
今度は英語、フランス語、ドイツ語と知っている限りの単語で注文をしてみた。
すると、様子をうかがっていた男たちの中から、ひとりの背の高い男性が周りの人たちに促されて声をかけてきた。彼は流暢ではなかったが英語で「何を飲みたいの?」と聞いて来た。
少し冷静になってパブの客たちを見回してみると、ベルギーにしてはエスニックな雰囲気の人ばかり。彼らが話している言葉もどうやら、フランス語やフラマン語やオランダ語、ドイツ語ではないっぽい。どうやら、店の客で唯一、英語をしゃべるのが彼だったようだ。
「クリークが飲みたいです」
そう答えると、誰かがカウンターに小銭を差し出し、自動的にビールが差し出された。
とりあえず、ビール。
一気に飲み干すわたしの姿を、男たちはじーっと見ている。
「あなた、中国人? 韓国人?」
海外に行くと、わたしの平坦な顔はよく中国人に間違えられる。みんな、場違いなわたしに興味津々だ。
「日本人ですよ、ジャポネーズ。って言うか、お腹空いてるの。何か食べ物はありますか?」
おそらく、「おーい、この子、お腹空いてるんだってよ!なんか食べ物を!」なんて言っているのだろう。口々に声をかけあってくれている。
しばらくすると、ピザやちょっとしたつまみが運ばれてきた。
ガツガツ食べていると、どうしてここに一人で?と、さきほどの唯一英語を話せる男性が尋ねてきた。
ここは、いつものサーキット走行写真の出番である。カメラもパスポートも置いてきたわりには、そういうものは抜かりなく持ってきてあったのだ。
写真を取り出すと、取り囲んでいた男たちが一斉に感嘆の声をあげる。……と同時に、写真は次々に手渡され、全ての客に回っていった。
今日はサーキットゾルダーでBMWのレースに出たんですよ、それでお腹がペコペコ、と先ほどの男性に英語で伝えると、それを逐一通訳してみんなに伝える。アラビア語系、フラマン語、フランス語。いろんな言語に翻訳されてゆく。
わたしがバイクに乗る、レースもしている日本人女性だとわかると、それまで遠巻きに見ていた客まで次々に寄ってきて、口々に「ブンブーン!」と言いながらバイクに乗るしぐさをしたり、「オンダ!」「カワザーキ!」などと知っている単語を並べたりと、大騒ぎになってきた。さすがは世界の共通言語、オートバイ。男子ならみんな大好きオートバイ。言葉はわからなくとも、オートバイネタならこうして仲良くなれるのだ。
そうしている間にも、料理は自動的に運ばれてきて、すっかりお腹が満たされた。
すると、今度はダーツをやろう、ビリヤードをやろうと誘われ、誘われるがままに仲間に入れてもらった。
しばらくすると、テーブルを囲んで筆談まじりでおしゃべりが始まった。なんでも、英語がしゃべれる男性はギリシャ人で、ダーツやビリヤードに誘ってくれた男性はトルコ人だということだった。他の客も、中東や東欧の人たちばかりだということだった。
トルコ人の男性は特に親切にしてくれたのだけど、どうやらトルコに住んでいたときに現地の日本人にとても親切にされた経験があるということだった。
名前を教えて、というのでメモ帳に「YUKI」と書くと、「同じだ! 同じだ!」と喜びながら、自分の名前を書いてくれた。
その名前は「Y」から始まる名前で、同じと言っても「Y」しか合っていない。それでも、共通点を見つけた彼はいたく喜んでいて、日本語でどう書くのか、タトゥーを入れたいから漢字を書いてとせがむ。
そうこうしているうちに、彼の後ろに列ができ、にわかタトゥペインティングの原画屋さんみたいになってしまった。
やっと落ち着いたところで、トルコの人に質問をしてみた。
「どうしてベルギーに住んでいるの?」
ギリシャ人の通訳を介して話を続ける。
「どうしてって? わからないよ」
わからない? 意外な返事に、戸惑ってしまった。
「誰か家族の引っ越しに付いてきたとか? 働きに来た移民じゃなくて?」
「違う、違う。自分はトルコ人と言ってもマイノリティの民族出身で、今はトルコも平和になったみたいだけど、内戦があって自分は難民だったんだ。で、わけがわからないうちに、難民の国際機関がベルギーに行けって言うからベルギーにきたわけ」。
さっきまで、陽気にバイク談義で騒いでいた人たちに、そんな背景があっただなんて。日本に住んでいると、国を追われるということがまったく想像も付かない。
そういえば、ベルギーのバイク雑誌編集長が謎の書き置きで紹介してくれたキリコさんも同じような話をしてたっけ。なんでも、国の機関の仕事でアフリカのどこかの国で働いていたのだけど、暴動が起きたので国外退去になって、指示されたのがベルギーへの移動だった……と。
他の客たちも似たようなもので、日曜日も開いているこのパブは、難民や労働移民たちのオアシスのような場所だったのだ。
あとで調べてわかったのだけど、トルコ人の彼が日本人のわたしにいたく親切にしてくれたのは、おそらく「エルトゥールル号遭難事件」という歴史的な出来事によるトルコと日本の友好関係がもたらした親日感情だったに違いない。
思わぬ場所で国際関係に思いを馳せることとなり、心地良い気分のまま宿へと戻った。
翌朝は、いつものように陽気な宿主が「レースはどうだったかい?」と声をかけてくれた。レースそのものの報告もしたかったのだけど、夕べのパブでの出来事があまりにも楽しかったので、
「夕べはホテルのパブが休みだったから、あそこのパブに行ったらすんごく楽しくて……」
そう話始めるや否や、宿主の顔色がみるみる険しいものに変わった。
「あんなところ、一人で行ったのか?! 絶対女性一人で行ったらダメなところだぞ! いいか、あそこは何度も麻薬で警察が来て何人も逮捕されているんだ! ベルギー人は絶対に行かないんだぞ! 移民は悪いヤツばかりなんだ、もう絶対行くんじゃないよ!」
思いがけず、エラい剣幕で怒られてしまった。いや、本当に心配してくれているのだ。
確かに異国の地で夜、女一人でパブに行くだなんて、今考えても無謀な行為だったと思う。パブを出るとき「送っていこうか?」と尋ねられたのだけど、最終的にはさすがにそこまで信用もできず、丁重にお断りして、ドアを出た瞬間ダッシュで宿に戻ったのだった。
そんなわけでベルギーの珍道中は、人生初の海外ひとりパブを経験し、中東系の皆さんに親切にしてもらい、トルコの歴史に思いを馳せ、しかしながら国際情勢にも心を痛め、最後は宿主の愛情あるお叱りに感謝しつつ幕を閉じた。
この旅以降、トルコの話題を見聞きするたびに、あのベルギーのパブでの出来事を思い出すのである。
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