280622 身体の中に渦巻いて暴れている不穏なものこそが大切に思えてならない

身体の中に渦巻いて暴れている不穏なものこそが大切に思えてならない


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村山由佳「ダブル・ファンタジー」(上巻)より引用


 これまでは、安らぎはなにものにも代え難い宝だとしか思っていなかったのだ。

 でも今は、なぜだろう、身体(※)の中に渦巻いて暴れている不穏なものこそが大切に思えてならない。もっと暴れてほしい。もっと苦しめてほしい。この心の波立ちを消してしまいたくない。平らに均してしまいたくない。これまで、知らぬ間に撫でつけられ、なだめられてしまったものの中にこそ、ほんとうは創作の肝にかかわる重要なものがひそんでいたのではなかったのか。


※本来は通常変換外の「身とおう」を組み合せた漢字を使用。意味はどちらも「からだ」のこと。

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 村山由佳さんは妙に描写がしっくりくることがあるので、「おいしいコーヒー」シリーズ以外はほぼ全ての作品を読んでいます。アダルトチルドレン的な話題が多いのも好きですが、性または生についての自尊心(人の心の痛み)に関する心理描写が非常に巧みな方です。

 今作は女流ドラマ作家の、女性及び物書きとしての自尊心に関する描写が圧巻で、まだ読み切っていませんが、さすがだなぁと思わせられているところです。性に関しては、(個人的には)同作家の「海を抱く」以来の突っ込んだ描写をしていてドキドキします。

 この描写は日常の安らぎに自身の創作的熱情が飼いならされてしまっていると気付き、危機感を覚えているところです。


 創作においては、登場人物の感情が一番揺れ動いた瞬間、その人生が決定的に変わった瞬間を描いてこそ、作品は盛り上がります。全部の作品がそうではありませんが、大抵はその要件を満たしたものが世に出回っていると思います。

 しかし、私たちが過ごしているのは、大抵は平々凡々な日常の中です。過去には私たちも劇的な感動や和解、あるいは怒りや飢えや嘆きを味わったことがあったでしょう。しかし、長くそれらから遠ざかると、喉元を過ぎた熱さを忘れてしまうのです。さらに言えば、自分が鬱屈として溜め込んでいたトラウマやストレスやコンプレックスといった激しいもの、それらが解消された生活に移行して長時間が経過するか、あるいは自己に洞察を巡らせる間もなく身の周りに流され埋没してしまうと、それらに入り込む感覚を忘れてしまい、描写できなくなってしまうのです。「そんなこともあったけど、今書いても仕方がないかなぁ」と通り過ぎて、その鮮烈さを思い出せなくなってしまう。長い間創作に関わっていると、こういう恐れには覚えがあるのではないでしょうか。

 自身の正負の激情は、創作の動機ともなるもので己の根源であり、本当に大事なものです。日常ではそこを表面上は冷静にやり過ごすかもしれませんが、現に自分がそれらの尊さあるいは恐ろしさに圧倒されていたときがあるはずです。そのときの情感を創作上で臨場感を持って表現するべきであり、淡々とした感慨しか語れないようでは、物語の発信者として表現の枠を致命的に狭めることになります。


 昨日の「人生は柳のようであれ」とは正反対に位置する創作のエッセンスです。いろんな意見を想定しながらも、作者自身の激情を置き去りにしてはいけません。

 創作の場合、ある程度はテーマ(中心課題)を客観的に捉えた上で書かなければいけません。だから、激情に圧倒されるのは基本的に主人公のみで、周りの登場人物らによって、客観的な見解も補足するべきでしょう。同情も反論も含めて。

 激情の渦中にいる中ではうまく作品まで書けないでしょう。であれば、その断片を残すべきです。メモや日記でも思いついたフレーズでも残せれば、それを後から見て、自身の感情を再体験する手がかりになるかもしれません。


 参考に挙げた作品では、平凡で本音をなだめられている生活自体が創作者としての自分を抑圧していると、ついには自身の生活環境さえ変えようと一歩を踏み出します。……とはいえ、現実的には、書く環境や身の周りにいるべき人まで変えることは難しいでしょう。せいぜい時間の使い方を調整したり、何をいつどう読むのかでテンションをコントロールするくらいでしょう。

 

 しかし、私も私生活のみを過ごすうちに、随分考えが落ち着いてしまったように思います。良くも悪くも分別がついたというか、諦めやすくなったというか、感情が湧く前に物事を理解してしまうようになりました。生活というか結婚生活自体が落ち着いています。仕事して疲れて、家族と過ごして、余った時間はゲームでもすれば、一日は何も考えずとも何の感慨もなく終わります。その過ごし方自体が間違っているわけではありません。波風がないというのは、仕事も家庭もそこそこうまくいっているということです。

 ただ、昔書いていたときの自身の全存在が試されるような昂揚感、かつて自分の思考を切り裂いていた己の書くための爪の鋭さ、それらをもう一度確認したくて、ここに戻ってきたんだろうなぁ。確かにそれらは、私の自尊心を形成する大事な部分なのでしょう。

 皆様にもそんな特別で不穏な激情、書き留めておきたい自身の感動、あるのではないでしょうか。あるのならメモして、創作でもエッセイでも形に昇華できないか考えてみれば、新しい作品が生まれるかもしれません。それが魔獣であれ聖獣であれ、飼い殺してしまうのは本当に勿体ないと思うのです。

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