その3 恐怖とは?
トイレでの出来事に恐怖し、八槻たちとの合流にばかり気が向いてしまった生人。故に、彼の頭上に広がる天井が大きく揺れ、軋んでいることに、彼は気づけない。
生人がようやく天井の異常に気づいたのは、彼の頭に埃が落ちてきたときである。
「な、なんだ?」
足を止め、軋み揺れる天井に視線を向け、身構える生人。自分の足音がなくなり、代わりに何かを引きずるような音が、生人の鼓膜を震わせた。音は3階から聞こえる。つまり、生人の真上だ。天井から落ちる埃も増えている。上に何かいるのは、確実だった。
もはや何が起きているのか理解できない。これから何が起きるのかも理解できない。生人はその場を動けない。
動かなくて正解だった。突如として天井が崩れ、生人の目の前に人影が落ちてくる。生人は驚きと恐怖に固まってしまい、叫び声すら出せなかった。自分は幽霊なのに、幽霊に襲われるのだと、絶望していた。
「……痛いよぉ」
絶望する生人とは裏腹に、天井から落ちてきた人影は、妙に間延びした口調。状況がつかめない生人は、固まったまま。
「うん? あ、いっくん! こんなところで何してるのぉ?」
人影は、生人の存在に気がついた途端に、廃学校に似合わぬ明るい口調となる。生人も人影が誰なのか、理解した。
「レミ!」
2階の廊下を散らかした、2階の天井であり、3階の廊下であった木片。その中心で尻をさする人影の正体は、レミであった。彼女は3階の床を突き破り、2階に落ちてきたのである。
「大丈夫か?」
「お尻が痛いけど、レミは元気だよぉ」
「そうか、なら良かった。3階で何があった?」
「ええっとねぇ――」
生人の質問に答えようとするレミ。だがそんな彼女を遮った言葉が、天井の穴の向こうから聞こえてきた。
「レミは大丈夫そうね。元町くん、あんたもそこにいるんでしょ。なら聞いて」
声の主は、3階にいる八槻であった。これから合流しようとしていた人物に、あろうことかこのような形で出会えた生人。彼は八槻の言葉に耳を傾ける。
「私は幽霊に襲われた人たちを回収して、3階の理科室に詰め込んでるから、あんたとレミも理科室に来て。バカたちが幽霊に襲われないよう、守ってよ」
「分かった、3階の理科室だな。それと八槻」
「うん?」
「野川さんが1階の男子トイレで襲われた」
「はぁ……なんで左之助さんはいつもこう……」
焦りよりも、面倒くさいという表情をした八槻に、生人は思う。彼女は幽霊の命など、どうでもいいのかもしれないと。いや、どうでもいいのは当たり前だ。幽霊に命はない。彼女は幽霊という存在自体を、特に重く見ていないのかもしれない。
「左之助さんもついでに助けておく。2人は早く理科室に」
それだけ言い残して、八槻は消えていった。2階に残された生人とレミは、八槻に言われた通り、3階の理科室に向かって歩き出す。
「ねえねえいっくん、聞いてよ」
暗闇の廃墟。心霊スポットとしては満点の、恐怖感満載のこの場所で、レミはほんわかと雑談を始めた。廃学校の雰囲気とほんわか間延び天使の会話の雰囲気は、ギャップが凄まじい。
だが、その方が生人の恐怖心もいくらか和らぐため、生人は彼女に喋らせた。
「やっつー、すごいねぇ」
「こんな場所で平然と喋ってるレミも、十分すごいぞ」
「あのね、ゆーれいに襲われた人たちをね、やっつーは1人で、3人一緒に運んじゃうんだよぉ」
「3人一緒に? どうやって?」
「1人をおんぶしてぇ、気絶した2人を両手で引きずるの」
「マジかよ。あいつ、あの細い体のどこにそんな筋力あるんだ?」
気絶した人間は、全体重がかかるため非常に重い。それを3人、やり方が荒いとはいえ、同時に運んでしまう八槻。彼女の筋力には、生人も感心せざるを得ない。
同時に、天井から聞こえた、ものを引きずるような音の正体も判明した。あれは、八槻が引きずる気絶した人間の放つ音だったのである。
「は!? い、今、何か聞こえなかったか?」
「別に」
「そうか、気のせいか」
暗闇から聞こえてくる物音は、たとえ気のせいであっても心臓に悪い。幽霊の心臓とはなんのこっちゃではあるが、びくりとするのは事実だ。
レミとの雑談、八槻の怪力への感心。この2つが、生人の恐怖心を多少なりとも和らげている。それでも、多少でしかない。どこに幽霊がいるかも分からない現状、生人の恐怖心は無くならない。
「いっくん、なんでそんなに怖がってるの?」
いきなり生人にぶつけられる、レミの疑問。生人は困惑した。
「なんでって……」
「さっきからずっと怖そうな顔してるよぉ。小さな音にもびっくりしてるぅ」
「お前、今の状況が分かってるのか!?」
「うん、分かってる。ゆーれいが人間を襲ってるんだよね?」
「じゃあ怖いに決まってるだろ!」
「なんでぇ? 同じゆーれいなのに?」
一瞬、生人の口が止まった。確かに、生人は幽霊を恐れている。だが生人も幽霊だ。一見すると不思議な現象。この不思議な現象に対する答えを、生人は少し間を置いてから口にした。
「人間が人間を怖がるのと同じだ。ヤクザやサイコ野郎や殺人鬼が潜んでたら、それが同じ人間だったとしても怖いだろ」
「ドアの隙間から顔を覗かせてくる、斧を持った男の人を、男の子と女の人が怖がってたのと同じ?」
「レミ、ホントに何を教材に人間界を学んだ? まあ、同じだ」
「でもさぁ、じゃぁなんで人間が怖いの?」
「自分の身に危険が迫るからだろ。命が危うくなれば、誰だって怖がる」
ここまで言っても、レミは納得しない。それどころか、レミの次の言葉は、生人までをも悩ませた。
「いっくんはゆーれいだよぉ? もう死んでるんだよぉ?」
こう言われてしまうと、生人は何も言い返せない。生人は紛うことなき幽霊だ。命の危機などあり得ない存在。なぜ自分が恐怖しているのかも、分からなくなってくる。
なぜ怖いのかは分からない。生人が恐怖心を抱いているのも事実なのだ。何が何だか分からない。考えても考えても、生人は納得できる答えが見つからない。
「……恐怖には、いろいろな種類の恐怖があるんだろ」
精一杯の答えをレミに与えた生人。どちらかといえば、自分に言い聞かせていた。そうでも思わないと、幽霊なのに暗闇と幽霊に恐怖する自分が、馬鹿らしく思えてしまう。
ほんわか天使のレミとの雑談が、生人を悩ませることになろうとは、さすがの生人も予想外であった。考え事をしている間、彼は恐怖心を忘れ、レミは雑談を続け、気づけば3階の理科室前に到着している。
理科室からは、仄かな明かりが漏れだしている。若者集団が持っていた、懐中電灯の明かりだろう。
「天使って、可視化能力はあるのか?」
「あるよぉ」
「なら、可視化してから中に入ろう」
「どうして? みんな気絶してるんだよ?」
「気絶してなかったらどうする。可視化しなきゃ、勝手に扉が開いたみたいになるんだぞ。それは怖えよ」
「いっくんてぇ、心配性だねぇ」
「なんとでも言え。ともかく、可視化だ」
「は~い」
可視化能力は、幽霊管理部から使い方を学んで以来、生人は何度か使っている。もはや彼にとって、慣れた技だ。生人とレミは、可視化した状態で理科室の扉を開け、中に入った。
「御用あらためであ~る」
「それ、どうしても言わなきゃだめか?」
「挨拶は大事だよ」
「挨拶ならな」
喋りながらの入室。しかし誰からの返事も、視線もない。若者集団は全員、気絶していた。集団の構成は、男が2人に女が2人。
気絶する若者の顔を見て、生人は呆れ返る。2人の女は、生人が初仕事の際に不良幽霊から救った、あの女たちだ。八槻の言う通り、幽霊の恐怖を知らぬ彼女らは、こりもせず再び、心霊スポットにやってきてしまったのである。
しばらく八槻の帰りを待つこと数分。
理科室の扉が開いた。八槻を手伝おうと立ち上がった生人だが、開かれた扉からは、何か人間とは違う雰囲気が漂う。まさかと思い、生人は構える。
扉の向こうから、一本の腕が現れ、次には頭が、そして般若のような表情をした初老の男が、しゃがれた呻き声と同時に現れた。若者集団を襲った幽霊の登場である。
「いっくん、あのゆーれいが――」
「言われなくても分かってる!」
若者集団を守るため、生人は恐怖を跳ね除け、立ち塞がった。立ち塞がったのだが、生人のその苦労は徒労に終わってしまう。突如として初老幽霊の肩が叩かれ、振り返った初老幽霊は顔を殴られ、床に転げてしまったのだ。
初老の幽霊にも容赦せぬ殴打を見舞ったのが誰なのか。生人は考えずとも分かる。床にぶっ倒れた初老幽霊の側に立っていたのは、1人の男と野川を引きずる、八槻であった。
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