第3話 ウインドミル・スタート
――2023年4月8日、10時47分、愛知県沖上空――
低空域を高速に上昇していた心神の機体は、まるで堅い空気の壁を切り裂いて進むかように、ガタガタと小刻みに震えていたが、高度が上がるにつれ、次第にそれは安定していった。
48,000フィートで一旦水平飛行に移り、宮本はそこから再加速を行った。
心神は軽量化ボディーと大推力エンジンの組み合わせによって、
マッハ計が1を越えたところで、宮本はやや機首を下げながら、A/Bに点火する。マッハ計の数字は見る見る上がり、マッハ2を越えた。宮本はそこから、機体を減速させないようにゆっくりと機首を引き起こし、迎え角を最小にしながら、50度で安定させた。
これはズームアップと言われる飛行法で、ミサイルの弾道飛行と同じようなものだ。運動エネルギーが位置エネルギーに変換され、機体の減速と引き換えに見る見る高度が上がって行く。
70,000フィートを越えると空が薄紫色に変わり始め、80,000フィートで周囲は濃紺色になり、空気が薄いために全く外音が聞こえなくなる。
この辺りから地球の丸さがはっきりと認識できるようになってくる。
90,000フィートを越えると、地球はもう明らかに球体で、薄い大気の膜が地表に張り付いていることが分かる。まるで宇宙ステーションからの映像を見ているようだ。
運動エネルギーの減少と共に、上昇角度は次第に浅くなり始めていった。そして何も操作をしていないのに、100,000フィート間近で
100,000フィートを突破すると、エンジンが喘ぎ始め、不規則な振動を生じた。高度の限界域ではDEEC制御(デジタル式エンジン制御)に問題があるようだ。
そろそろ機体の限界と判断した宮本はスロットルを戻した。どこまで上昇したのかは、正確には地上に戻ってから、観測データを見るしかないが、100,000から110,000フィートの間くらいだろう。まずまずの出来だ。
慣性による上昇限界に達した機体は、段々と機首を下げ始めた。
そのまま正面に水平線が見え、そして機首が水平線のレベルを切る――、はずだった。
しかし心神は宮本の予想を裏切り、機体は機首を上にしたままでゆっくりとヨーイングを始めた。ノーズスライス(意図しない機体横方向の回転)で、機体がアンコントロールになる寸前だ。
姿勢制御のためにスティックを動かしても、機はまったく反応しない。空気が極端に薄いためだろう。幸いにもエンジンはアイドル状態を維持している。
高高度域では機体の挙動が全く読めない。しばらくは自由落下に任せるしかない。機体の異常を察知したセンサー群は、次々と危険域を示す赤に表示が変化し、同時にエマージェンシーの警告音が鳴りはじめる。
80,000フィートを切ったが、スティックには何の反応も返ってこない。70,000で機首が下がり始めた。そろそろ操舵系が効きはじめる頃だが、ラダーにも効果が無い。
やがて機体が正立した状態で、それまでとは逆方向にヨーイング(水平回転)を始めた。空力的な平衡状態に入りかけている前兆だ。このままでは完全に失速して、フラットスピン(きりもみの一種)の状態に入ってしまう。航空機では最も危険な状態の一つだ。
宮本はエンジンの推力を上げようとしたが、どういう訳か左のエンジンがフレームアウト(エンジンが止まること)する。右エンジンも出力が上がってこない上に温度だけが上がり、やがて微振動。明らかに挙動がおかしい。
宮本は急いでスロットルをアイドリング状態に戻した。心神の制御系は、全動力がエンジンからの発電に依存している。右エンジンまで止めてしまうと、油圧系も電気系も止まってしまうからだ。
やはりエンジンのDEEC制御に問題があるのは確かなようだ。とすると――
DEECと連動している、デジタル系の表示は最早信用が置けない――
宮本を支えてくれるのは、古臭いアナログの機器類だけだ。
――キャノンボール、高度が急激に下がっている、異常事態か?――
地上の管制塔では心神の異常を察知し、管制官が叫び声を上げた。
宮本は何も答えなかった。というよりも、答えられる状況ではなかった。アドレナリン全開の状態で、これから取るべき行動を考えていたからだ。
――飛行中の心神に異常事態発生。地上部隊、および救難ヘリは待機――
――キャノンボール、キャノンボール、状況を報告せよ――
「……」
10分の1秒単位で幾つもの判断が必要な緊急事態だ。説明している内に取り返しがつかなくなる。宮本は無線を切って目の前の事態に集中した。
ベイルアウト――つまり、射出座席による機外への脱出――が頭をよぎる。しかし高度が高すぎるし、そもそもベイルアウトの成功確率自体が8割程度しかない。もしも運よく射出に成功したとしても、半数近くのパイロットは体に重大な障害を負って、二度と飛行することができなくなる。
「まだやれることは、あるはずだ」
宮本は思い直す。
ヨーイングの速度はそれほど上がっていないので、機体が空中分解するにしても、宮本が失神するにしても、まだ時間的には余裕が有るはずだ。高度もまだ70,000フィートはある。
最悪の事態――自由落下の果ての墜落――はしばらく考えなくて良い。
さて、どの順番で何を試す? 宮本の頭はフル回転した。
まずはスピンを止めなければならない。どうやって――?
このまま自由落下に任せ、空気密度が上がってくる40,000フィート付近で操舵が回復する事を願うか、それとも右エンジンの出力上昇に掛けてもう一度スロットルを入れるか――?
どちらにしても分が悪いが、どちらかをやるならば後者だろう。宮本の左手はスロットルレバーに触れた。しかしそこで手が止まった。長年の飛行で身に染みついた勘のようなものだった。
「待てよ」
と、宮本は思った。DEEC制御だけでなく、アビオニクス(航空用電子機器)全般にデジタル制御のエラーが波及しているとしたらどうだろうか?
心神の操舵系はフライバイワイヤーで電子制御だ。もしかすると現在神心は、完全には失速しておらず、油圧系が動いていないだけかもしれない。
宮本はそれを確認するために、主翼を目視しながらスティックを横に倒してみた。――エルロン(補助翼)は、動きはするものの、ごく僅かだ。
試しに、思い切りスティックを操作してみたが変わらない。
「なるほど、そういう事か」
明らかに油圧系の異常動作が起きている。だとすれば、どうする?
宮本は意を決して、ジェット燃料の過給機のスイッチを切った。右側のエンジンが止まり、同時に操舵系の油圧が全てOFFになる。次に宮本はメインコンソールの予備電源を落として、再度入れ直した。
メインパネルには離陸前のように、テストパターンが瞬いた。これですべてがリセットされるはずだ。
次はどうやってエンジンを再始動するかだ。JFSを使うのが近道だが、そもそもJFSは地上で使う事が原則で、高高度で使用するためのマニュアルはまだ整っていない。下手をするとエンジンを破壊しかねない。
「一発勝負に賭けるか?」
しかし宮本は、それも思い止まった。
「そうだ、もう一つだけ試すことが有る」
宮本は、ドラッグシュートの起動スイッチを押した。ドラッグシュートとは、本来は戦闘機が着陸した際に、ブレーキの役割をするものである。
宮本の操作で、フライバイワイヤーから独立した電気系統によって、2枚の垂直尾翼の間からは制動用のパラシュートが飛び出した。その空気抵抗によって、機体の尾部が持ち上がる。
機首は急激に下を向くとともに、機体は不安定にロール回転を始めた。宮本はそこですぐに、ドラッグシュートを切り離した。
心神は機首を下に向けて自由落下し、速度計は見る見る上がって行く。エンジンが起動していないために操舵が効かず、機体はロール(錐もみ状態)したままだ。
速度は450kts。時速で言うと850㎞に迫っており、自然吸気でタービンの回転数が上がっている。宮本がイグニッションボタンを押すと、左右両方のエンジンが同時に点火し、ゴーという低い音で唸りを上げた。
ウインドミルスタート――、自動二輪の押し掛けのようなものだ。
宮本はエンジンの始動によって、油圧系が回復した事を確認すると、まずはエルロンの操作でロールを止めて、次に機体を引き起こした。
水平飛行に戻ってから高度計を確認すると、何と8,000フィートを切ったところだった。
「管制塔、危機は回避した。基地に戻る」
宮本は、無線の回線を開いてそう告げた。傍から聞くと、それまでの異常事態など何も無かったかのような平静な声のトーンだった。
無性に口の中が乾いていた。基地に戻ったら2Lのスポーツドリンクを一気飲みだ。それからそうだ――、丹沢から借りた、取って置きのあのガムで、今日の無事を祝おう。
宮本は胸のポケットに手を当てた。
――序章、終わり――
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