第2話

 縁吉はせんの言葉振り返ると、

「なに、お前は一度も病になったことはないか」

と聞き返した。

 せんは、この時初めて主人の方へ伏し目がちに顔を上げると、

「はい」

と静かに返事をした。

 強い女だ。縁吉は、この時せんを妻に娶ることができたことを、改めてよかったと思い直した。

 それから二年を経たのち、縁吉とおせんは待望の赤子を授かった。幸いにも、子は男の子であった。二人はこの子に「油吉」と名付けた。金具が滑らかに動くには、油がなくてはならない。わが子には、そのように、人と人との間に入って、その関係を滑らかにさせるような、誰からも必要とされるような立派な大人に育ってほしいという、縁吉とせんの思いが込められた名であった。

 仕事に誠実な縁吉と、辛抱強くまめまめしいせんとの子である。油吉が五つを数えるころには、周囲も羨むほどの闊達な、律儀な子供に育っていた。

 油吉七つになると、得意先へは一人で遣いまで任された。小さな坊やが一人で遣いに来たと、得意先では油吉を、まるでわが子のように温かく迎え入れ、羊羹や団子をふるまったりした。縁吉から、お得意先でおやつやお小遣いを頂いてはいけないとしつけられていた油吉は、本当は、子供らしく甘いものが大の好物であった。しかし父の教えを守り、客から振る舞われたそれらの品物を、頑なに固辞した。

「まあさ、上がってゆきなさいよ。お父っつぁんにはあたしたちから口が裂けても話したりしないんだから、気がつきゃあしないよ」

 気のいい婆がしきりに油吉の手を引いて勧めるものだから、すっかり困った油吉は、

「じゃあ」

と言って、婆の出したまんじゅうを包みごと着物の袂へ仕舞い込むと、婆に深々とお礼を言った後、たんたんと下駄を鳴らして小走りに駆けだしていった。

「いってえどうした、そんなに急いで帰えってきて」

 油吉が店に戻ってくると、その慌てたようなそぶりを目にした縁吉は、すかさず油吉にそのように問うた。油吉は、袂からさっき婆にもらったまんじゅうを取り出すと、ことのいきさつを事細かに縁吉に話した。

「それでおめえ、食わねえで帰えって来たのか」

「うん」

 店先で仕事をする父の顔を傍らに立って見上げながら、油吉は素直そうな黒目勝ちの瞳をきらきらと輝かせ、元気よくうなずいて見せた。

 縁吉はわが子の方へ振り向くと、まだ熱い油吉の頭に、日々の水仕事によってざらざらと節くれだった己の右手を載せて、

「えれえぞ」

と言って褒めてやった。その父と子のやり取りを、せんは、店の奥からさも楽しそうに見守っていた。

 全てが順調であったかに見えた。しかし時は、静かに、ゆっくりと、一家の暮らしに暗い影を及ぼし始めていた。

 それから二回の寒い冬を終え、油吉が十になろうという年のことであった。その少し前から、江戸には大阪から下ってきた「太田屋」という新たな紺屋が、幅を利かせるようになってきていた。太田屋は、江戸にはなかった安価な割り前で、次々と江戸在来の染物屋の仕事を奪って行った。それに加えて大人数による一気呵成の素早い仕事で、せっかちな江戸っ子からの人気を博していった。江戸の町では一軒、また一軒と土着の紺屋が店を畳み、その後には時をおかず「太田屋」ののれんが下がるのであった。

 縁吉の店でも、その煽りは年々に強さを増していった。江戸の中では仕事の早さで負けない山上屋も、太田屋の早さの前には奉公人の数の上からでも、到底太刀打ちできなかった。仕事のきめの細かさ、仕上がりの上等さでは決して他の店に引けはとらないと自負していた縁吉ではあったが、多少仕上がりにむらはあっても、その分断然割り前のよい太田屋に、江戸の人々は簡単な仕事の依頼を回した。江戸には祭りが多い。半纏、鉢巻、帯に手拭い。祭りの前になると、縁吉の店には決まってそのような注文が大量に入っていたものだが、太田屋が擡頭してからというもの、依頼は半分になり、また半分になった。あまつさえ前年の冬に界隈で大火が三つも続き、多くの人々は、染物へ回す家財さえ失っていたのであった。

 その年も暮れようとする頃、縁吉の山上屋も、いよいよ創業以来の窮地に陥っていた。油吉は、日を追って両親の食事が粗末になっていることに気が付いていた。出入りの奉公人にもいつものように覇気がなかったり、時として、それまでなかった喧嘩が始まったりすることもあった。番頭はうつろな目をして、キセルばかりふかしていた。そしてあんなに賑やかだった店先には、客の声がまばらになった。

「だめだ。払れえが、おっつかねえ」

 ある夜、障子の向こうでため息交じりにそういった縁吉の声が、明かりを消して布団の中に横になっていた油吉の耳に聞こえてきた。油吉は何やら背中に寒気の走るのを覚えて、盗み聞きは悪いとは知りながら、縁吉とせんの言葉に布団の中から耳をそばだてた。

「あたしに、何かできることはありますか」

 心配そうに尋ねるせんに、

「いや」

と、縁吉は言葉を濁したきり、しばらく何も答えなかった。

「なんとかなりますよ、ねえ、今までだって、お前さんとあたしとで、何とかやってこられたんですし、油吉も、あんなに立派に育ってくれたんですから。きっと、なんとかなりますよ」

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