第5章 テンペスト

第20話 突然のオファー

――2024年7月10日、岐阜県、各務原かかみがはら市――


 涼子はこの春で高校2年になった。一昨日は、夏休み前の進路指導が先日あったばかりだ。

 1年生の頃からの担任である小笠原は、これまでの涼子との攻防で、涼子の志望校を航空学生から変えさせることは、諦めてしまったようだ。以前のように東大、東大とは言わなくなった。涼子にとっては少しだけだが、気が楽になった。

 もしかするとそれは小笠原の作戦で、何かを企んでいるのではないかといぶかっているが、もしもまた東大がぶり返したら面倒だが、それはその時の話だ。


 涼子は昨年の秋以降、ソニック・ストライカーでバウとペアを組むことが多くなった。バウは仕事が忙しいらしくて、ログインの頻度は高くないが、それでもログインをした時には、必ず涼子に声を掛けてくれる。

 涼子は7月頭のソニック・ストライカーのイベントで、好成績を残したおかげで、世界ランキング45位にまで躍進していた。遂に憧れの50位以内を達成したのだ。部門別ではドッグファイトが15位、空対地ミサイルによる地上攻撃が9位に食い込んでいる。

 実際はそれは自分の実力ではなく、バウがウィングマンとしてサポートしてくれたお蔭で初めて達成できたことだ。涼子にはそのことが十分に分かっていたが、周囲から絶賛され、海外からもファンメールが届くようになると、悪い気はしなかった。


 涼子はここ数日、放課後には高校の実験室に籠り、ロジカルアナライザーの画面を覗き込みながら、半田ごてを握る日が続いていた。ソニック・ストライカーで使用しているコントローラーに、“ある改良” を行っているのだ。


 先月書店で立ち読みしていた『ラジオ技術』という雑誌に、ソニック・ストライカーの解析記事が掲載されており、その記事によると、ソニック・ストライカーのシミュレーター部は、内部処理が全て128ビットで行われているのに対し、市販されている専用コントローラーは、古いタイプのPCと下位互換で接続する必要上、インターフェースの仕様に合わせて、64ビットに簡略化されているのだと書かれていた。

 その記事によれば、ソニック・ストライカーの毎月のミッションで、桁違いの高得点をたたきだしているトップグループの何人かは、このコントローラーを128ビットに改造しているらしい。


『ラジオ技術』には128ビットインターフェースへの改造方法が、図解入りで丁寧に解説されており、しかも付録のブルーレイディスクには、ソフトウェア側に当てるパッチプログラムまで添付されていた。因みにこの改造は、オンラインゲームで不正に高得点を獲得する、チートという手口とは別物の、極めて正当な“改良”と言えた。


「さあて、これでスティックとスロットルは2セットとも完成。後はラダーペダルだけだ」

 涼子はひとり言を言った。

 7月のイベントでバウにお世話になったお礼をしようと、涼子はバウの分のコントローラーも一緒に作っていた。プレゼントをするときっとバウは喜んでくれるだろうし、直接手渡しすれば、会いに行く口実にもなるだろう。

 涼子はバウに、自分が航空学生を目指している事を告げて、色々と個人的な相談もしてみたかった。何しろバウは、元空自のパイロットだっらしいし……


    ※


 この日、涼子が日課のランニングを終えたのは、もう夜の9時を随分と過ぎた頃だった。放課後に実験室で過ごす時間が増えると、必然的に全体のスケジュールが夜にずれこんでしまうからだ。

「ああ、今日は随分と遅くなっちゃった」

 風呂に入ってから、食卓に準備してあった食事をすませると、もう10時を過ぎていた。これから授業の予習と復習を済ませ、ソニック・ストライカーに没頭すると、徹夜になり兼ねないなと思う。深夜の時間帯は、腕に覚えのあるヘビーユーザーが多いので、ついつい楽しくて、アラートハンガーに長居してしまうのだ。


「よし決めた! 今日は、ほんの少しだけ!」

 迷った末に涼子は、勉強の前に1時間だけだと決めて、PCの電源を入れた。

 そして遼子がソニック・ストライカーを起動すると、そこには見慣れない一通のメッセージが届いていた。


「何だこれ?」

 そのメッセージは、ソニック・ストライカーの開発元、フェニックス・アイ社からのものだった。

 アイコンをクリックしてメッセージ開くと、その文面は英語だった。正直言ってリーディングはあまり得意ではないが、パイロットを目指す以上、英語は必須言語だ。

 自動翻訳に頼らずに辞書を片手に読み進めるうちに、涼子は目を丸くした。何とそれは、フェニックス・アイ社からのスカウトメールだったのだ。


 内容はこうだ。


――Dear PineTree――


 私はフェニックス・アイ社のCEO、セルゲイ・アントーノフです。このメールは、ソニック・ストライカーで好成績を残している上位者の中から、更に厳選されたメンバーにだけお送りしています。


 現在フェニックス・アイ社では、ソニック・ストライカーを遥かに凌ぐ、最新のフライトシミュレーターを極秘裏に開発中です。このシステムは『テンペスト』と名付けられ、発表は年末を、発売は来年春を予定しています。


 もしあなたが、この新システムと、そのシステムが切りひらこうとしている新たな世界に興味をお持ちならば、これから実施する、『テンペスト』の熟成テストに参加されることをお勧めします。契約期間は1年間。報酬を含む諸条件は、本プロジェクトに興味をもった方だけに開示します。


 尚、最後に、あなたがもし本プロジェクトに参加され、且つあなたの多大なる貢献が認められた場合には、我々はあなたを極めて特別な待遇で、我がフェニックス・アイ社に雇用する準備が有る事を、付け加えておきます。


――Sincerely――



 涼子はしばらく考えて、フェニックス・アイ社のオファーに応じてみる事にした。参加するかどうかは別として、取り敢えずは契約条件だけでも聞いてみたい。

 契約期間が1年ならば、来年9月の航空学生の試験には大きな支障はないだろうし、もしもそれで、フェニックス・アイ社に雇ってもらえる道が開けるのならば、航空学生試験に落ちた場合の保険にもなる。悪い話ではない。


 涼子がフェニックス・アイ社から指定されたアドレスに、『興味があるので、契約条件を知りたい』という旨のメールを送ると、驚いたことにまるでそれを待ち構えていたかのように、30秒もたたないうちに返事が届いた。

 相手からのメールには、応募に関しての感謝の一文が書かれており、次いで諸条件の箇条書き、契約書のドラフトが添付されていた。


 涼子はまずは、諸条件の方のファイルを開いた。そして読み始めてすぐに、目を丸くして驚いた。そこに書かれていたのは、予想もしていなかった好条件だったからだ。簡単に言えばプロジェクトの参加者は、1日4時間以上のアクセスを保証するだけで、作業を行う場所にも時間にも何の制約も無く、週給2500ドルが約束されるという。

 ただし広域ネットワークグループならではの、特殊な条件が1つ付けられていた。世界中にちらばるテスター達が、一同に会する時間を確保するため、土曜日に限り、フェニックス・アイ社の所在地であるカナダ・トロントの、朝10時から夜7時までの9時間は、定時でのアクセスを保障しなければならなかった。


 最初の1日4時間という条件は、涼子が毎日ソニック・ストライカーに費やしている時間よりも短いくらいで、全く問題はない。次の条件、カナダ・トロント時間の土曜日の朝10時から夜7時までは、日本時間では日曜日の0時から、朝9時までにあたる。毎週のように週末を、徹夜でソニック・ストライカーに興じている涼子にしてみれば、取るに足らないことだ。


 詳しい契約内容は、契約書のドラフトを読むように書かれていたが、ファイルを開いてみると、英文で200ページを越えるボリュームがあり、とてもすぐに読む気にはなれなかった。

「これは大変だ。後にしよう――」

 涼子は触りの数行だけに目を通し、『前向きに検討します』という内容だけを返信しておいた。

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