嘘つきの嘘

第1話 嘘つきの嘘

午前7時10分。

まだ誰もいない校舎に上履き代わりのスリッパが廊下を撫でる音が響く。

閉め切られていた教室の扉を開くと、夜に溜まった夏の熱気が露出した腕や顔を包んだ。


「暑い。」


窓を全開にし、蝉の声がわっと耳を劈けば暑さがまた増したように感じたが

頬を撫でた空気は爽やかで、そこでようやく自身の席である窓際の一番後ろの特等席へ腰を降ろす。


道中で買い込んだあんぱんと牛乳を貪りながら眼前の昇降口へと続く道を見遣る。

少しばかりぬるくなった牛乳を喉に流しこんだ時、あの子の姿を見つけた。


午前7時40分

薄茶けた髪が風に遊ばれ、纏った制服はふわりと揺れる。

いつものように他の生徒達に紛れるように登校してくるその姿をただ追う。


教室にも一人、また一人と生徒達が集まってきた。

もう少しであの子が昇降口に吸い込まれて行く。


「おはよ!」

賑わい始めた教室の喧噪をバックに、元気な声が耳に飛び込む。

視線を声の主に向け、「おはよ」と気怠げに返しすぐに視線を元に戻す。


もうそこにあの子の姿は無かった。


「また見てたの?」

悪気無く、悪意もなく向けられた言葉に「変態みたいに言うなよ」と呆れたように返せば変わりないよと、これまた呆れたように笑いながら挨拶の主は笑った。


「告白、しないの?」

さも当然のように問われ、目を丸くする。


「なんで?」

「なんでって、なんで?」

好きなんでしょ?と言われ、またも目を丸くすると挨拶の主は違うの?と驚いた表情で問うた。


「違う、でしょ」


思考は停止しながらも、その言葉だけは口からついて出た。


あの子に対しての感情が恋愛感情だなんて事は考えた事も無かった。


恋にしては、この気持ちは稚拙すぎる。

好意にしては、興味を持てていなさすぎる。


あの子の学年も、名前も、交友関係も、何も知らない。

ただ知っているのは、毎朝登校してくる大体の時間と

あの薄茶けた髪の毛が風に揺れる様くらいのものだ。


「違う」


もう一度呟けば、挨拶の主は違うのか、と納得したのかしていないのかわからないような

そんな表情で隣の席に座った。


今まで恋愛をしてこなかった訳ではない。

故に、恋愛感情がどういったものかもわかっているつもりだ。


だからこそ、この感情を、この視線があの子を追う理由を考える事はしない。


もうすぐホームルームが始まる。

教室には生徒達が溢れかえる。


視線をもう一度階下に向ける。

そこにはもう生徒の姿は無い。


蝉の声がチャイムの音と共鳴する。


明日もきっと一番に教室に乗り込み、あんぱんと牛乳を貪りながら

あの子がやってくるのをただ見つめるのだろう。


そんな事を思いながら起立の掛け声に従う。


瞳を閉じて一度静かに息を吸い込む

閉じた瞳の奥にはあの子の笑顔と、その隣にあったもう一つの笑顔が蘇る。


着席の声に瞳を開く


そして独り言ちる


「これは恋なんかじゃない」


言葉は蝉が攫った。

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