第5話

「とにかく、もう一遍、あらためましょう」

 番頭は、もういても立ってもいられぬ様子で、涙を浮かべながら大笑いする縁吉の脇を抜けて、店の奥へと入って行った。

 油吉は、背後で取り交わされた二人の会話を聞き終わると、ふう、と大きくため息をついた。

 その後、縁吉と番頭が改めて帳面を調べ直してみても、やはり金子が、ぴったりと合った。どうしても足りていないと思われていた金子が、今度はどう計算をしても、年末の払いには十分に足りている算段となった。

 どういうわけでそうなったのか、もはや縁吉にも番頭にもわからなかった。ともかく、二人して十一両もの大金の帳面を、この年の瀬まで、すっかり見落としていたらしかった。

 縁吉は、急転直下で好転したこの巡りあわせに、すっかり体の力が抜けてしまったようだった。とにもかくにも、これで今年の暮は乗り越えられることだけは決まりになった。

「仏様の、おかげだなあ」

 縁吉は、ぽかんと口を開けてそんなことをつぶやいたなり、畳の上に大の字に寝転んで、雨染みのある天板をぼんやり眺めていた。

 このところ、毎日毎日、胃の腑に穴の開くような思いをして過ごしていた縁吉が、ようやく安心して笑顔になれたことを一方では喜びながら、しかしせんは、どうしてもこのことが得心行かなかった。

 見落としていたと言えば、それまでだろう。しかしこの不景気のさなか、店も振るわないという中にあって、十一両もの帳面を見落とすなどということが、本当にありえるだろうか。せんは知っていた。毎晩、縁吉が穴の開くほど帳面をにらみつけて、どうにか金子を絞り出せないかと、額に汗をにじませながら算盤を弾いていたことを。そうして、来る日も来る日も、どうしても金子が足りないと嘆き塞いでいたことを。

 十一両が突然見つかったことは、確かにうれしい。しかし、本当にそれで済む話だとは、せんにはどうしても思われなかった。

 何か、うまくいきすぎてはいないだろうか。せんの心には、そのような蟠りがはびこって消えなかった。

「油吉」

 せんは柱の陰から油吉へ声を掛けると、振り向いた油吉に、

「ちょっといいかい」

と小さく手招きをした。

 油吉は招かるままにせんの近くまで歩み寄った。

 せんは、縁吉から見えない台所の隅へ油吉を隠すと、油吉の前にしゃがみ、下から覗き込むような姿勢で、穏やかな口ぶりで油吉に尋ねた。

「ねえ、お父っつぁんのお話、聞いていただろう?」

 油吉は黙ったまま、頷いた。

「お前は、どうしてだと思う? 急にお足が出て来たんだって。それも、十一両も」

「数え誤りをしていたのではないでしょうか」

 油吉は子供らしい口調でせんの問いに答えた。

 せんは、油吉の返答を聞き終わると、にっこりと笑みを浮かべながら、

「そうよね。だと、いいわよね」

と言って、油吉の両の手首をややきつめに握りしめた。

「でもね、おっ母さん、どうしても、ひっかかるんだよね」

 急にせんに手首を握られて、少し戦くような表情を浮かべながら、油吉が聞き返す。

「な、何がだい?」

「何がって、急に十一両も、出てくるかねえ?」

 油吉は何も答えなかった。その代り、せんから目を逸らすと、冷たい地べたに視線を落とした。

「ねえ、油吉」

 せんは、油吉の顔を下から覗き込んだ。油吉は、今度はとっさに外の通りの方へ視線を移した。

「ねえ、油吉。おっ母さんにだけは、本当のことを言っておくれでないかい?」

 油吉は黙ったまま、不服そうに唇を尖らせた。せんは、それに構わずに続けて話す。しかしその表情には、先ほどのような優しさはすでになかった。

「この間、近くでご老体が殺されちまったことは、お前も知っているだろう?」

 油吉は視線を外の通りへ向けたきりである。しかし、その小さな体が、心なしか小刻みに震えているようだった。

 せんは、どこに隠していたのか、一枚の着物を油吉の前に差し出した。

 それは、油吉が店番をしている時によく着ていたものだった。

「あの日、お前が来ていた着物だよ」

 せんは、油吉の前にその着物を差し上げながら、話を続ける。

「おっ母さんねえ、何か様子が妙だなあと思ってさ、洗わずに、とっておいたんだよ」

 油吉の表情が、次第に曇り始めた。せんは、明らかに様子の変ってくる油吉の表情をじっと見つめたまま、抑揚のない口調で続けて言った。

「ここ。ここについているこの染み、これ、一体なんだと思う?」

 油吉の体は、この時わなわなと震え出した。往来へ向けていた視線をゆっくりと室内へ戻すと、せんの指し示す着物の上をじっと見やった。

 そこには、せんの親指ほどの赤黒い染みが三つ、白い下地の上にくっきりと浮かんでいるのだった。

「お前、この染みに、心当たりはあるかい?」

 せんは、油吉の左手首をつかんだまま離さない。自然と、その手に力が入る。

「わ、わからねえ」

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