第5話 責任を問われて、人間は初めて対象を具体的にすることを試みた

やりたくもないことをやったのです。私が責任をとりたかったわけではないことは明らかでしょう?  -灰寺 牧乃-



「あ。私のシンボルマークを見たので、貴方は私に抵抗できなくなりましたね。」

灰寺はついうっかりというような顔でそう言った。そそくさと右手首の傷を腕時計で隠す。

「なんでだよ。」

「貴方は私のシンボルマークを覚えました。これから貴方は『Ⅳ』という文字を見るたび私を思い出すでしょう。それは私が貴方の記憶に入り込み、貴方の意識をを支配したということ。貴方は私から逃げられない。

 ・・・よっぽど忘れっぽい人間なら別ですが。」

確かに記憶に残る。あんなものを見せられたらトラウマになる人間もいるだろう。

「ちなみにこれは、私が昔自殺を図った時の傷を隠すために付けたものです。」

「お前も自殺とかするんだな。」

「人間気が狂えば何でもできますよ。あれは、私が立派な人間になるため勉学に励んでいた時でしたね。」

灰寺は、昔は、成績優秀で常に主席だったらしい。今は平凡な成績なので見る影もないが、嘘ではないらしい。

「頑張っていたことを全面的に否定されました。とてもショックで、死ぬしかないと思いました。

 私は愚かにも義務教育をまじめに受け、勉強こそが人生のすべてだと思い込んでいたので、生きる目標を失ってしまったのです。」

灰寺にもまともな人間だった時代があったことに驚きだ。おそらく、その時のショックでこんな性格になったのだろう。

しかし勉学を否定されたくらいで自殺するものなのか。学校の授業をまともに受けていない俺にはわからない話だ。

一生かかっても灰寺の気持ちは理解できないだろう。

「自殺するときも、私は周りに迷惑をかけないように気を配りましたよ?私はいい人ですから。

 まず、切る手首は利き腕にしました。もしかして自殺じゃないのではと思わせるために。」

迷惑この上ない。というか、自殺するときにそこまで考える余裕があるのか。

「そして、左手で糸鋸を持ち、慣れない手つきでギコギコと。」

「なんで糸鋸を選んだんだよ。」

「そうですよね。全然切れませんでした。」

昔は鋸で罪人を処刑することがあったが、それを自分でやるか。

まあ、自殺するときはそういうことも考えられないんだろうな。

「そのうち眠くなったので寝てしまいました。また明日やればいいと。」

ありがとう睡眠欲。おかげで灰寺は救われた!

「一晩寝て、頭がすっきりした後で手首の傷を見て思いました。これ、どうしようかな。と。」

人間、冷静になることは大切である。間違いに気づくことができる瞬間だし。

「そのとき思いついたのです。あと4回切れば『Ⅳ』の形にできることに。」

「おい、待て。冷静になった後にその傷をつけたのか?」

「恥ずかしながら中二病というやつです。糸鋸と彫刻刀で何日かかけて手首を。」

自殺しようとしていた時のほうが正常だった。灰寺にまともな考えができる日は来るのだろうか。

「ところで、今になって考えてみると、自殺とは愚かな行為です。当時は自分で自分を殺すことだと思っていましたが、今は違います。

 自殺は、社会に殺されることです。

 人間特有のスケールの大きい責任転嫁を忘れていました。」

「社会と来たか。」

「社会です。人間社会に危うく殺されるところでした。これだから人間は・・・。」

勝手に話して勝手に怒る。子供。

「人間というのは、何か問題が起きると、誰が悪かったか、ということを明らかにしようとします。ぼんやりとした目標をもって、ぼんやりと毎日を送っているくせに、こういうときはぼんやりとしたままにはしません。

 この人が死んだのは社会のせいだ。という、ぼんやりとした社会というものを原因にするのではなく、この人は自分で命を絶ったのだ。という、はっきりとした個人を原因にして、ああよかった、と、片付けるのです。

 というわけで、自殺は損です。」

最近は自死という言葉もあるが、確かに周りに環境が悪いとか、社会の仕組みが悪いという話にはならない。

自殺をするのは個人の責任。そういう話がぽっと出て終わる。世間は冷たいのだ。

「人間社会はひどい世界です。あれがしたいこれがしたいとぼんやりと求めておきながら、問題が起きると、誰が悪いのか必死になって探す。誰かに責任を押し付けて、ああよかった。またぼんやりと特にやる気もなく何かしらを求め、問題が起きると誰誰誰。」

「トップが責任を問われるのは当然だけどな。」

「何の解決にもなりませんけどね。蛇口から出る水を止めるために、コップを取り換えるようなものです。大元を止めないと、水は流れ続けます。」

人間は何か起きてからでないと気が付かないことが多い。愚者は経験より学ぶ。

もちろん気が付く人もいるのだが、多くの人間は何か起きるまで何もしない。

何が起きるかわからない状態よりも、何か起きた後の状態のほうが対応が簡単だからだ。何をするかわからないストーカーを見張るより、殺人まで至った後にストーカーを捕まえるほうが簡単だろう。

人間はぼんやりとしたものには対応できない。対象がはっきりして初めて行動できる。

「しかし、そのおかげで人類は生き延びることができたのも事実です。」

一通り人間を否定した後で、灰寺はフォローが必要と思ったのか、妥協したのか、肯定を始めた。

「人狼というゲームがあります。参加者の人間の中から、狼役の人間を探すゲームです。

 参加者の人間は怪しいと思う人間を片っ端から殺していくわけです。」

「現実ではやれない行為だな。」

「いいえ。現実でも同じようなことは起きています。起きていなければ、人間はすべて狼に殺されていたでしょう。」

灰寺にとって、人間は生きようが死のうがどうでもいい存在なので、こういうことを普通に言う。

「人間には物事を正しく判断する能力がありません。人狼というゲームが成立するのも、人間が正しい状況判断能力や人の嘘を見抜く能力が欠けているからです。

 そんな人間が日常生活に紛れ込んだ殺人鬼を探すには、疑わしい人間を一人残らず捕まえるしかないのです。」

「捕まった人間のほとんどが無関係なんだろう?」

「無関係だろうと犯人だろうとどうでもいいのです。人間は犯人を捕まえたいのではありません。

 犯人に自分が殺されるという不安から解放されたいだけなのです。自分さえ助かれば、それでいいのです。そうでなければ人間は子孫を残し、次の世代につなぐことができませんから。

 生きていればなんとかなる。子供が死んだらまた生ませればいい。そんな考えの人間が大勢生き残ってきたのです。そもそも無差別に人間を殺して快楽を得る生活を続ける人間は、それほどいません。うらみのある人間を殺して、それで終わりというケースが多いです。犯人が捕まらなくても、大した問題にはならないのです。

 欲しいのは自分は殺されないという保証だけなのです。」

確かに死んだら終わりである。人間は死があるからこそ、子供を作り、子供を育て、次の世代に望みを託すのである。

だが、そんなことをしてまで生き残った人間に、価値があるのだろうか。

「その理論でいうと、ろくな人間が残らないことになるぞ?」

「はい。ろくな人間が残りませんでした。状況が厳しくなればなるほど、ろくでもない人間が残ります。治安の悪い地域が貧民街に多いように、生きるか死ぬかの瀬戸際の場所で生き残るには、人の道、道徳を捨ててでも自分の身を守ることが重要です。これは支配者にとってよくないことです。」

「ろくでもない人間が増えると支配者が困るのか?」

そういう地域なら賄賂とか結構もらえそうなイメージがあるが・・・。

「人間にとっての善悪というものは、支配者が人民をコントロールしやすいように定められています。

 人間を殺してはならないのは、支配者が手にする税金を払う人間が減るからです。

 人民に支配者が殺されるという事態が起きないようにしたのが始まりですが、今となっては数が重要。

 どんなに出来が悪くても、ろくでなしでも、税金さえ納めてくれればそれでいいのです。」

最近やたらと少子化という問題が取り上げられると思ったら、そういうことだったのか。死んだ人間からは税金が取れない。死んだ人間より、生まれてくる人間の数を増やさなければ、支配者の財布の中身は減る一方である。だが、そんな説明はされていない。少子高齢化という、少子化と高齢化とセットにする形で取り上げられている。

人間にとって、支配者の懐事情などどうでもいいのだ。できれば税金なんて払いたくない。わざわざ子供を増やして、支出が増えることなんて、避けたいことなのだ。

だが、少子高齢化は違う。将来、高齢者の世話を誰がするか、という話になる。

すなわち、『自分の世話をしてくれる誰か』という、責任者を探すことになる。

年金を頼りに100まで生きるつもりである人間は多い。だから多くの人間が現実に向き合うようになる。子供を産まなければ面倒を見てくれる対象がいなくなるばかりか、自分の負担も大きくなる。長生きしたい人間ばかり増えていくので、頼りの年金も減っていく。

責任を擦り付ける相手がいなくなることは、人間にとって都合が悪いことである。

親の責任を背負うために生まれてくる子供たちは可哀想ではあるが・・・。

「管理者として大切なことは、ぼんやりとしたものを正確にとらえることです。

 人間は人それぞれ。個性もあり、はっきりしたことがつかめない生き物です。

 これらを管理するためにそれぞれを明確にしようとしていてはまだまだです。

 そして、ひとたび問題が起きれば、今までばらばらに行動していた人間たちが、

 ここぞとばかりに団結して攻撃を始めるでしょう。そんな時は一度人間を手放すことも大切です。

 人間なんてたくさんいますから、また別の人間を管理すればいいのです。」

「管理するものがなくなったら管理者困りそうだな。一度手放したら人間戻ってこないんじゃあないか?」

「いいえ。困るのは人間です。管理者がいないということは、責任を取る存在もいなくなるということです。

 そうなると責任を取るべき対象は自分自身になります。それを受け入れられる人間はほとんどいません。あわてて責任を転嫁できる対象を探すでしょう。新しい管理者を見つけて、ああよかった。と暮らすのか、それとも、いなくなった管理者をいつまでも恨みながら暮らすのか。知る由もありませんが、滑稽なことに変わりはありません。

 人間を眺めるのは、第三者の立場にいる時が一番楽しいですよ。」

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