第2章 ラストフライト

第10話 進路指導

――2023年7月7日、夕方、岐阜県、各務原かかみがはら市――


 松田涼子は学校から駅に向かう道すがら、道路わきに落ちていた空き缶を思い切り蹴り上げた。なんとなくむしゃくしゃした気分。そんな日だってある。

 この日は、高校に入って初めての進路指導の日だったのだが、涼子は担任の小笠原という数学教師から、意に沿わない内容で説教をされてしまった。


 入学した時から覚悟はしていたことだが、涼子の学校は全国にも名の通った進学校だけに、1年生の時点ですでに志望校を明確に定めなければならない。夏休みが明けるとすぐに、その生徒の志望校に応じた補習事業が始まるからだ。

 だからこの最初の進路指導には、一層、担任教師の熱意がこもる。

 小笠原という教師は、ユーモアがあって教え方も上手いので、学校中の人気者。涼子も気に入っていたのだが、数学教師としての顔と、担任教師としての顔が少しばかり違っていた。今日の小笠原の態度には、ちょっとカチンと来た。


 涼子はその日の午後にあった、小笠原との面談を思い出した。


     ※


――今日の午後のこと――


 涼子が面談室に入るなり、小笠原は「お前、勉強頑張ってるな」と言って、破顔した。面談の少し前に実施された全国模試で、涼子が全国で500位に入る成績だったので、小笠原はそれに気を良くしたのだろう。

「お前、志望校は東大でいいよな? 学部はどうする? まだ1年生だから、あんまり厳密でなくていいけれど、早めに決めた方がいいぞ」

 涼子が椅子に座るのが待ちきれないとでもいうように、テーブル越しの小笠原が、いきなり核心となる話題を振ってきた。

「あ、あの――、わたしは東大は別に――」

『目指してなんかいないです』と続けて涼子は言おうとしたが、それよりも先に、笑顔の小笠原が畳みかけてきた。

「謙遜するな、松田。お前ほどの成績だったら、これから気を抜かない限り、まず合格できる。教師生活20年のこの俺が保証する」


「あの、先生――」

「心配するな、松田。大丈夫だって。お前ならば理Ⅲだって狙えるぞ」

「理Ⅲ……」

「そうだ! 医学部だ! 最高峰だ! 取り敢えず理Ⅲにしとけ。一番難しいところを狙っていたら、後でどこにでも進路が変更できるからな」

 小笠原は熱く語った。


 涼子の返事も聞かず、小笠原は手元の用紙の志望校の欄に『東京大学』と書き、更に学部の欄にも『理Ⅲ』と書こうとペンを移動した。

「先生、ちょっと待ってください!」

 と、涼子は叫ぶように言った。そして小笠原のペンが紙に触れるよりも先に、「わたし、東大になんて行く気ありませんから!」とはっきりと宣言した。


「何だ? どうした? 何があった?」

 小笠原は狐につままれたような顔で言って、「東大理Ⅲじゃ不満か? 海外か? どこに留学したい?」と訊いた。

「東大でも、理Ⅲでも、海外でもありません。私が行きたいのは……」

 その先を涼子は言い淀んだ。

「何だ? どこだ? どこに行きたい?」

 小笠原は涼子の答えを急かした。

「先生、わたしが目指しているのは――、実は――」

「実は――?」

 小笠原の目がじっと涼子を見つめていた。


 涼子は、意を決して口を開いた。

「わたしは航空自衛隊の、航空学生に進みたいんです!」

 ああ、ついに言ってしまったと涼子は思った。ずっと心に秘めてはいたが、それを他人に話したのは初めてだった。まだ両親にさえ打ち明けていないことだ。

 涼子の言葉を聞いた途端に、小笠原の顔から表情が消えた。

 10秒ほどその状態が続いただろうか。やがてその目に生気が戻るのと同時に、小笠原は「正気か、お前?」と言った。

 そして涼子が「もちろん正気です」と答えると、即座に、「馬鹿! 先生をからかうのもいい加減にしろ」と言った。


 小笠原は気を取り直して、先程の用紙の学部の欄に、もう一度ペンを下そうとした。それを見た涼子は、テーブル越しにその紙を奪い取った。そして自分のペンを取り出すと、小笠原の書きこんでいた志望校欄の『東大』の文字に続けて、自分の思いを書いた。

 涼子の追記によって、志望校欄は『東大並みに難しい、航空自衛隊・航空学生』となった。それから続けざまに涼子は、志望学部欄に『戦闘機』と書いた。


 小笠原は呆気にとられていたが、怒りはしなかった。そして「まあ、まだ時間はあるんだから好きにしとけ」と言った。そして「志望は航空学生にしておいて良いから、補習授業は受けるんだぞ」と言い添えた。

 恐らく、小笠原としては、一瞬の熱病はすぐに冷めるだろうから、放っておこうという考えなのだろう。

 涼子は言い争っても無駄だと思い、「分かりました」と答えた。

 そこまでで面談は終わった。


 涼子は小笠原にきちんと挨拶をしてから、席を立った。「分かりました」とは言ったものの、納得はしていなかった。

 航空学生だって決して楽な道ではない。倍率はなんと60倍を越える超難関である。しかも女子は年間で2名ほどしか採用されない。女子にとっての航空学生試験は、本当に東大よりも難関だと言われるくらいなのだ。

 自分が勉強に手を抜かないのは、東大に行きたいからじゃない。航空学生になりたいからだ。むしろ涼子にとっては、航空学生の試験に落ちたら大学に行くという順番である。


 廊下に出て、後ろ手に面談室の扉を閉めた涼子は、「間違えてもらっちゃ困るんだけど」と、ぼそりと言った。


     ※


 涼子の歩く駅までの道は商店街で、丁度その日の七夕祭りを祝って、色とりどりの短冊を結んだ笹が、街灯に括りつけられていた。もう七夕祭りを素直に喜ぶ子供ではないが、それでも涼子の心は幾らかは華やいだ。

 コインパーキングの一角には、商店会のテントがあって、テーブルの上には願い事が書けるように、色紙の短冊とマジックが置いてあった。


 涼子は黄色い短冊を一つ手に取って、『航空学生に合格しますように』と書いて、すぐ脇にある笹の枝に結びつけた。

 一旦立ち去ろうとした涼子だったが、ふと思いたったことがあり、もう一度テントに引き返すと、さらに1枚の短冊を取って、今度は『目指せ、ソニック・ストライカー500位』と書いた。


 ソニック・ストライカーは、涼子が1年ほど前からはまっている、戦闘機のオンラインシミュレータで、世界中の軍が保有する戦闘機の中から自分の愛機を選んで、仲間と編隊を組みながら、様々なミッションをこなしていくものだ。

 カナダのフェニックス・アイという、創立2年の新興企業が開発したそのフライトシミュレーターは、現役のエンジニアやパイロットが監修していることが売り文句。空力特性や飛行性能が、実機と寸分の狂いもないという評判を得て、今や世界中に1千万人の登録ユーザーを獲得しているという。

 現役の航空自衛隊員の中にも、愛好者がいるという噂もあるほどだ。

 涼子にとってこのシミュレーターは、ただの趣味の域を越え、航空特性を養う訓練の場でもある。


 ソニック・ストライカーの中での涼子の愛機は、F2バイパー。航空自衛隊が採用している国産の戦闘機であり、平成のゼロ戦、バイパーゼロの愛称で親しまれている機体だ。

 本当なら、心神を選びたいところだが、まだ正式採用されていない試作機なので、そもそも選択肢として用意されていない。だから、2番目に好きなF2バイパーを愛機に選んだというわけだ。

 現実の国防の現場では、既に主力戦闘機の座を米国製のF35ライトニングに譲り渡しているものの、シルエットのスマートさや、運動性能の良さから、涼子だけでなく、日本人を中心に熱烈な愛好者が多い機体である。


 そのソニック・ストライカーの中で、涼子のパイロットとしてのランキングは 目下のところ世界で1200位前後。1000万人の上位約0.1%に入っているのだから、なかなかのものなのだが、自分では全然満足していない。せめて500位には入りたいと言うのが、涼子の当面の目標だ。


 なんだかんだと考えているうちに、涼子は駅までたどりつき、定期券をかざして改札を通った。

 家に帰ったら、まずは日課のランニングと筋トレだ。一汗流せば気分も変わるだろう。そして今夜は思い切りソニック・ストライカーに興じようと涼子は思った。


 ホームで電車を待つ間に、ジェットエンジン特有のゴウという音が響いてきた。

「心神!?」

 と、一瞬期待したが、音が随分と低い。駅舎に音が反響して良く聞き取れないが、多分戦闘機ではないし、民間機の音でもない。

 多分、航空自衛隊の大型輸送機C2だろうと涼子は思った。


 心神ではなかったが、ジェットの音を聞いて気分が良くなった。

「さあ、気持ちを切り替えるぞ」

 涼子は、駅舎の屋根の間から、狭く切り取られた青空を見上げた。






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