その3 白河幽霊相談所

 生人は5歳の頃、家族とともに湾岸ビル前のお祭りに参加した。だが、妹の命咲ばかりを世話する母さんと父さんに反発し、生人は1人で湾岸ビルの内部に入って行く。

 小さな生人にとって、巨大な湾岸ビルは未知の世界。実際はエントランスを少し歩いただけなのだが、それでも彼にとっては、立派な冒険だった。

 

 しばらくして生人も寂しくなり、両親のもとに帰ろうとした頃。エントランスの中央に、巨大な白い〝何か〟が現れた。直後、ビルは大きく振動し、ガラスは砕け、壁が剥がれ、柱にはヒビが入る。

 小さな生人は当然として、大人たちも何が起きたのか分からない。柱の亀裂は徐々に大きくなり、ビルの振動はさらに大きくなる。


 〝何か〟が現れて数十秒後、ビルは悲鳴のような轟音を立て、崩れ始めた。高さ17メートルの巨体が、積み木のように崩壊していく。生人は恐怖で動けない。動けない生人めがけて、容赦なく降り注ぐ瓦礫。そんな生人を、ある男の手が引っ張り出し……。

 

    *


 目が覚めると、生人の目に飛び込んできたのは、かの有名な知らない天井だった。


「ここは……」


 敷布団の上に横たわっていた生人は、起き上がり辺りを見渡す。ゆっくりと動かす視線には、6畳一間の狭い部屋が映る。壁や天井の汚れ具合からして、古い建物なのだろう。

 もう少しだけ頭を動かすと、黒いワイシャツを着た強面の男が視線に飛び込んできた。

 

「うお!」


 想定外の事態と恐怖に、生人は裏返った驚きの声を上げる。すぐ側にどっしりと座る強面の男、その目は、まるで殺し屋のようだ。このまま――幽霊なのに――殺されるのではないか。そんな不安が生人に生まれる。

 一方で強面の男は、表情ひとつ変えずに生人の顔を睨みつけ、ゆっくりと、低い声で言った。


「ついてこい」


 おもむろに立ち上がり、部屋の玄関を開ける男。生人は混乱しながらも、素直に男に従い、彼の後に続いた。

 部屋の外に出ると、彼がいるのはぼろアパートの2階。西の空には残照が見える。生人は丸1日気を失っていたのだ。


 強面の男についていき、外階段を降りて道に出ると、アパートの隣にある一軒家が目に付いた。昨日に侵入した、あの女性の住む家。改めて見てみると、欧州風を意識したデザインが特徴的な、2階建ての大きな家。どうやら1階はカフェのようだ。玄関は2階にある。

 とりあえず生人は外階段を登り、強面の男が待つ2階の玄関に到着した。木製っぽく作られた扉の隣には、『白河幽霊相談所』と書かれた小さな看板がぶら下がっている。


「お、黒部さん、そいつが変態野郎っすか」


 玄関を通り家の中に入った生人に、そんな言葉が浴びせられた。なんとも軽い口調。強面の男とは正反対な、男にしては高い声。生人は声の主を探した。

 大きな本棚に囲まれ、大きな机とソファが部屋の真ん中を支配する、立派なデスクが置かれた、何かの事務所のような部屋。その中のソファの上に、声の主はいた。

 ジーパンに革ジャン、ニット帽をかぶるロン毛の男。おそらくパンクファッションを目指しているのだろうが、強烈なサル顔がファッションに似合わない。雰囲気からして、声の主は彼だ。


「変態男、来ましたよ!」


 サル顔が大声を上げると、隣の部屋から1人の女性がやってきた。彼女の顔は忘れていない。あの突き刺すような瞳は、忘れられない。女性は、昨日生人が脅かそうとした、あの美少女だ。


「そこ座って」


 最悪の初対面が尾を引いているのか、女性の声は冷たい。生人は、黙って言われた通りにソファに座る。強面男はサル顔男の隣に座り、強面とサル顔が生人に視線を向けてくる。居心地が悪い。


「話があるから、これ食べながら聞いて」


 拳サイズのハンバーグが盛り付けられた皿と、箸を女性から手渡される生人。いきなりハンバーグ、しかも食器が箸とはどういうことかと思う。だが生人は、言われた通りハンバーグを口にした。

 

 幽霊になって初めて食事をする生人だが、味は感じる。食感もある。生きている頃の食事と何も変わりはしない。

 ただし、もう少し美味しいものが食べたかったとも思う。見た目はハンバーグだが、味は冷凍食品のコロッケのようだ。美味しくも不味くもない、困った味である。


「お、美味しいですね、このハンバーグ」


 困った挙句、無難なお世辞を口にした生人。沈黙を破るには丁度良い言葉のはずだ。しかし女性は、相変わらず冷酷な表情で、冷酷に言い放つ。


「それ、卵焼きなんだけど」


 この人は何を言っているのだろう。そんな顔をする女性だが、そう思いたいのは生人だ。彼が食べたものの見た目は、明らかにハンバーグ。味は冷凍食品のコロッケだが、ハンバーグにしか見えない。しかし、これは卵焼きらしい。見た目はハンバーグ、味はコロッケの卵焼き。


「ま、いいわ。それより、自己紹介」


 雑多な資料に埋もれた立派なデスクの、立派なデスクチェアに座り、何事もなかったかのように、プリンを食べながら話を続ける女性。


「私は白河八槻しらかわやつき。この『白河幽霊相談所』の所長」


 女性の名は八槻。生人はそれを頭に叩き込む。


「俺の名前は野川左之助のがわさのすけ。よろしくちゃん」

黒部賢条くろべけんじょうだ」


 野川左之助と名乗ったのがサル顔、黒部賢条と名乗ったのが強面だ。短い挨拶に軽い会釈をした黒部はまだしも、野川の挨拶は鼻につく。理由は分からない。

 2人の男の挨拶が終わると、プリンを喉に通した八槻が再び口を開く。


「私は生きてる人間だけど、その2人は幽霊だから」

「え!? そうなのか!? あんまり幽霊には見えないけど……」

「幽霊っぽい幽霊なんてそうそういないから。あんたもそうでしょ」


 言われてみればその通り。生人は自分が幽霊であるのを忘れてしまいそうになるぐらい、生きていた頃と見た目は変わらない。ならば、野川や黒部も幽霊に見えないのは当然だ。


「ところで、八槻さんはなんで幽霊が見えるんだ?」

「霊感知能力の持ち主だから」

「それだけ?」

「それだけ」


 いわゆる霊感というやつだろう。幽霊が見える人間というのが本当に存在したことに、生人は率直に驚く。


「それで、左之助さんは落ち武者。戦国時代に戦で死んだ幽霊。相談所の雑用係」

「ちょっと姫様、落ち武者じゃないっす。死にも抗う武者っす」

「はいはい」


 生人はさらに驚く。この、パンクっぽいファッションに身を包んだ軽い男が、落ち武者。とてもじゃないが信じられない。

 信じられない、という気持ちが顔に出たのだろうか。黒部は野川が落ち武者であるのを証明するため、野川のニット帽を取った。ニット帽の下には、1本の毛も存在しない頭が隠されていた。側頭部のロン毛と合わせ、その姿はまさに落ち武者。


「ええい! お主、何をするか!」


 なぜか口調まで武者らしくなる野川。ニット帽を取り返すと元に戻ったが、これで野川が落ち武者なのは疑いようがない。


「黒部さんは元伝説の殺し屋の幽霊。相談所の用心棒」

「こ、殺し屋!?」


 殺し屋のような目をしているとは思っていたが、本当に殺し屋だとは思いもしなかった。生人は身を縮める。そんな生人を見て、野川は笑いながら黒部の説明を始めた。


「んなビクビクしなくて大丈夫だ。黒部さんは、生涯で1人しか人を殺してない。むしろ、初めて人を殺したのと同時に死んじゃったんだよ。『伝説の殺し屋』って異名だって、暗殺する前にターゲットが必ず警察に捕まる、って意味の伝説だから」


 ますます驚く生人。こうなると、恐れればいいのか安心すればいいのか分からない。少なくとも、1人の人間を殺したのは確かなようだ。生人は、ともかく恐れておくことにした。


「で、あんたの名前は?」


 八槻から投げかけられた質問。一応、八槻は自分が襲おうとした女性だ。なんとなくだが、名前は隠しておきたかった。だがやはり、素直に答えようと生人は決め、しかし腹から絞り出すように自分の名を口にした。


「……元町生人」

「イクト? どんな字?」

「生きる人と書いて、生人です」

「幽霊なのに生きる人? マジ? なんだよそれ」


 豪快に引き笑いする野川。自分の名前を馬鹿にされたようで気分の良くない生人だが、幽霊なのに生きる人とは、確かにひどい矛盾だ。本人からすれば、冗談にもならない矛盾である。

 これ以上に名前を笑われたくない生人は、いよいよ自分から話を切り出した。生人の疑問は尽きない。


「なあ、話ってなんなんだ? 『白河幽霊相談所』ってなんなんだよ」


 この場所はなんなのかという質問。これに八槻は、スプーンをくわえながら滔々と答える。


「世の中に溢れる霊たちの相談に乗って、手助けする。それが私たちの仕事」

「幽霊の手助けって、成仏させるとか?」

「天国がいっぱいだから成仏しない霊が多いのに、そんなわけないでしょ。人間界に住む霊の生活を支援する。それが主な仕事。何でも屋みたいなもんかな」

「へえ」


 ハゲたおっさん天使が言っていた。天国は満杯だと。つまりそれは、人間界に幽霊が溢れかえっているということだ。そして白河幽霊相談所は、そんな幽霊たちを手助けするのが仕事なのだ。

 こうなると、生人の疑問ははっきりとする。


「じゃあ、俺はどうしてここに?」


 最も聞きたかった質問。最大の疑問。八槻は冷酷な表情を一切変えることなく、スプーンを生人に突きつけその質問に答える。


「あんたには仕事を手伝ってもらいたいの。きちんと働いてくれれば、私を襲おうとしたことはチャラにしてあげる」


 なるほど、と生人は納得する。八槻を襲おうとしたことを利用して、八槻は生人を労働力として使おうというのだ。生人も断る理由はない。むしろ、断れない。


「分かった、手伝う」


 この一言が、生人のこれからを決定付けることになるなど、今の生人は予想だにしていない。それはまた、八槻にとっても同じことであった。

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