ベルギーでトルコに思いを馳せる(中編)「海外レースに初挑戦」
「もて耐に出場したらチーちゃんと仲良くなり、ミュンヘンのショーに一緒に行ったらベルギーのバイク雑誌編集長と知り合い、翌年マン島TT取材はベルギーでバイクを借りて行くことになったが、謎の指令によりベルギーでレースにも出ることになった」。
このような顛末で、ベルギーのゾルダーというサーキットに一人で向かったわたし。というのも、レース参戦を誘ってくれたベルギーのバイク雑誌編集長はサーキットに来ることなく、編集部もろともモロッコツーリングに出かけてしまったからだ。
ひとりゾルダーの小さなパブ兼レストラン兼ホテルに投宿し、金曜日の朝、サーキットに向かった。
移動の足として与えられたT-MAXには「ゾルダーに着いたらピーターに連絡せよ」という謎の指令メモが貼り付けてあった。しかし、そのピーターさんの苗字も連絡先も書いてない。
不安を抱えたまま、革ツナギやらレーシングブーツやらを積んでサーキットに入り、受付でうろうろしていると……。
「Hi! Are you Yuki? I’m Peter!」
と声をかけられた。
それもそのはず、ベルギーにピーターやらペーテルはごまんといるだろうが、日本人、ましてや女性でレースに出ようなんてやつは、わたししかいない。向こうからしたら、連絡先なんかなくたって簡単に見つけられるわけだ。
ピーターの説明によればどうやら、3日間のイベント日程で彼はわたしの先生役となってくれるようだった。第1日目の金曜日は練習走行日。第2日目土曜日はBMWボクサーカップの1時間耐久レース。そして第3日目日曜日は同じくボクサーカップのオランダ選手権のスプリントレースが行われるという。
わたしはどのレースに出るのか尋ねると、「両方!」と答えるピーター先生。今日はどの枠をどれくらいの時間走れるのか尋ねると、「走りたいだけ全部!」とピーター先生。驚いたことに、走れる枠とは午前9時から午後5時までみっちり8時間もあるのだった……。
ときどき並走しながら走りをチェックするピーター先生。2時間もぶっ続けで走ると、手のひらや足の親指の付け根に豆が出来てくる。そんなことはお構いなしに走り続ける先生とわたし。
だんだん調子に乗ってきたところで、先生に止められた。なんでも、ゾルダーの裏の直線路は住宅に近く、騒音規制があるから何回転以下で走れ、とのこと。それ以上出すと罰金を払わなきゃいけないよ、と。そんなこんなで1日目終了。1日じゅう走っていたのでお腹はペコペコだったが、ピーター先生たちはとっとと帰ってしまった。仕方ないので、着替えて宿に戻ることにする。
宿に戻ると、金曜日の晩だからか、パブとレストランはたいへんに賑わっていた。荷物を置くまでもなく、店主に呼ばれて一杯ごちそうになる。あの可愛らしいルビー色をしたクリークというフルーティなベルギービールだ。
ちびちび飲んでいると、店主はお客さんたちにわたしを紹介してくれ、次々にわたしのサーキット走行の写真を見に来たり、次の飲み物を持ってきてくれたり、しまいには食べ物の差し入れまでいただいちゃったりして、結局この日は財布を開くことなく夕飯にありつけてしまった。
翌土曜日。いよいよレース本番の日である。この日はBMWのワンメイクだけでなく、他のいろいろなレースが開かれるということもあって、パドックは大賑わいだった。 肝心のレースは、最後尾スタートで最後尾ゴールだったけれど、1時間を一人で走る耐久レースをなんとか走りきった満足感でいっぱいだった。ゴール後は、他のチームに誘われるがまま、まるでGPサーカスがごとくシェフまで準備しているケータリングの食事にありつくことができた。
宿に戻れば戻ったで、昨日と同じく店主の計らいでいろいろな人と飲んだり食べたりすることができて、1日の疲れが吹っ飛んだのだった。
最終日の日曜日。この日はオランダ選手権が開かれたり、人気のスタントバイクのショーがあったりで、ベルギーだけでなくオランダ、ドイツからも多数観客が集まり、6万人もの観客がゾルダーを埋めつくした。その賑わいはラジオで渋滞が報道されるほど。レースに誘ってくれたバイク雑誌編集長からは、そんなビッグイベントだとはひと言も聞いていなかったのに。
イベントの締めくくりは、わたしが出場するボクサーカップのスプリントレースだった。他のライダーはほとんどがヨーロッパ選手権ステイタスかそれに近いレベルのライダーばかり。そんな中、足も着かないBMW R1100Sに日本から来た小柄な女性ライダーが乗るとあって、観客も参戦ライダーもわたしに興味津々だった。とはいえ、またしても予選ギリギリ通過という状況で、誰もかまってはくれなかった。
周りはみな190cmはあろうかという大柄なオランダ人男性ばかり。スタート前のグリッド紹介が始まると、なぜかその大男たちがコース際の壁に向かって一列に並んでいる。何をしているのかよく見ると、革ツナギのジッパーを下ろし、コース上で“立ちション”をしているのだった……。
これには思わずズッコケた。それまで、ガタイのいい大男に囲まれて(コワイよ~)と泣きそうだったけど、大男とて緊張するときは緊張するのだ。トイレくらい行っとけよ~、とか、コース上で放尿が許されるのか、おおらかなお国柄だな~、なんて思ったら、少しだけ緊張がほぐれてきた。
さて。
レースが始まると、すぐに目の前でアクシデントが起こった。スタート直後、中盤を走るライダーがコース上で転倒し、マシンとライダーがコース上に残ってしまった。急ブレーキでなんとか避けることができたものの、わたしは大きく出遅れてしまった。
1周して現場に戻ってくると……。
目の前のシケインにはなんと、オフィシャルたちが飛び出してきたではないか! 慌ててリアタイヤがスネーキングを起こすほどの急ブレーキをかける。なんとか彼らを交わして再スタートすると、背後の観客席からはヘルメット越しに聞こえるほどのブーイングの嵐が起きていた。
どうやら、コース上に残っていたマシンとオイル処理をしようとしたオフィシャルたちが、全車通過したと勘違いして飛び出してきたようだった。
気を取り直して、最後尾の一人旅を続ける。
転倒現場では、事故回避と先ほどのオフィシャルの一件で2度の不運に見舞われたわたしを、耳をつんざくほどの声援で観客たちが懸命に応援してくれているのが聞こえる。
しばらく走っていると別のコーナーでひと際、大きな声援が上がっているのに気がついた。だんだん走りに調子が出てきて、ストップ&ゴーの多いゾルダーのそのコーナー進入ではリアタイヤをスネーキング気味でブレーキングしていたのだが、どうやらその走りが観客たちのお気に召したようだ。レースアナウンサーもそれらの騒動に気づいたようで、後半はわたしの名前ばかり叫んでいるのがヘルメット越しに聞こえたし、あちこちのコーナーでわたしに向かって歓声があがっているのが聞こえた。
後にも先にも、ヘルメット越しに観客の歓声が聞こえるレースなんて、あの経験以来したことがない。
そんなこんなで、最下位ではあったが無事チェッカーフラッグを受けると、ピットに戻った途端に大勢の観客たちに囲まれてしまった。中にはサインをねだる人もいたりして、レースはほぼビリだったのに、にわかにヒロインになった気分だった。
余韻に浸っていると、あっと言う間にイベントは終わり、チームや売店も店を畳んで帰ってゆく。
きっと、夕飯はピーター先生が誘ってくれるだろう……と思ったら甘かった。「じゃ!」と言って、あっと言う間にひとり取り残されてしまった。
げ、限界だ……。こ、このままでは“飢える”(←バックナンバー「旅とひとりメシ」参照 )。
いや、でも宿に帰れば、あの温かい雰囲気のパブ兼レストランでご飯が食べられるだろう。早く、宿に戻ろう。
ゾルダー最後の晩の楽しみを宿のメシに託し、ひとりT-MAXを走らせる。
宿主がわたしのバイクの防犯のために開けていてくれたパブのバックヤード。いつものようにそこに停めると、なんだか違う雰囲気に気付く。
木曜日も金曜日も土曜日も、いつもは賑やかなおしゃべりと美味しそうな匂いが店から漏れてくるのに、今日はシーンとしている。パブの明かりは消え、「ハロー?」と声をかけても、誰も出てくる様子がない。
(しまった! 食いっぱぐれてしまう……)
こんなとき、悪いことは続くもので、日曜日なので近隣のコンビニのような売店は全て閉まっていたし、そういえばレストランのような店も閉まっていた。手持ちの非常食も三日間のサーキット走行中に底を付き、本格的な“腹ペコ”がわたしを襲った。
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