第6話

 かすれる声で、油吉はやっとそれだけ答えた。しかし、もはやせんの目を見て話すことはできなかった。

「わからない?」

 せんは問い詰めるような表情で油吉の顔を覗き込むと、

「わからない?」

と、もう一度言った。

 油吉の両の目に、みるみる涙が溜まってきた。

「油吉」

 突然、厳しい口調でせんが油吉の名を叫んだ。そして、せんも涙を流しながら、きりきりと歯ぎしりをした。

「油吉。お前、染物屋の嫁を見くびるんじゃないよ」

 油吉の頬を涙が伝った。

「おっ母さんは、これでも、腕の立つ職人の嫁だよ。見ればわかるよ、これくらい」

 精一杯声を殺しながら話すせんの声は、居間でもぬけの殻になってしまっていた縁吉の耳には届いていないらしかった。

「これは、人の血だろう? え、どうなんだい?」

 油吉は、何も答えられなかった。泣き声を噛み殺し、どうにかその場に立っているのがやっとだった。膝から力が抜け、せんが手首をつかんでいなければ、すぐにその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

 せんも、この時には溢れ出す涙をどうすることもできなかった。持っていた着物を放り捨て、両手で油吉の肩をつかむと、前後に激しくゆすった。油吉の頭が、前後にぐらぐらと揺れた。

「ねえ、言っとくれよ。これは、血じゃあないか。ねえ、お前があの爺さんをやっちまったのかい? ねえ、そうなのかい?」

 油吉は、せんにぐらぐらと体を揺られるさなか、最後に、とうとう頷いた。

 それを見ると、せんは油吉の肩から手を離し、がくっとうなだれた。その後、わが子をやさしく抱きしめながら、油吉の耳元へ言った。

「ねえ。話しておくれ。おっ母さんは、決して怒ったりしないよ。だから、正直に、みんな話しておくれ」

 油吉は、母親の胸の中へ顔をうずめると、全身から声を出して泣いた。油吉の声の振動が、せんの小さな体全体に響いた。

 ひとしきり泣き終わると、顔を真っ赤に染めた油吉は、時々しゃくりあげながら、せんに事の次第を話し始めた。

「おいら、聞いちまったんだ。ある晩、お父っつぁんと、おっ母さんが、ひそひそ声で話しているのを。聞いちゃいけねえと思いながら、聞いちまったんだよ。お父っつぁん、すげえ困ったような口ぶりで、おっ母さんに言ってただろう? お足が足りねえ、年を越せねえって。それを聞いて、おっ母さんは、お父っつぁんを励ましてるんだ。でえじょうぶだ、一緒に頑張ろうって。おいら、それを聞いているうちに、おいらには、何もできねえのかなあって思っちまったんだ。まいんち、店のめえに出て、たまにしか来ねえお客のあしらいと、たまの遣えくれえしか、おいらにはできねえのかなあって。おいらが、銭をこしれえて、お父っつぁんとおっ母さんを喜ばしてやれねえもんかなあって。あの晩、お父っつぁんとおっ母さんのひそひそ話を聞いてから、そればっかり気になって、胸がちくちく痛んでしかたねえんだ。だってよ、おいらは、めえんちおまんま食わしてもらってるだろう。一番お足稼げねえおいらがさ。なのに、お父っつぁんとおっ母さんは、薄い粥とたくあんで辛抱してる。だから、何とかして、お父っつぁんとおっ母さんを、喜ばしたかったんだ。そうしたら、それから何日か経った日にさ、店のめえを、汚ねえなりした爺さんが、大きな荷物を台車に積んで、がたがた引いて通っていくのが見えたんだよ。そん時、店にはおいら一人だった。おいら、その爺様のこと、知っていたんだ。ずいぶんめえによ、草間通りの加藤様のお屋敷に、遣えに行ったことがあったろう? おいら、加藤様に品物の帯を届けて、お足をもらって、お屋敷のの門を出ようとしたんだ。そうしたら、脇から出てきた台車にぶつかっちまってよ。加藤様の奥様が、あわてて家ん中から飛び出して来つくれて、おいらを介抱しつくれたんだ。おいら別に怪我はなかったんだが、台車を引いていた爺様は、おいらの方をちょっと見ただけで、なんとも言わず行っちまったんだ。その台車がずっと遠くに行っちまった後によ、加藤の奥様から聞いたんだ。あの台車は、この先の大きな質屋のもので、台車を引いている汚ねえ身なりの爺様は、そこに古くからいる遣えだって。あんななりをしちゃあいるが、台車にはそりゃあたいそうなお宝を積んで、時々加藤様の家のめえを通って、もう一軒別のところにあるお店(たな)に、ものを預けに行くんだって。その帰えりには、品物と引きけえにお足をうんとこせえて、それを懐ん中へ入れて、帰えって来んだって。やせっぽちの爺様だから、お足を懐に入れると腹のところがぽっこり膨れて、誰が見てもお足が入ってるなって、よくわかるんだってさ。近所の人も、危ねえ、いつか誰かに襲われりゃあしねえかって、ひそひそ話で噂していたんだが、ずいぶんの間、そうして何事もなくお店とお蔵を行き来していたんだってさ。そうして、あの日、おいらが番をしていた店のめえを、あの爺様が台車を引いて、ゆっくり通って行ったんだ。台車には、風呂敷が掛けてあったんだが、仰山ものが積んであって。おいらは、暮だから、お質屋さんも物入りなんだろうと思って、黙って見過ごしたんだ。だが、それからしばらくしてよ、空の台車を引いた爺様が、さっきとははんてえの方から、またこっちへ向かって歩いてくるのが見えたんだ。おいら、その時によ、ふと、加藤の奥様から聞いた話を、思い出しちまったんだ。なんのこたあねえ、爺様のなりをよく見てみると、お腹の辺りが、でっぷりと膨らんでいるんだ。おいらは、そこでぴんときちまった。あれは、お足を隠しているに違えねえって。それも、さっきの荷物をみんな預けてきた後だから、たいそうなお足になっているに違えねえって。おいら、それを考げえたら、いてもたっても、いられなくなっちまった。いいか悪いかを考げえるいとまもなく、体が勝手に、

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