第2話 クリアー・フォー・テイクオフ
宮本の正面にある大型ディスプレイの下部には、所せましとアナログの計器類が埋め込まれていた。これらは心神の初期試作の段階で、メインのディスプレイが故障した場合の、フェイルセイフとして取り付けられていた名残であり、現在も作動しているのだが、使用はしていない。次の改修の段階では、重量軽減のために、取り外されることになっているものだ。
自衛隊の機体で大型パネルを採用しているのは、まだF35と心神だけだが、そのスタイルは、今や民間機を含めた航空機全体で主流となりつつある。
宮本はテストパイロットという職業柄、20年以上にも渡って、数多くの機体を操ってきたが、最近の機体――特に戦闘機――は、宮本がパイロットになった頃と比べ、隔世の感がある。
大型ディスプレイの採用もその一つだが、更に大きな違いは、視線の正面に取り付けられたHUD(ヘッドアップディスプレイ)だ。このHUDの中に航行上の全情報が表示されるので、パイロットは計器を見る必要が無いのだ。
しかもHUDに表示されるのは、生の数値情報ではない。様々な計器やセンサーの情報をコンピュータが瞬時に分析し、最適化してから表示してくれるのだ。
かつての歴戦パイロットたちは、計器パネル全体に複雑に分散している情報を、自分の頭脳で分析して解釈する必要があった。しかしそれも今となってはもう昔の話だ。コンピュータにフルサポートされ、コンピュータが弾き出した幾つかの選択肢の中から、最適と思われる選択をする。それが現代のパイロットの姿だ。
宮本は立ち上がった大型ディスプレイで、機体の計器類の正常起動を確認すると、先程機内に持ち込んだジュラルミンのケースから、ホースを外して、機体内のバルブに繋ぎかえた。ヘルメット内へのエアーの供給をボンベから、心神に切り替えたのだ。
不要になったケースは、コクピットの外で待機する丹沢に渡す。そして与圧スーツに、加圧空気を供給するホースを繋ぐ。下半身を中心に、エアーが満たされていくのが分かる。そこから先はいつもの手順と同じだ。
サバイバルキットにハーネスを繋ぎ、シートベルトを締める。ベルトのロックを確認している間に、丹沢が手を伸ばし、JFS(Jet Fuel Starter)のスターターハンドルを引いてくれる。
JFSはジェットエンジンを起動するための補助動力だ。それ自体が小型のジェットエンジンと言ってよい機構を持っており、自動車でいうとセルモーターのような役割をする。
JFSの回転が上がり、甲高い金属音が聞こえてくる。JFS-READのライトが点灯する。
右側のエンジンとJFSのギアを接続すると、メインタービンが回転を始め、燃料がエンジンに送り込まれる。イグニションが燃料に点火すると、ブォーという低い音が立ち上がり始め、JFSの音をかき消す。
続けてJFSを左側のエンジンに接続すると、すぐに左のエンジンも目覚める。
宮本はキャノピーを閉める間際、丹沢に「ガムあるか? 後で返すから」と訊いた。それはかつてイェーガー氏が、テスト機を発進させる前に、いつも同僚のジャック・リドレイ大尉と交わしていたジョークを真似たもので、宮本にとって飛行の無事を願う、まじないのようなものだった。
「最後の一枚だから、必ず返して下さいよ」
と言って、丹沢は宮本にガムを渡した。それもいつもの決まり文句だった。
普段ならば宮本は、すぐにそのガムの封を開けて口に放り込むところだが、今日は密閉型のヘルメットを装着しているためにに、それをすることができない。
ミントの爽やかな風味を想像しただけで、宮本はそれを胸のポケットにしまった。
心神のエンジン回転数は澱みなく上がっていった。
温度上昇――正常
INS(慣性航法装置)――正常
ジャイロの補正――完了
宮本がそこまでを確認したところで、機の外側で最後まで油圧系統をチェックしていた、丹沢の相棒のもう1人の整備士、柳田が走り去った。
石川島播磨重工業で開発された、国産の大出力ジェットエンジンIHIX6は、アイドリング状態であるにも関わらず、13t以上もある心神の機体を、軽やかにタキシング(滑走路を地上走行すること)させる。
宮本は誘導路を進み、滑走路の端に来た。そして機体を滑走路に平行にした状態で機体を一旦静止させた。
宮本はその場でフルブレーキングしながら、スロットルを引いて、エンジンの出力を徐々に上げて行った。エンジンに異常はなし――。80%の推力を維持しながら管制塔からの指示を待つ。
多板式の強力なディスクブレーキシステムを備える心神ではあるが、エンジンの大推力に負けて、機体はじりじりと前に進んで行く。
――キャノンボール、クリアー・フォー・テイクオフ――
インカム内に管制官の声が響く。
離陸許可を受けた宮本は、ブレーキを離してエンジンの出力を上げた。キャノンボールは宮本の機のコールサインだ。まるでその呼び名のごとく、大砲の弾のように加速する心神。
宮本がA/B(アフターバーナー)を点火すると、心神は宮本の背中をより深くシートに押付けて再加速した。
わずかにスティックを引くだけで、心神は滑走路から浮かび上がり、宮本はすぐに脚とフラップを引き込む。そしてそのまま加速を続け、上昇可能速度に達した事を確認してから大きく機首を上げた。
「さあ、行くぞ!」
宮本は自分自身に気合を入れた。
――2023年4月8日、10時30分、岐阜県、各務原市――
松田涼子は市民公園の芝生に寝転がって、空を見上げていた。ジョギングコースの丁度中間地点がその公園で、いつもここで一旦呼吸を整えて、腹筋とストレッチを入念に行うことが、涼子の日課となっている。
昨日入学式が終わって、涼子は晴れて高校1年生になった。明後日の月曜日からは正式に授業が始まる。
いつもならば涼子は、早朝の内にジョギングを済ませるのだが、のんびりできるのも今だけだと思ったら、ついつい未明の時間まで、趣味のフライトシミュレーターに興じてしまい、目覚まし時計が鳴っていることに気がつかなかった。
「月曜からは、遅刻しないように気を付けなくっちゃ」
涼子はひとり言を言いながら、体を起こした。
その時だった――
不意にゴウという音が鳴り、周囲の空気が震えた。
「心神だ」
瞬時に涼子は期待を込めた視線で、その音のする方を向いた。
ここ各務原市の上空では、最寄りに航空自衛隊・岐阜基地がある関係で、航空自衛隊が採用する、あらゆる航空機の試験飛行を目撃することができる。だからというわけでもないが、飛行機好きの涼子は、特段に努力をするでもなく、いつの間にかエンジン音を聞いただけで、機体が何か、分かるようになった。
航空マニアを自負している涼子にとって、とりわけこの特技は自慢なのだが、残念な事もある。それはいくら涼子が、音だけで機体を百発百中、言い当てても、誰もそれを証明してくれないことだ。
何故ならば、ずば抜けて視力の良い涼子以外には、その音を発している機体を目視できないのだ。
今、涼子の視線のずっと先には、急角度で天空に駆け上がる心神がいる。
試験機ならではの、トリコロールカラーに塗られた美しい機体は、遼子が小学校の高学年の頃から見かけるようになり、そして年を追うごとに目撃頻度が増えて、今では日常の中にある。
因みに、幾ら岐阜基地が、テスト飛行を担当している場であると言っても、住宅地の頭上で未成熟な機体を試すことなどは有り得ない。南に向かって飛び、伊勢湾を抜けて太平洋に出るか、北に向かい、若狭湾から日本海に出たところでそれは行われているようだ。
この日の心神は、南に向かっていたので、目指しているのは太平洋だ。できることならば、一度で良いので、それを間近で見てみたいものだと涼子は思う。
それにしても――、と涼子は思った。あんなに急角度で上昇する心神を見るのは初めてだ。どれほどの仰角であるのか知る由もないが、涼子が見ている方角からは、まるでロケットが垂直に打ち上がっていくように見える。
太平洋に出るまでにも高度を稼ごうしているところをみると、恐らくその行動は高高度上昇テストか、それに近い機体の限界性能を見極める、特別なミッションなのだろう。
「すごい、すごい!」
重力に抗うように天空を目指すその姿に、涼子は感動を覚えた。そしてずっと、その心神の軌道を目で追った。
「あの心神のように!」
自分も夢に向かって邁進したい――。涼子は兼ねてからの思いを新たにした。
「今日は、寝過ごしてラッキーだったかな!」
そんな言葉が、思わず涼子の口をついて出た。子供の頃から涼子は、心神を見た日には、なんとなく良い事が起きそうな気がしていた。今もそれは変わらない。
しかも今日はなんと、これまでに一度も見たことの無いマニューバ(飛行行動)だった。
「なんだか、元気が出ちゃったよ!」
涼子は満面の笑顔になった。
やがてゴウと響いていた音は小さくなっていき、涼子が見上げる視線の先で、心神は小さな点となって、青い空に溶けて行った。
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