280619 僕たちは相容れないんだ。判ったら、もうお帰り

僕たちは相容れないんだ。判ったら、もうお帰り


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唐辺葉介 「死体泥棒」より引用


「この言葉、伝わって欲しいな。多分無理だろうね。でも、僕は全然嘘をついていないんだ。だからこれはもう仕方がないんだよ」

 ~中略~。

「僕たちは相容れないんだ。判ったら、もうお帰り」


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 唐辺葉介さんは知名度の低い作家だと思います(別名:瀬戸口廉也)。

 私は好きで昔から追ってるんですが、「アダルトチルドレン」(機能不全家族に育った人)の心理、家庭へのコンプレックスに興味・関心がある方は、チェックして損のない作家さんかと思います。

 心理への没入感のある文章を書く人です。もう引退したのかな。


 これは、主人公が異性への拒絶を示す場面の象徴的なセリフです。 


 今回は『心の壁』についての話です。端的に言えば、「人と人とは違う」「ディスコミュニケーション(相互理解の不成立)」ということです。


 恐らく物書きに携わっている人、本をよく読む人というのは、大体「自分は他の人と何か違うなぁ」と違和感なり疎外感を感じたことが多いのではないでしょうか。自分の内面世界への洞察が深いということは、それだけ他人との違いを生み出します。


 これは純文学に近い領域で、主に取り上げられるテーマです。夏目漱石「こころ」なんかを思い浮かべると、語り部と先生の心の食い違いが浮き彫りになるのではないでしょうか。

「憧れは理解から最も遠い感情だよ」と「BLEACH」という有名漫画でも出てきますが、その通りだと思います。


 私たちは他人について「この人はこういう人なんだろうなぁ」と大体の感じを推測しているでしょう。

 でも、それが合っているとは限りません。その人が何を考えているのか、究極的には本人しか分かりません。もはや本人にさえ理路整然と説明できないときもあります。


 心の通じ合う作品ばかり読んでると、現実で通じ合わないことに理不尽さを感じることもあるかもしれませんが、通じ合わない方が普通な気がするのです。

 だって家族ですら、よく分からない部分ってあるでしょう。生活でやり取りする領域だけ衝突しない程度にお互いに配慮できていれば、それで十分だと思います。


 だから私はちゃんとディスコミュニケーションについて書かれている作品を見ると、何となく安心するのです。

『理解し合える』だなんて、心の麻痺や熱狂がもたらす美辞麗句や標語のようなもので、部分的な共感をお互いに前向きに解釈しているだけだと思うのです。


 部分的な共感自体は良いことではありますが、それで相手の全部が分かった気になるのは早とちりです。誰も私のこともあなたのことも全てを理解できないでしょうけど、それは当たり前のことで、悲しむべきことではありません。


 現実ではそう思ってない人も見受けられます。言えば分かると思って、誰にでも何でも思ったことを話す人もいますよね。

 それはそれで賑やかなので良いと思います。先回りして理解されないだろうと口を閉ざす人間ばかりでは、世の中暗くなりそうです。


 「誰も自分のことを全部分かってくれない」

 このことに気付くのは幼年期の終わりの一つでもあると思います。

 子どもにとって最初の他人は両親なわけです。最初は親を「すごい人!」と思って頼るのでしょうが、次第に全てを満たしてくれるわけではないことが分かってくる。そして、人との距離の取り方を覚えていくんだと思います。


 それでも誰かに「自分を理解してほしい」と思ってしまう。そして、すがりついて、理解しあえない部分に気付いて、些細な絶望を重ねていく。

 友人相手でも、恋人相手でも。過信と幻想の終わり。


 そういう風な気付きも、描きがいのあるものではないでしょうか。 



 小説手法的な話をすると、一人称(私、僕で語る小説手法)だと、あくまで語り部以外の別の人間の心理への言及はただの推測、個人的解釈になります。


 とはいえ、語り部からしか語られず、描写も小説内の記述に限られるわけですから、基本的には読者はその解釈を信用して読むでしょう。

 その解釈が裏切られて、相手の心理(真理)がやっと判明し、事態が真相に向かって進む。これだけで劇的な展開へとなることでしょう。


 裏切り、思い込みの発覚(ミスリード)、あるいは和解、思わぬ献身の発覚……。親しみ深い話で言えば「かぐや姫」や「鶴の恩返し」もこれに類します。

 その真実の発覚だけで、物語は急激に進むのです。あれは正体自体を秘めてますけど、思惑を秘めさせるだけでも、大きな物語上の効果を生むことができます。


 『語り部の変更』は頻繁にやっては読者が混乱するので、章の区切りなどの大きな節目に限定して行わなければなりません。

 そこで最初の語り部の触れた事柄が、次の語り部から触れられると全然違ったりすると面白いですよね。

「鶴の恩返し」なら、1章をおじいさん視点で展開して、2章を鶴視点で語れば、読者がびっくりするわけです。


 真相に気付いている人と気付いていない人がいる構図の小説ならば、そんな手法を使ってみるのもありかもしれません。


 私自身そういう小説を書いたことがあるのですが、楽しかったですね。またやりたいなーとも思います。作者自身も仕掛けを練るのは楽しいですし、いろんな立場で書けるのって面白いのです。

  

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