紺屋(こうや)の年越し

矢口晃

第1話

 油吉が染物屋二代目店主山上縁吉の倅として金森町に生まれたのは、天下泰平の江戸の時代も中ごろを過ぎたころであった。

 父親の病弱により若くして染物屋の代を受け継ぐことになった縁吉は、まじめ一本やりの性格で、町内でも屈指の染物屋に父の店を育て上げた。

 持ち前の男前の風采も手伝って、縁談には事欠かなかったが、弟子の二、三人も育て上げないうちには他のことには気持ちが向かないといって、それらの誘いをことごとく断ってしまった。

 その腕前は確かなもので、「紺屋(こうや)なら金森町山上屋」という評判が、隣の町の路地の裏まで広まるほどであった。

 若くして仕事はまじめ、その上男前で腕もいいとくれば、縁吉のもとには仕事の依頼は後を絶たなかった。「紺屋のあさって」などという揶揄が人口に膾炙するほど、一般に染物屋は仕事が遅く、期限を守らないことが当たり前と思われていたこの時節にあって、納期をきちんと守る縁吉の仕事ぶりは、人々が目を見張るものであった。

 そんな倅の働きぶりを、すでに隠居の身となった父の勘吉は、眩しそうに眼を細めて、店の奥から毎日見守っているのであった。自分の体がもう少し達者ならばと己の身にふりかかった因果を恨むことは日を置かなかったが、その父の分まで身を粉にして一生懸命に働いてくれる倅の姿を、嬉しくも誇らしくも思うのであった。勘吉は、毎夜就寝の床に就く前に、自分にとって出来過ぎた倅を授かったことを、先祖に向かって手を合わせ礼をするのを欠かしたことはなかった。一方で、倅に対しては、そうあくせくと働いてばかりいず、嫁でも迎えて、もっとのんびりと気楽に暮らしてもらいたいものだという希望も抱くのであった。第一、倅の身に何かがあっては、いよいよ山上屋の屋号が断絶する。縁吉の、加減を知らないとことんまでの働きぶりは、父を嬉しくもさせ、不安にもさせるのであった。

 縁吉の働きぶりによって、店はますます繁盛した。父から店を引き継いで五年、縁吉二十二の歳を迎えるころには、見習いと奉公人は合わせて十人にまで増えた。それを見届けた勘吉は、店に顔を出すこともようやくなくり、居宅にこもって悠々と老後の余生を過ごした。

すっかり店の大旦那となった縁吉は、しかしそれによって自らの手を休めようとは決してしなかった。いつでも見習いの間に割って入り、自分から進んでその技術を彼らに分け教えた。彼らもそのような縁吉を心から信頼し、日も暮れて虫が鳴き音を立て始めても、縁吉が仕事の手を止めるまでは、誰も持ち場を離れようとはしないのだった。

「縁吉、どうだね、そろそろ身を固めては」

 そのころになると、いよいよそのような声が縁吉の周りにやかましくなった。縁吉には嫁を迎えたいという気持ちがひときわ強いわけではなかったが、周りがあまりにもやかましくなってきたことと、最初に縁吉自身が目指していた程度にまでは、どうやら店を繁盛させられたこと、そして何より、年老いた父に一日も早く孫の顔を見せてやりたいという気持ちが重なって、ようやく結婚の決断をした。

 相手は縁吉より四つ年下、名をせんという、決して貧しくはないが、豊かでもない家柄の一人娘だった。婚礼の日は、朝から白い牡丹雪の降る、その年でも一番かと思われるほど空気の冷え込んだ日であった。輿から降りたせんの手を自ら取った時、縁吉はその指のあまりの冷たさに驚いた。

 本来ならば縁吉の門前で一通りの挨拶の取り交わされるべきところ、縁吉は、

「そんなことは構いません。それよりも、ここでは大変寒いので、おせん様を早く中へ」

と、半ば強引にせんとその家族を自宅の中へ迎え入れた。せんの父と母はそんな縁吉の優しさに触れ、本当によいご縁に結ばれたと、思わずうつむき合掌をした。

 嫁入りをしてからというもの、せんは、主人の縁吉に負けず劣らずよく働いた。朝は縁吉の起きる前から床を出て、家じゅうの掃除を一通り済ませ、部屋にほこり一つない状態にしてから朝食の膳をこしらえ、縁吉の起きてくるのを待った。せんは華奢な体つきであった。その上、たいそう色が白かった。しかし、一人娘だったということだけあって、家の中の仕事は、何かにつけ器用に、如才なくこなした。

「たまには、先に寝たらどうだ」

 ある夜、いつものように火鉢を背中に当てながら、机に向かって算盤を弾いていた縁吉は、座敷の隅で主人の仕事の終わりを待つように針仕事をしていたせんに向かって、そう声をかけたことがあった。

 せんはばつの悪いような嬉しいような笑みを顔いっぱいに浮かべながら、しかしその笑顔を縁吉には見られまいと手元の針に視線を落としつつ、

「わたくしは平気でございます」

と、小さな、透った声で縁吉に答えた。

「しかし、そのように毎日気を張っていては、病になるぞ。俺とお前は夫婦なのだから、そのように気ばかり使うことはない。少しは休め」

「うふふ」

せんはおかしくてたまらないというように、口元をその細く長い指で隠しながら、

「いつでしたか、旦那様のことを、お父様がそのようにおっしゃっていましたわ」

と縁吉をからかうように言った。

 妻の思わぬ仕返しに、縁吉も思わずにこりとしながら、

「お前は体が人より小さい。あまり気を詰めて働いては、病になるぞ」

と更に返した。するとせんは、

「せんは、幼少より一度も病になったことがございません」

と答え、縁吉を驚かせた。

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