第11話 HZ22 閃光

――2023年7月12日、11時20分、沖縄県、航空自衛隊那覇基地――


「宮本二佐、本日はお供できて光栄です」

 宮本がブリーフィングルームのドアを開くと、2人の若いパイロットが弾けるように立ち上がり、敬礼の姿勢をとった。

「松木一尉、相場二尉だったな。今日は俺のラストフライトだ。よろしく頼むぞ」

「もちろんです」

「今日の試験飛行の内容は分かっているな?」

「はい、中国福建省の武夷山ぶいさん基地を離陸したHZ22が、高高度で尖閣諸島上空に飛来したとの想定です。当方はスクランブル発進と共に、対象機の確認および迎撃優位姿勢を確保します」

 上官の方の松木が、宮本の質問に答えた。


 HZ22は閃光せんこうというニックネームで称される、中国人民解放軍空軍が開発中の高高度偵察爆撃機である。西側の軍事専門家の間では、実戦配備が間近と目されているもので、他国で計画中のものを含めて見ても、目下世界の現役機の中で最も高速な航空機だ。


「閃光の侵入高度、および速度は?」

「高度90,000フィート、速度はマッハ2.6です」

「閃光の想定行動は?」

「西方向から日本の防空識別圏内に侵入した対象機は、尖閣諸島の東側を大きく迂回し、与那国島沖の接続水域をかすめるように、東シナ海を北上。空域離脱の時点では日本のスクランブルから逃れるために、マッハ3.5に加速です」


「こちらの飛行計画は?」

「2機のF15Jが先に離陸し、まずA/Bアフターバーナーを使用して高度45,000まで上昇します。一旦水平飛行に移って加速した後、ズームアップで高度80,000まで上がり、対象機の予想航路上で待機です」

「F3改の行動も分かっているな?」

「はい、F3改は高度3,000でブースターに点火。一気に高度110,000まで上昇して、対象機の上方を押さえ、背後から追尾です」

「その通りだ。スクランブルの発令が掛かるまでは、全員DDCで待機」

「了解しました」

 松木と相場が声を揃えた。


 僅か数分で高度0から高高度まで駆け上がるパイロットの体には、急激な気圧の変化によって常識では考えられないほど大きな負荷がかかる。80,000フィートと言えば、エベレスト3つ分の高さに等しい。

 まずは低酸素によって、登山家が罹る高山病と同じ症状がパイロットを襲う。そしてそれと同時に、深海に潜るダイバーが罹る減圧症も、パイロットを待ち受けている。


 DDC(Deck Decompression Chamber)は、高高度迎撃のミッションにパイロットの体を順応させるために設けられた圧力容器である。深海で作業するダイバーのために考え出されたもので本来は加圧に用いられるが、パイロットの場合はその逆で、DDC内は減圧された上で、ヘリオックスと呼ばれる酸素とヘリウムの混合ガスで満たされる。このDDCの中に入る事で、まずは血液や骨の中に溶け込んだ分子の大きい窒素が追い出されていく。


 高高度の低圧下では体内の窒素が気化するために、血管の閉塞を引き越すばかりか、骨中で神経中枢を刺激するために激痛を引き起こすのだ。

 充分に体内から窒素を排出したことが確認されると、次にDDC内は加圧される。これによってパイロットの血液中の酸素濃度は上昇し、低酸素状態への備えができる。

 

 宮本、松木、相場の3名は、アラートハンガー(スクランブル発進任務のために設けられた格納庫)に併設された専用のDDCに入ると、気密ハッチを閉めた。

 DDCの中は意外と広く、円柱状の構造物が区画ごとに接続され、まるで国際宇宙ステーションを思わせる造りだ。トイレやベッド、シャワールームまで完備され、中で待機するパイロット達に、精神的なストレスを与えないような配慮がされている。

 今後、高高度スクランブル任務が定常的になれば、アラート待機の当番に当ったパイロットは、このDDCの中で1週間ほどを過ごしながら、スクランブルの下命を待つ。そして次の当番と入れ替わりに、DDCから出て行くというシステムが確立されるだろう。


「宮本二佐はなぜ自衛隊を辞められるのですか?」

 DDC内のソファで出撃指示を待つ間に、松木が訊いた。

「どうしてそんな事を訊く?」

「私から見ると、宮本二佐はパイロットとしては最高の道を歩まれていると思います。このまま自衛隊に残られて、我々の目標で居続けていただきたく思います」

「そういってもらえると有り難いが、俺は長く空にいすぎた。そろそろ後進に道を譲るべきときだよ」


 宮本は高校を卒業して、航空学生として航空自衛隊に入隊した。宮本は子供の頃から戦闘機のパイロットになるのが夢だった。

 防衛大学に行く道も無くはなかったが、宮本にとっては自衛隊の幹部になることよりも、現場のパイロットになることの方に魅力を感じた。そのためには航空学生からパイロットになるルートの方が、現場に直結していると思った。


 宮本の配属先は厳しい職場だったが、肌には合っていた。20代の終わりには、米国への留学もさせてもらい、30代ではTPC(Test Pilot Course :試験飛行操縦士課程)に進み、空自のパイロットとして誰からも一目置かれる存在になった。

 上官の推薦もあって、34歳で指揮幕僚課程に進ませてもらい、佐官への昇進の道も開けた。40代を目の前にして念願の飛行隊長にもなった。幕僚監部付として地上勤務を打診された事もあったが、幹部コースは柄でもないと断って、飛行開発実験団に異動し、テストパイロットになった。二等空佐に昇進したのもその頃だった。

 年齢による反射神経や体力の衰えにはあらがいがたかったが、長い経験と知識はそれを補うに余りあった。特にテストパイロットになってからは、その思いはより強くなった。


 新型機の試験飛行は、思いも掛けないトラブルが続出する。最新素材のボディー、最新の高出力エンジン、最新のセンサー、最新の計器類は、十分に試験を重ねて熟成させるまでは、調和の無いただの部品の寄せ集めに過ぎない。

 パイロットが意のままに操れるようになるまで、何年もかかる。そんな不完全な状態で、機体の限界性能を引出し、不具合をあぶり出すのがテストパイロットという仕事だ。


 1950年代の米国では、各部隊のエースたちがエドワーズ空軍基地に集い、テストパイロットとして音速の壁に挑んだのだという。4度の出動中に1回未帰還、週に1人が死亡するという悪条件の中で、ジェット戦闘機は発展してきたのだ。

 当然宮本も、死の危機に直面した事はある、それも一度や二度では無い。そしてその都度自分を窮地から救ってくれたのは、若さゆえの瞬発力ではなく、経験に裏打ちされた勘だった。


 宮本は自分の力量に自信を深める一方で、いつの頃からか、テストパイロットで居続けることに躊躇ためらいを感じるようになった。それは決して恐怖心や怯えから来るものではない。

 テストパイロットの席は数少なく、その座に就けるのは、実力と運を兼ね備えた一握の人間だ。自分が退かない限り、若い後進が就く事は出来ない。宮本がテストパイロットになれたのも、まだまだ飛べる先輩のベテランパイロットが、身を引いてくれたからだった。


 宮本は自分と同じ道を歩む後輩に、いつかは道を譲る覚悟だった。そしてその後の自分の進路としては、ここ数年打診を受けていた、航空学校副校長への就任に心が動いた。自分と同じように、航空学生として入隊した若者を育てることは意義あることだ。もしもそこで定年まで勤め上げれば、恐らくは航空学生出身者としては望外の、一等空佐に昇進し、自衛隊でのキャリアを終える事ができるだろう。


 しかし――、宮本はやはり現役パイロットのままで、現場を去りたかった。宮本が辞表を出したのは、それが理由だった。家族を思うと、我ながら我儘だなと言う気もした。しかし妻の陽子は、「好きにすれば良い」と言ってくれた。

 宮本は松木に「君も歳を取ったら分かるかもしれないな」と言った。


「しかし、中国もやっかいなものを作ってくれましたね」

 今度は松木に代わって、相場が口を開いた。やっかいなものとは、HZ22・閃光の事を指していた。


 閃光は高度80,000から100,000フィートを飛行する、超音速の高高度偵察爆撃機だった。ロシアから供給されたサトゥールン119エンジンを3基搭載し、フルA/Bアフターバーナーではマッハ3.5を越えると予想されていた。


 初めてその存在が確認された2020年当時は、専門家は滑空型の中距離弾道ミサイルであろうと分析をしていた。しかしやがてそれが、有人の偵察爆撃機であると判明した時、日本と米国が受けた衝撃は大きかった。

 PAC3地対空ミサイルの到達高度より遥か上の高度から、自国の領空に侵入する爆撃機がいる。実際に侵入するかどうかは別として、侵入できる能力のある爆撃機が存在するという事実は、脅威以外の何者でもなかった。

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