オイシイ関係 スピンオフ2

私の名前は遠野という。

性別は男性。

ごく一般的な吸血鬼だ。

年齢と身長、体重ねぇ…。

なんでそんなことを教えないといけないのかな?

プライベートってやつだよね?

え…?

あの少年は教えてくれたって?

みんながみんな同じだと思わない方がいいんじゃないかな?

それにミステリアスな方がモテるっていうじゃない。

知らない方がいいことだっていっぱいあるよ。

それでも知りたいって?

後悔しても、知らないよ…?


  ○  ○  ○


季節は秋。

中学3年の修学旅行でのこと。

僕は憧れの先生を呼び出した。

僕はそこで先生に告白することを決めていた。

場所は紅葉の見える石段。

2人して木々を見上げながら、ゆっくりと段をのぼる。

風が吹く度に橙や黄に染まった葉が僕らの間で舞い踊り、時折僕や先生を撫でていった。

僕の心は頭上に広がる空のように晴れやかだった。

やっと先生に…好きな人に、隠し事をせずに生きていけるのだから。

少し開けた踊り場で、僕は先生を呼び止めた。

「驚かないで聞いてくださいね。」

そう前置きすると、先生は「なに?」といたずらっぽく笑った。

「僕は吸血鬼なんです。」

微笑みながらそう告げると、疲れた目をした先生は、明らかに顔を強張らせた。

「何を言っているの?私のことをからかってるの?」

ぎこちなく僕に話しかけてくる先生は、どうやらこの告白を冗談と思っているようだった。

「からかってなんていません。」

「あなたらしくない。そんなことを言うなんて。」

「僕は本気です。」

先生は笑っている。でも、その笑顔はまるで醜いカエルのようだった。

言うことをきかない子どもに向ける、つまらない顔だ。

僕の言葉を全く本気にしようとしない先生は、どうしたら僕のことを信じてくれるだろうか。

「なんで信じてくれないんですか?」

「だって、おかしいもの。」

「本当のことを言って、何がおかしいんですか?」

「本当のことじゃないもの。」

先生は、大人ということを誇張するように笑った。

本人が本当だと言っているのに、なぜ本当のことではないなんて言うのか。

僕は先生の現実的なところも好きだったけれど、今だけは少しイラついた。

「先生は、離婚しましたよね。」

声色を変え、ひと言つぶやく。

すると先生の顔がまた強張った。

今度は余裕なんてなく、不自然に目が泳いでいた。

「突然何を…。それになんでそれを…?旧姓に戻してないのに…。」

「自分で調べました。」

「調べたって…。探偵じゃあるまいし…。」

「僕ら吸血鬼は、探偵以上のことができますよ。そういう風に訓練されているので。」

「なにそれ…。あぁ分かった。そういう設定なのね。優等生のあなたがそんなことをするような子だとは思っていなかったけれど、やっぱり男の子なのね。今のは鎌をかけただけでしょ?自分が何でもできると思うのはいいことだけど、現実は…。」

「現実を見ていないのは先生の方じゃないですか?」

これではいつまでたっても核心に近づけない。僕は、吸血鬼であることを認めてもらい、先生に今以上に受け入れてもらうために告白したのだ。

それには、先生に僕がどれだけ本気かを伝えなければならなかった。

「僕、知ってるんですよ。先生が離婚が認めきれなくて、元の旦那さんのことをつけ回してることも。だから結婚指輪を外せないことも。僕のことを気に入っていることも。」

先生の目が信じられないくらい見開かれる。口がパクパクと動く様子は、酸欠の金魚のようだった。

「僕、旦那さんに似ているんでしょう?だから特別扱いしたくなる。僕、分かってるんです。成績がいいだけじゃ、先生にこんなに近づけないってことも。…だって、分かっていてわざとやっていたことだったんだから。」

先生の夫の性格をトレースするのは簡単だった。もちろん訓練されていたからだ。相手に好かれるために身につけた技術。僕の中に理想の夫の姿を見つけた先生は、すぐに僕を側に置きたがった。そして僕はその心の隙間につけこんだ。

「なんで…そんなこと……。」

先生がおびえ始めてしまった。ここは、一気に押し切ってしまった方がいかもしれない。僕は大きく息を吸い込んだ。

「僕は先生のことが好きだから…。」

「黙りなさい‼」

先生がヒステリックに叫んだ。教師が生徒に𠮟りつけるというより、その場にあるものを、全て拒絶するような声だった。綺麗になびく髪が、先生自らの手によってぐしゃぐしゃの毛糸玉みたいに絡まる。

「いい加減にして!からかうのはやめて!もうめいっぱいなの!今にも頭が壊れそうなのよ!分からないの!なんであの人が私のことを捨てたのか!なんで帰って来てくれないのか!どうしてこんなことしちゃうのか!」

先生が泣いている。真っ赤になって、声をあげて、涙を流している。顔を覆った手から、涙が伝い落ち、足元を濡らしている。そんな風にさせるつもりはなかったのに。

「先生。泣かないでください。僕がいます。吸血鬼と人間じゃ子どもはできないから、旦那さんの代わりにはなれないかもしれないけれど、絶対に先生のことは捨てないよ。約束する。少しずつでいい。先生自身が好きな自分になれるように、一緒に頑張っていきましょう。」

ポロポロと涙を流す先生に近づいた。

「だから、始めに僕のことを知ってくれませんか。本当の僕のこと。」

まだ、ほんの少しだけ僕の方が身長が低い。

それが、すごくもどかしかった。

「先生。僕を、先生のお気に入りじゃなくて…特別にしてくれませんか?」

そうして、憔悴しきった様子の先生の腰をゆっくり抱き寄せた。

先生は僕を拒まなかった。

それがひどく嬉しかった。

「先生……。」

つぶやいて、抱きしめる。

華奢で骨ばった先生の体を壊さないようにと気を付けながら、そっと包み込んだ。先生の顔は長い髪で隠されてしまっていて見えない。それでも、僕は先生が腕の中にいるだけで今までにない幸福感に満たされていた。体を近づけたからだろうか。先生の鼓動を感じる。

それを聞いて僕は、あることを考えていた。

先生の血が飲めたらどんなにいいだろう、と。

欲情すると相手とひとつになりたいという感情が湧くと教わった。それは人間にとっては当たり前だが、吸血鬼の僕にとっては理解しきれない衝動だった。でもそれは本当だという事が今、分かった。性欲をほぼもたない吸血鬼にとって、ひとつになりたいという感情はこういうことだったのか。人を見て美味しそうだなんて思ったことはなかったのに。

この人の血を飲みたい。

殺してしまいたいほど愛しい。

ひとつになって、永遠に離れることなく共に過ごせたら、どんなに素敵だろう。

もしも、先生が僕より先に逝ってしまうのなら、その前に僕が先生の血を全て飲んで、ひとつになろう。

なんていい考えだろうか。

僕は先生を抱きしめている間に、これからおとずれるであろう先生との蜜月にも似た日々を想像して、さらに嬉しくなった。

僕の人生はこのためにあったのだとさえ感じた。

「先生…。」

もう1度囁き、首元に鼻を擦りつける。嗅いだことのない、甘い匂い。

そして力強い脈。

そこにかぶりつくことを想像しながら息を吐く。

その時の僕は、先生が自分のものになると、信じて疑わなかった。


それがいけなかった。


「いやっ…‼」

先生が僕を突き飛ばした。完全に油断していた僕は、思いのほか後方によろけた。すんでのところで手すりに捕まり、体勢を立て直す。

「先生…?」

僕が困惑していると、先生は叫んだ。

「全部あなたのせいよ…!」

先生の中で、全ての事象が僕のせいになる。

先生の目は恐ろしいほど冷たく、そして怒りに燃えていた。

「あなたはあの人じゃない!私が欲しいのはあの人だけ!あの人さえいれば良かったのに!なんで!なんであの人はいなくなって、あなたなんかがここにいるの⁉」

先生は僕のことを睨み付け、泣きながら叫ぶ。

「私はあなたのことなんか求めてない!あの人がいれば他には何もいらない!こんなに愛しているのにあの人は私を捨てたの!全部全部あなたのせいなんだから!返して!本当の私の夫を!私の生活を!私の幸せを!今までの全てを!」

「先生!」

先生は走り出した。人通りが多く、狭い石段はただでさえ危険だ。そこを無茶苦茶な体勢で駆け上がっていく。

僕は、答えを焦るあまり先生のことをパニックにしてしまったようだ。

僕は1番上まで上りつめた先生の腕をつかんだ。

「先生!走ったら危ない!お願いだから落ち着いて!もう一度話を聞いて!」

「離しなさい!離して!私はあなたみたいな狂人に屈しないわ!何が吸血鬼よ!何が優等生よ!あの人だってそうだった。自分を過信して、私をさげすんで、挙句の果てにはもう愛してない?あなたが私のことを好きって言ったのに‼」

「先生!」

「いやっ‼来ないで!来ないで!来ないでぇぇええ!」

完全に元夫と僕を重ねた先生は、僕の手を乱暴に振り払った。そして勢いのまま、また僕の体を突き飛ばした。体が反射的に受け身を取る。しかし後ろにあるのは石段だ。自分の体を支えるために差し出した手と足は、空を切った。背筋が冷える感覚と共に、体が傾いていく。先生の恐怖にゆがんだ表情ばかりがくっきりと見えた。

「あんたなんか…!」

「せ…。」

もう1度、先生を呼ぼうとした。しかし次の瞬間、足がぐにゃりと嫌な方向に曲がったのが分かった。そのまま倒れこみ、体が何かに叩きつけられる。自分の体よりも硬いものに、幾度となく打ち付けられる。

落としたカメラの映像みたいに、風景がぐるぐる回っていった。無限にも思えるその感覚は、やがて通常に戻ったが、体は動かせなかった。

痛いという感覚はあまりなかった。

とりあえず、回転が止まったことと、体への衝撃が止んだ、という認識だけはあった。

土の匂いがする。

水の匂いがする。

石の匂いがする。

少しだけ、先生の甘い匂いが残っている。

意識は朦朧と、雲をつかむみたいに実体がない。

周りの人々の悲鳴に交じって、先生の声が聞こえた気がした。


「あんたなんか…いなくなればいいのにっ‼」


先生が泣いている。

顔は見えないけど、僕には分かる。

僕は先生の名前を呼ぼうとするのに、声が出なかった。

何度息を吸い、何度息を吐いても、言葉を発することはできなかった。

出てくるのは涙だけだった。


  ○  ○  ○


「おいおい…。やめてくれよ…。」

いやな夢を見てしまった。

しかも昔の夢だ。

嫌な記憶だ。

「今日は彼らに会うってのになんでこんな夢をみるかなぁ。欲張って眠りすぎたか?」

冷や汗でぐしょぐしょになった寝間着を脱ぐ。

時計を見やると、起きるつもりだった時間まであと1分だった。

「あぁ…貴重な1分を無駄にしてしまった…。朝の1分には何倍もの価値があるんだよ?タイムイズマネーだ。」

倦怠感の残る腕を持ち上げ、あと数秒で鳴るはずだった目覚まし時計に振り下ろす。カシャンと音がして、目覚まし時計は今日の役目を失った。

「今日は特別な日だからね。早く起きてしまったのはしょうがない。その代わり、いつも以上に気合を入れて支度をしなくては。楽しみだなぁ。」

ひとり言で自分を奮い立たせ、強張った表情筋で笑顔を作る。

今夜はあの2人と食事をする予定だ。高級レストランを予約し、吸血鬼用の食事も用意させ、食事会に招待したのだが『その日は特別な日だから』と言って警戒心バリバリの彼は承諾してくれなかった。そうして調べてみれば、彼らが出会ってちょうど1年の記念日。そりゃあ他人を入れたくないわけだ。

だからと言って私もあきらめるような性格ではない。彼のことだ。きっと初めて会った場所でまた食事をしたがるはず。そこで合流して、彼らの時間を邪魔してやるつもりだ。私を差し置いて仲良くしている罪は重いのだ。今から彼の嫌そうな顔と、少年の驚きの表情が目に浮かぶ。実に楽しみである。

そんな特別な時間を、あんな夢ごときに奪われてたまるものか。

昔のトラウマというものはなかなか消えてはくれないもので、忘れた頃にやってくる。「あの時の自分は、とんだエゴイストだった」と笑い飛ばせればいいものを、心の傷という形で残ってしまっている記憶は、まるで忘れることを許さないかのように、記憶の方からやってくるのだ。それから逃れる方法を、私は未だに知らずにいる。むしろ私の人生は、それによって構成されてしまっているので、今さら忘れられるものでもない。結局は諦めるしかないのだ。

足が不自由なせいで、服を着替えるのも一苦労である。とりあえずベッドの上で軽い着替えを済ませ、用意しておいた杖を突いて立ち上がる。歩く度に痛む片足は、いつもよりも鋭い痛みを訴えていた。

「痛み止めを飲むほどでもないが…常に痛いのはやっぱり辛いねぇ。」

痛む度にあの時の痛みを思い出す。足はもちろん体の痛みや心の痛みまで全てだ。

私を突き落とした先生は、あの後逃げ出した。その場にいた人々によって救急車が呼ばれ、私は足1本犠牲にするのみで一命をとりとめた。私はそれだけで済んだが、先生は学校から姿を消していた。私情で精神不安定に陥り、生徒にケガをさせ、その救助もしなかったともなれば当然のことだったかもしれない。

でも、私は先生を諦めたわけではなかった。とにかく話がしたかったのだ。だから、何度も先生の居場所を突き止めようとした。しかし、人間に妙な過信をしているとみなされた私は、吸血鬼の上層部からそれらの行動を制限されてしまっていた。制限が解かれて先生を見つけた時には、私は大学生になり、先生は精神病院にいた。先生は離婚が成立した日から、心を病んでしまったらしかった。それでも別に良かった。私は先生の近くにいたいだけだった。

それはいつまでも変わらなかった。

私は先生の病室に行った。

見舞い品には、大きな花束を買った。

先生の大好きなピンク色の薔薇や、ガーベラだって入れた。これを見て、私が先生を許すと言えば、先生はきっと私のことを許してくれる。そして一緒にいてくれる。

そう思った。

は先生の病室に入った。

病室は真っ白だった。

布団の上には、真っ白な肌と色素の薄い髪をもつ、幾分老けた先生が眠っていた。

それでも僕は先生が綺麗だと思った。

「先生…。」

僕が声を掛けると、先生は瞼を開けた。

まるで少女のような先生の目は、ガラス玉みたいだった。

「先生。久しぶり。僕のこと、分かりますか…?」

先生が聞き取れるように、ゆっくりと言った。

先生の目に涙があふれた。

「先生…。」

先生が僕のことで泣いてくれた。

僕のことを覚えてくれていた。

そのことが嬉しくて、僕の目にも涙が浮かぶ。

でも、先生の言葉は、僕の想像していたものとは違っていた。

「ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。ごめんなさい…。私はなんてことを…。」

先生は何度も謝罪を口にした。僕を見て、杖を見て、足を見て、涙をポロポロ流して、そばにしゃがんみこんでいる僕に縋りついた。

「先生。もう謝らないで。僕は怒ってない。だから…。」

「本当に…?」

「うん。」

先生が僕を見上げた。

僕はそれがとてつもなく愛おしく見えた。


「じゃあ…私の前から消えてくれる?」


持っていた花束が手から滑り落ちた。

自分の心壊れた音を聞いてしまった気がした。

「いい子だから、私の言うこと聞けるでしょう?」

先生がふわりと微笑んだ。

その時の先生は、教師というよりも母親のようだった。

「私、あなたのことが嫌いになったの。だから、私の前から消えて、もう、私を苦しめないで。自分が吸血鬼なんて言わないで。私のことを好きなんて言わないで。」

先生は嬉しそうだった。

すごく嬉しそうに、僕の存在を否定した。

「あの後、何度も調べたの。教科書には吸血鬼は空想上のものだって書いてあった。中学生はよくそういったものを信じてしまうけど、それはしょうがないことだって書いてあったの。」

先生が笑っている。

「私、嘘を吐かれるのが嫌い。だから、約束してくれる?

僕は別の意味でこみ上げてきた涙をこらえた。

なぜ、自分の制限が解かれたのか、やっと分かった。

「私はもうあなたなんか見たくないの。私を捨てた酷い男のことを思い出すから。なにより、あなたのことを忘れたいの。もうあなたも、あの男も、私の人生からはいらないものになったのよ。だから、お願い聞いてくれるよね?」

僕は精一杯作った笑顔で、先生に気持ちを伝えた。

口を開けると、僕の心もボロボロとこぼれてしまっている気がした。

「うん。約束する…。」

不思議と、自然な笑顔を作ることができた。

自虐という意味がこもった最低の笑顔だ。

「先生の前から消える。自分が吸血鬼なんて言わない。先生のことを好きなんて…言わない。」

先生は笑っている。

「嬉しい!」

先生は僕に抱き着いた。

「いい子ね!」

先生は僕がお気に入りなようだった。

夫と似ていて、優等生の僕がお気に入りなようだった。

だから、僕を嫌いになったようだった。

僕にだって先生の言っていることが無茶苦茶なことは分かっていた。

でも、それ以上に先生は自分の認めることしか認めない人だった。

先生の信じていることだけが、先生の中で真実だった。

それが、先生の人生だった。

「いい子は大好きよ!」

僕は先生を抱きしめ、消毒液の匂いの移った先生の匂いを嗅いだ。

「それで、先生が幸せになるなら…約束するよ。」

そこからはもう、あの甘い匂いはしなかった。

それだけは、よく覚えている。


先生の白い病室には、僕の持って行った花が置かれた。そのおかげで、先生の顔も少し、明るくなった気がした。先生は別れ際に手を振ってくれた。僕は手を振らずに、静かに頭を下げた。後で聞いた話だが、先生は男性がみんな元夫やに見えてしまうのだという。そして、静かに拒絶するのだという。それを繰り返しているのだという。

先生のことは僕が1番知っている。

先生は教科書に載っている正しいことしかしたくなかったのだ。だから恋愛結婚の末に結ばれた家庭を壊したくなかったし、そんなことはありえないと思っていた。そして生徒から告白されることも、得体の知れない生徒がいることも、ましてや吸血鬼が存在しているなんてことも、受け入れることができなかった。その末に、自分の世界で生きることにした。それがあの結果だ。

僕は今まで隠れることしかしてこなかった吸血鬼社会を恨んだ。

そして、それらを変えることを決意した。

「まずは、世界を変えなくてはいけない。」

そしたら、あの人は認めてくれる…なんてことはもう考えない。ああなってしまっては、どうやったって先生は変わらない。根本的な考え方の問題だ。

でも、それで諦めるだけではつまらない。

納得いかない。

だから、はやってやったのだ。

人間に吸血鬼というものを教えてやった。

あの会見が終わった後、一番に着手したのは教科書の差し替えだ。吸血鬼がどんなものなのか。どうやって生きてきたのか。どのようにして人間と過ごしていきたいと思っているか。ちゃんと記した教科書を作った。

これで本当の意味で、教科書は正しくなった。

もしも先生があの教科書を読んだら、なんて言うだろうか。

僕のことを信じてくれるだろうか。

それとも、また僕のことを突き飛ばすだろうか。

「まぁ…。」


もう会う気はないけれど。


は1人でくすりと笑った。

支度がやっと終わったからだ。

「さてさて。」

足を引きずりながら、冷蔵庫を開ける。中から血の入った瓶を取り出し、飲み干した。一気に体がみなぎるのが分かる。

そして自分が人間とは違うのだと感じる。

先生とは何もかもが違って、分かり合えないのだと分かってしまう。

でも、例の彼らを見ていると、それも不幸な事故だったのだと受け入れられる気がしてくるのだ。

「ずるいなぁ。」

カザママサトという吸血鬼はずるい。

なぜ、家族からも、吸血鬼からも、人間からも嫌われる存在だった彼が、信頼し合える友人を手に入れているのだろう。

なぜ、あんなに幸せそうにしていられるのだろう。

なぜ、私はそれに協力してしまうのだろう。

なぜ、私は今日を楽しみにしているのだろう。

なぜ、吸血鬼は人間を嫌いになり切れず、共存してしまうのだろう。

「世界は分からないことだらけだねぇ。」

これからの世界は変わっていく。それを仕掛けたのは私だが、方向性を決めたのはあの2人だ。いや、彼らとご先祖様かもしれない。やろうと思えば人間を皆殺しにもできたのに、僕らの先祖はそれをしなかった。僕はそれが理解できなかった。吸血鬼だけの社会を作ってしまえば楽なのに。昔からずっとそう思っていた。だから今回の実験の選択肢に入れた。

でも、彼らを見ていて気が付いたことがある。

理解し合えば、私達はよきパートナーになることもできるのだ。

「違うからこそ知りたいし。そのためには一緒にいなくちゃねぇ…。」

私は靴を履いた。チェックの裏地が付いた、お気に入りの革靴。

特別な時にだけ履く、特別な靴だ。

僕らは人間を拒めない。あの弱々しく、不安定で、バカみたいに空回っている彼らに、手を差し伸べずにいられない。

まだまだ私たちは、知らないことだらけなのだ。

お互いに目をつむっていては、何も始まらないのだ。

あの弱く、臆病な彼らに、きっかけを作るとすれば僕らじゃないのか?

その扉を開けるのは僕らじゃないのか。

そして歩むのは両者でなければならない。

そう、少年は言ったのだ。

「…誰でも幸せになる権利があるなら、幸せにならなきゃってね!」

私はドアノブに手をかけ、勢いよく扉を開けた。

私の世界は朝の光に包まれ、真っ白になる。

私にはそれが希望の光のように見えた。

これから憂鬱な仕事だというのに、楽しみがあるだけで、なぜ世界はこんなに輝くのか。

それはきっと、私が幸せになろうと、もがいているからではないか?

「さてさて、幸せになってやろうじゃないか!」

年甲斐もなく、両手を上げ、空に向かって叫んでやった。

その時の私は、足の痛みなどないかのように、両足で己を支えていた。

それは幸せになるための第一歩だと、私は確信したのだった。

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