第3話
「ああ」
と言いながら、縁吉ががっくりと肩を落としたのが、障子越しにも油吉に分かった。
それから、やや間を開けて、縁吉が思い切るような口調で言った。
「どうにも、暮の払れえが、追っつかねえんだ」
「追っつかないって、いったいどれくらい?」
せんが縁吉ににじり寄って聞いた。その時、せんが着物を引きずる音が、油吉に聞こえた。
「そうさなあ。今、改めて算盤を弾いてみたんだが、どう間に合わせても、十両はおっつかねえ」
「じゅ、――」
せんは息を飲んだきり、言葉を継げなかった。油吉もその金額を耳にして、口の中が、のどの奥までからからに乾いていくのを知った。
もはや、暮はそこまで迫ってきている。そのわずかな期日の間に、一体どのように十両もの金子を作ったらよいと言うのだろうか。以前のように、連日店先に客が押し掛ける状態であれば、まだしもである。ところが今は、日によっては人っ子一人店の前を通らないのだ。
一方で、太田屋はますます繁盛を極めていると聞いている。すでに隣の小川町にも三軒ののれんを出し、山上屋の金森町に押し入ってくるのも、時の問題とうわさされている。
油吉は、布団の中で唇を強く噛んだ。
「せん、この店は、俺に任せろ。おめえは油吉を連れて、年の明けるまでおめえの実家に帰えってろ」
「ばかなこといわないで」
初めて耳にする母の強い語気に、思わず油吉の肩も上がった。家の中が、一時しんと静寂に包まれた。
「あたしは、――こんなあたしですが、あなたの妻です。あなたが苦しい時にあなたのそばを離れたんじゃあ、あたしはいったい、何のためにこの家に嫁いできたとおっしゃるんですか」
そういうせんの声には、途中から絞り出すような、咽ぶような涙声が混ざっているように油吉には感じられた。
「あたしは、あなたのそばを離れるくらいなら、この家で、のたれ死んだ方が本望です」
「せん」
縁吉も、涙をこらえられない様子であった。
「おめえは、――本当に、――」
油吉も、布団の中ではらはらと涙を流した。
「俺には、出来過ぎた嫁だなあ」
縁吉が、からりと晴れた声で、そう言った。
油吉は、もちろんその晩の二人の会話を耳にしていたことなど、誰にも秘めて内緒にしていた。しかし、店の状況が思いの他に切迫しているのだという事実は、しこりのように油吉の胸にぶら下がったままだった。
油吉は、次の正月でようやく十である。そんな自分にでも、父や母のために、何かできることはないだろうか。店先でわずかな仕事を手伝いながら、油吉は、心中でそのことばかり気に病んでいた。
暮が近くなるにつれ、店からは奉公人が一人、また一人と去って行った。油吉には聞かされていなかったが、どうやらこのころになり、いよいよ毎月の給金の支払いもおぼつかなくなったらしかった。
長年家族のように一つ屋根の下で仕事をし、食事をし、よく遊んだ奉公人が、別れを惜しみながら店を後にしていく姿を、油吉はただ、涙を噛み殺して見送ることしかできなかった。そうして店を去って行った奉公人の多くは、隣町の太田屋に新たな奉公口を求めにいっているとの噂を、風の便りに聞くこともあった。
そうこうしているうちに、いよいよ月は師走を迎えた。江戸には名物の乾いた北風が吹き下ろした。数年前なら年末の準備に忙しい人の流れが、どことなくそわそわとした足取りで往来していたものだったが、去年から今年に限っては、道行く人の数もいつもよりまばらである。風に吹かれた茶色い木の葉が、壁にぶつかって掘割に落ちる。一枚、また一枚と木の葉が掘割に落ち、水面が次第に落葉の色に変わっていく様子を眺めながら、油吉は、得も言われぬ切なさに胸を詰まらせていた。
隣町でも、隣の隣の町でも、注文さえあればどんな場所にでも遣いに駆けて行きたかった。油吉は、いても立ってもいられない気持でいっぱいだった。
ある晩のこと。また油吉が先に布団に入って横になっていると、一人火鉢も焚かずに机に向かって算盤を弾いていた縁吉へ、せんが声を潜めて話しかるのが聞こえた。
「お前さん、聞きました」
縁吉は算盤の手を止めると、
「何だ」
とせんに聞き返した。
せんはまた少し縁吉の方へ体をにじり寄せると、ささやくような声で、
「この近くで、人殺しがあったそうよ」
と告げた。
「それか」
縁吉は存外驚かないらしかった。恐らくは、すでに聞き及んでいたのであろう。
せんは、外に声が漏れるのをはばかるかのように、声を潜めながら続ける。
「なんでも、この近くに住むご老体だったらしいわよ。むごいわね。人通りのない小路へ角を曲がった途端ですって。後ろから、頭を誰かに――」
「ああ。石でぶんなぐられたってな」
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