オイシイ関係2-3
俺が小学生の時、学校では毎週水曜日の朝に集会があった。
体育館に全校生徒と先生が集められ、校長先生と担当の先生がかわるがわる話をするだけの20分。今思えば何ともかったるいことだが、当時の俺は低学年で、とても素直だったので、必死になって先生の話を聞いていた。
ある時、校長先生が言った。
『人の話を聞くときは、人の目を見て聞きましょう。そうすると、お話しをしている人は気持ちよくお話をすることができます。もし、皆さんが一生懸命お話をしているとき、お友達が自分のことを見ていてくれなかったら嫌ですよね。だから皆さんもお友達や先生とお話しするときは、相手の目を見てお話をしましょう。口や頭を見ていてもだめですよ。相手にちゃんと話を聞いていることが伝わる方法を取りましょう。それが目です。目は口程に物を言うということわざもあるくらいです。だから、皆さんはそうやってお話を聞ける人になりましょう。分かりましたか?』
半数くらいの児童が元気よく返事をした。俺も何の疑いも持たず返事をした。先生の言っていることはもっともだと思った。
小学生の考えることなんて単純なもんだ。
先生は正しい。
先生がルール。
先生の言っていることは聞かなければならない。
だから《人と話をするときは相手の目を見る》を実践することにした。
今から思えば、校長先生は『相手自体から目をそらさずに、集中して聞きましょう』というニュアンスでその話をしたのだろうが、俺はひたすら『目をみること』に徹した。話を聞き逃すほど集中して目を見た。
そしてそれが習慣化されていった。
そして気づいてしまった。
自分が『目』自体に魅力を感じていることに。
それぞれの目の形。
それぞれの瞳の大きさと色。
それぞれのまつ毛の生え方。
それぞれの白目と黒目の比率。
それぞれの瞳の動き。
それぞれの瞼の厚さ。
それぞれの目の周りのしわの数、肉の付き方。
真剣な目。無気力な目。必死な目。けだるげな目。泣いている目。怒っている目。
みんなキラキラとした宝石のようだった。
俺は夢中になって人の目を見た。
それは俺にとって異変だった。
人生の異変。
あの集会から、俺の人生の歩み方は明らかに変わった。
そして、それに気づいたのは俺だけじゃなかった。
クラスメイト達だ。
その日はあいにくの雨だった。
いつもは外に飛び出して行くはずの生徒が、教室で時間を潰す珍しい昼休み。思い思いに動き回る児童たちを咎める担任の姿はなく、まさに無法地帯。男子の中には有り余る体力の発散のため丸めた新聞紙でチャンバラをするヤツや、図書室から借りてきた本を読むヤツもいる。教室の隅では女子が絵を描いたり、折り紙を折ったりしていた。そして俺はと言えば、男友達5人で昨日見たお笑いの番組の話をしていた。なぜなら、その方がひとりひとりの目をよく見ることができるからだ。楽しそうにしている友達の目は、見ていて俺も楽しかった。
しかし、それがひと段落した時に、その事件は起きた。
『お前、最近変じゃない?』
一番仲のいい男子が言ったのは、俺の異変を指摘する言葉だった。
まつ毛の長い、少し色素の薄い彼の目には、単純な疑問のみが浮かんでいた。
『何がー?』
言っている意味が分からず軽口で聞き返すと、そいつも『うーん』とうなりながら体をくねらせた。
『オレもよく分かんないけどさー。俺らが話ふっても聞いていないし、先生に当てられてもどこやってるか分かんなくなること増えたしー。』
『あー!それ、オレも思ってたー!』
隣の男子も同意する。そちらは細目の中で黒い瞳がよく動く子だった。
『ノリ悪いよなー。あんまし外で遊ばなくなったしさー。』
『そうそう!そのわりに怖いくらいスッゲー集中してるし!』
そこにいる全員が頷いたりクスクス笑ったりしていた。みんな、俺以外に同意を求めるべくお互い目くばせしている。
このままでは俺が変なヤツというレッテルが張られてしまう。
それを瞬間的に察した俺は1学年1クラスしかないこの小さな学校で、それだけは避けなければならなかった。
『何言ってんだよ!そんなことねぇよ!』
焦りのせいか、大きい声が出た。
「しまった」と思った時には教室は静まり返っている。
周りを見わたすと、教室中の児童が黙ってこちらを見ていた。
雨の音がやけに大きく聞こえている。
はやくこの状況を打開しなければ…!
そんな使命感に突き動かされて、俺は一番後ろの席から教卓の方へと移動した。
『ほ…ほら、この前の校長先生の話でさ。相手の目を見て話を聞こうってやつあっただろ?あれだよ!』
いつの間にか、俺は教室にいる児童全員に大きな声で弁解していた。
〈誤解〉を解かなくてはならない。
俺は変になんてなっていない。
少なくとも、このまま単なる変な人にはなりたくはなかった。
(こうなったら正直に話すしかない!)
小学生に真実を語る以外のことができるだろうか。
それに、これは学校で一番偉い校長先生が言ったことだ。
きっと正しいに決まっている。
俺は機関銃のように捲し立てた。
『知ってるか?目って思ってる以上に色んな動きしてるんだ!しかもみんな違う色とか形があるんだぜ!それ見てると面白くって!つい夢中になって話聞きそびれるけど…それでもやめられないくらい面白いの!みんなもやってみてよ!き…きっと分かるから!』
俺は教卓の前で身振り手振りまで加えて、半ば叫ぶように話していた。緊張で口はガチガチと不自然にぶつかり、興奮のせいで頬は真っ赤で、目はきょろきょろと動きまわった。しかし、そんな俺の姿を見て、みんなが共感している様子はない。でも僕の熱意が伝わればきっと大丈夫。まだ足りないだけ。そう思った。
『特に瞳の色とか形って本当にいろんな種類があってさ‼日本人は真っ黒い目の人が多いけど、茶色がかってたり、灰色っぽい人もいるし、おっさんの白目は黄色がかってたりするし、眼鏡かけてるやつはちょっと目が大きく見えたり、発見できて楽しいんだぜ!先生もいいこと教えてくれたよな!』
俺は瞬きもそこそこに、さらに真っ赤になって喚いた。
そんな俺を、クラスメイト達は見ている。
その目には明らかに軽蔑の色が映っていた。
(……なんで…?なんでみんな…そんな目で俺のこと見てんだ…?)
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい!
頭の中で、もう1人の自分が警鐘を鳴らしている。
俺の思考とは対照的に、置かれている状況は悪化していた。
雨の音はだんだんと激しくなっている。
それに比例するように、俺の心臓もこれまでにないくらい大きな音を立てていた。
俺が何も言えず立ち尽くしていると、声が聞こえた。
『気持ち悪い…。』
ばっと声の方を見れば、おびえた様子の女子がいる。
『へ…?』
俺が声を発しただけで、その女子はビクリとのけ反った。
それでも、少女は続けた。
『気持ち悪い……!』
それは拒絶を含んだ言葉で、聞き返したわけでもないのにもう一度、今度ははっきりと聞こえる声で繰り返された。
俺はそれを聞いて、何も言えなくなってしまった。
そのまま助けを求めるように視線を彷徨わせると、隣席の大人しい女子と目が合った。
一瞬で目をそらされる。
さらに隣の男子を見る。
また目をそらされる。
誰を見てもその繰り返し。
俺を見ているのに、俺と目が合わない。
何が起きているのか全く理解できなかった。
そうして呆然と立ち尽くす俺に、最初に俺に話しかけたあの男子が声をあげた。
『ほら、やっぱり変だ。』
血の気が引いていくのが分かった。背筋が一気に寒くなって、それなのに頭は目が回りそうなほどに熱い。呼吸が上手くできず、えづきそうになる。心身的な苦しさと、心の痛みによる涙で視界が歪み、誰の顔も見えなくなる。
もう、限界だった。
「俺は変じゃない‼」
俺はそう叫んで教室を飛び出した。
ドアを強く開けてはいけない。
廊下を走ってはいけない。
勝手に下校してはいけない。
それは分かっているのに自分の衝動を抑えられなかった。
体からあふれてしまいそうになる何かを、そうして発散せずにいられなかった。
途中で担任とすれ違うが、制止を振り切って走った。
玄関を出て、校門を出て、大通りを抜けて、小道に入って、マンションの階段を駆け上がる。
上履きのまま傘もランドセルも持たず、顔も体もぐちゃぐちゃにして帰ってきた息子の姿に驚く母親をも振り切り、自分の部屋に入って鍵を掛けた。
布団に入って目からあふれ出す水を枕に押しつける。
その涙さえ何故出るのかもよく分からないほど、俺は放心していた。
自分がおかしくなってしまったことを認められなかったんだと思う。
とにかく心臓が焼けるように痛かった。
その後、俺があの教室に行くことはもうなかった。
親に自分の性癖について話すこともできず、ひたすら部屋にこもった。
小学校は通信制を駆使して課程を終え、中学からは遠くの町へ引っ越した。
だから俺の周りにいて、これらのエピソードを知っている者はいない。
それでも習慣化されてしまった目を見るという行為と衝動は、俺を解放してはくれなかった。
あんな思いをしたにもかかわらず、目を見ることを止められなくなってしまっている自分に何度も嫌悪した。
だから癖が直らないのなら、せめて悟られないようにと何倍も努力した。
あんな思いをするよりましだった。
カテゴリーからの拒絶。
それはコミュニティの中での死だ。
人間は群れる生き物である以上、何かしらの組織に所属していなければ生活できない。そこから1度抜けてしまえば、もう2度と元のように戻ることはできない。
だから生きるために、のらりくらりと表面上の関係のみで生きてきた。
今、俺を拒絶する者はいない。それほど親しい人もいない。それでもちゃんと生活できている。それなのに心がいつまでも渇いているように感じるのはなぜなのか。
大人になってもなお疼き続ける心の傷は、どう対処すればいいのか分からない。
ぐるぐると回る思考は俺の心を満たすことはなく、さらに溝を深くしていくばかりだ。
それでも見ずにいられない。目の魅力に囚われている。
俺の人生はこの性癖によって狂ってしまった。
カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、小学生の俺はそれに気がついてしまった。
部屋に置かれた姿鏡。
そこに写った自分の目はいつも無気力で、それだけは好きになれるとは思えなかった。
○ ○ ○
俺は残っているワインを一気に煽った。
「全部が全部、この性癖のせいだとは思わない。単に俺の肝っ玉が小さかっただけの話かもしれない。アンタら吸血鬼みたいに、同じような境遇のヤツが近くに入れば、なんか変わってたかもしれないし、そうならなかったかもしれない。でも、アンタに出会うまでは本当に苦しかったんだ。常に自分の欲との葛藤だった。自分が嫌いだった。でもそんな俺をアンタは食事中限定とはいえ好きだって言ってくれた。」
目の前の男は終始表情を変えることもなく、平然と俺の話を聞いていた。
何を考えているかは分からない。
それが分かりたくないと思う自分もいる。
この男が何も反応を示さないのはなぜなのか。
俺は不安になって言葉を重ねた。
「不登校だったなんて世の中そんな珍しいことでもねぇと思うし、アンタにとってはくだらない悩みなんだろうけど、アンタに知っててほしかったんだ。俺が、アンタのおかげで、少しだけど、自分が好きになれたこととか。この性癖を認められたこととか…。」
男はまだ何も言わない。
俺は自分が情けなくなってきてしまった。
「…こんなの自己満足だよな。」
所詮、何の才能もない、何も持っていない、平凡な男の嘆きだ。
自分を悲劇の主人公だと勘違いしている、痛い人間の告白。
「つまんねぇ話して悪かったな。」
自分で口にしてからヒヤリとした。
本当につまらないと思っていたらどうしよう。つまらない人間だと思われたらどうしよう。
さっきまであんなに自分のことを話したかったのに、話してから後悔するなんて本当に情けない。嫌われるのが怖い。せっかく受け入れてもらえたのに、捨てられてしまうかもしれない。そしたら俺はどうすればいい。一度、受け入れられる心地よさを知ってしまった俺は、また以前のように過ごせるだろうか。自分の本性を隠し続ける苦痛に耐えられるのだろうか。
もし、耐えられなかったら?
また引きこもるのか?
世界からの隔絶を求めるのか?
もうそんなことができる年じゃないことは分かってる。
でも、俺は、1人で、自分を受け入れることはできるのだろうか。
コイツは強い。確固とした芯を持っている。きっと俺なんかいなくても生きていけるヤツだ。俺を捨てるなんて造作もないことで、コイツにとってはどうってことないことで…俺が一番怖れていることだ。むしろ、俺は自分で自分を切り離す理由を作ってしまったのではないか。
(そんなのは嫌だ。)
滅多に出ないはずの涙が、また俺の中にたまり始める。
思わずうつむいた。
こんな顔、2度も見られるもんか。
どうせ捨てられるにしたって、かっこよく別れようじゃないか。
どうにか、気持ちを落ち着けなくては…。
俺が深呼吸を繰り返していたら、のんきな声が聞こえた。
「つまらないでしょうか。」
俺が想像していたよりも優しい声に、驚いて顔をあげた。そこには、真面目な顔をした吸血鬼の姿があった。
「なかなかある話じゃないですよ。まず、そんな性癖に目覚めること自体貴重なことですし、そこから不登校になるのも、登校できるようになることも、ちゃんとした会社に入社することも、僕と会うことも、僕に気に入られることも、滅多にありません。確率で言ったら天文学的数字になること間違いなしですよ。」
コイツにしては、やけに薄っぺらく聞こえる発言だ。
それでも言葉は紡がれていく。
「それでつまらないと思っているなら、君はどんな人生をお望みですか?僕からしたら、それ以上に奇妙で面白い人生はないと思いますが。」
吸血鬼として生まれ、俺よりも数奇な人生を歩んでいるはずの男。その男が俺の人生を面白いと言う。
「うらやましいですね。君にはそれだけの力量も、家族の支えも、僕という強力な友人がいるというのに、まだ不満があると…。贅沢な人だ。」
「いや…そういうわけじゃ…。」
突然の指摘にしどろもどろになっていると、クスリと笑われた。いじわるそうな目が向けられている。それは不思議と優しい光を宿していた。
「君がここまでこれたのは狂ったと思った人生をどうにかしたかったからじゃないんですか。終わり良ければすべて良しとまでは言いませんが、今が楽しければいいと僕は思いますよ。過去の辛い出来事は、今に至るまでの軌跡に過ぎない。それに不満があるとしても、今を満足のいくものにすればいい。どうあがいたって過去は変えられませんから。」
過去は変えられない。
それはコイツも同じことだ。
吸血鬼として生きてきたコイツの過去は変えられるものじゃないし、コイツの言い草からすれば、吸血鬼として生まれた以上、その厳しい教育がなければ生きてこれなかった。
そんなヤツが言ってる事だ。
俺が反論できるわけがない。
いつもは悔しいその事実が、今だけは妙に嬉しかった。
「…そうか。そう…だよな…。」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、心がスッと軽くなったような気がした。
今にもあふれそうだった俺の涙は、流れることなく引っ込んだ。
「アンタに…捨てられるかと思った…。」
脱力してテーブルに突っ伏すと、吸血鬼は心外だと言わんばかりに俺の額をはじいた。
「どんなことを考えていたのかは知りませんが、僕がそんなに薄情な人に見えますか?」
「何ヶ月も飯おごってくれるくらいには、いいヤツだと思ってる。」
「分かっているならいいんです。君限定ですが。」
「そのセリフさえなければ本当にいいんだけどな…。」
額をおさえながら姿勢を正す。
また会話がいつものペースに戻った。もう大丈夫だ。
「そんなに刺激を求めるなら、趣味でも作ったらどうですか?」
吸血鬼と一緒にいるだけで充分刺激的な人生な気もするが、会話のペースを崩したくなくて話題に乗っかる。
「…無趣味のアンタに言われたかないね。」
「僕には必要ないって言ったでしょう。」
コイツには何を言っても詭弁らしい。
「そう言われてもなぁ…。」
これと言って好きな物はない。というより、今の生活の中で時間的にも、金銭的にも、そんな余裕がないというのもある。それでも何かないかと考えながら体を伸ばし時だった。
「あっ…趣味ならあるじゃん。」
「なんですか?」
「友人と食事をすること。」
コイツにとっては『俺の食事を見ること』に重点が置かれているし、俺だって純粋にそれを楽しんでいるわけじゃない。だからこういう言い方をしたら、正確とは言えないかもしれない。でも、素直にそう言うのは悔しくてそう言った。
そして、理由はもうひとつ。
「奇遇ですね。僕と同じじゃないですか。」
吸血鬼は俺の思考を読んだかのように、そう言ってからにやっと笑った。
同じ趣味を持つ友人。
俺らが一緒にいる理由の1つに、そんなのがあってもいいじゃないか。
「つくづく俺ら、相性がいいよな。」
いつもは感情の読めない笑顔をかますコイツも、予想外のことを言われると複雑な人間らしい仕草をする。きっとそれは本人も気づいていない、俺だけが知っていることだ。
互いにニヤニヤ笑いながら、見つめ合った。コイツがそれ以上何も言わないのをいいことに、俺はそのまま続ける。
「趣味も合ってるし、お互いの秘密も知ってるし、なんだかんだで性格も合ってるんじゃあ、もう親友と言ってもいいんじゃねぇか?」
「しんゆう…ですか?」
その言葉を初めて聞いたかのように、吸血鬼は瞬きを繰り返す。
その様子が愛らしくて、俺はその様子をじっと見つめた。
「おう。…いや、それもちょっと違うか。マブダチ?友達以上恋人未満?義兄弟の契りってのもなんかなぁ…?」
どれもぴったり当てはまる気がしない。
もっと、もっと深くて、お互いを求めあうような…。
貧困なボキャブラリーと格闘しながらうんうん唸っていると、吸血鬼がポツリとつぶやいた。
「共依存…。」
「あっ…それだ!」
俺が指を鳴らして同意すると、吸血鬼は苦笑した。
「なんですかそれ。さすがに露骨すぎでしょう。」
そしてまだ中身が入っている自分のグラスに、ワインを継ぎ足す。
心なしか、さっきよりも多めに注がれたワインの匂いにくらくらする。少し、酔ってきたかもしれない。
「でもそういうの、いいですね。人は、言葉にすると安心する生き物ですから、僕も何かしら命名しておいた方がよいと思っていたところなんです。」
「そうか。」
「だから、またいいのが思いついたら言いますね。」
「んじゃ俺もそうするわ。」
俺と同じことを考えていた。
それが純粋に嬉しい。
それだけのことなのに心が躍る。
楽しそうにグラスを回す吸血鬼の目は、幸せそうに細められている。
俺と向かい合う吸血鬼が、太いパイプで繋がったような気がした。
「頭の良し悪しと気が合う友人ってのは関係ねぇんだな。おもしれぇ。」
「そうですね。僕もまさか君のような人とこんなにも長い期間過ごすことになるとは思いませんでしたよ。」
「それはどういう意味だ?」
「そのままの意味です。」
「後悔してる?」
「まさか。」
自然と口元がほころぶ。
こんな風になるのは、今のところコイツの前だけだ。
今日はどちらかというと暗い話ばかりしていた気がする。
それでもいつもと変わらず、歯にもの着せぬ会話ができるのは幸せだと思う。
『共依存』
世間ではあまりいい意味にとられる言葉ではない。でも今のところ、形容する言葉としてはこれが妥当だろう。
初めてこいつを見た時にはこんな関係になるなんて思っていなかった。それどころか、自分の性癖を受け止め、共存してくれる人がいるなんて想像できなかった。もしこれが夢だと言われたら、素直に認めてしまうくらい、心はふわふわと定まり切らない。でもこれはアルコールのせいだけじゃない。俺はそう確信していた。
「そういえば乾杯をしていませんでしたね。」
「あ…確かに。」
お互い緊張のあまり、大事なことを忘れていたらしい。
そんなことさえ、こそばゆい感情を生む。
俺が空のグラスを手に持つと、ワインボトルではなくアイツのグラスが近づいてきた。
アイツのグラスからワインが分け与えられる。
それぞれのグラスに同じだけのワインが注がれ、最後にチンッとガラスの当たる音がした。
「「乾杯」」
合図をしたわけではないのに重なった声は含み笑いに変わり、ワインと一緒に喉の奥へと消えていく。その行為は何かの儀式のようにも思えた。
コイツの目はつかみどころがなくて、ときどき鋭く冷たくなる。
でも、それが、ある時だけ温かく、優しくなることを知っている。
形が好きとか、
色が好きとか、
瞬き方が好きとか、
瞳の動かし方が好きとか
理由はたくさんあるけれど、
やっぱり俺はコイツの目が好きだ。
それは出会った頃から変わらない。
でも、幸せそうに笑うこいつの目は、
きっと誰から見ても魅力的に見えるだろう。
俺はそう思う。
言葉にするという行為は、怖い。
思い、思われて、
縛って、縛られて、
お互いが裏切らないように、
逃げないように、
確認し合い、事実を刻みつける。
それが枷になるのか、精神的安定に繋がるのか、それは自分次第だ。
他人との関係にちゃんと向き合ってこなかった俺にとっては足りなかったことだ。
そんな中で手に入れたのはこの関係。
吸血鬼との会食。
これから何が起こるのか、どうなっていくのか、今の俺には全く想像がつかない。
それが不安でもあり、楽しみでもある。
ついこの間まであんなに世界に絶望していた俺が、今は希望を持っている。
だから、今の俺は昔の俺を否定しない。
だって、この関係を手に入れることができたのだから。
見たい俺と見たい吸血鬼。
俺らの出会いは必然だった気がしてならない。
そしてお互いを求め、共存し、認めている。
きっとこれ以上の相手は存在しない。
そうして今日も俺らは食事をする。
ちぐはぐな男2人の楽しい食事。
幸せだと、そう感じる度に、
俺はつくづくこれはオイシイ関係だと思うのだ。
○ ○ ○
それぞれもう1杯ずつワインを飲み干してから、少し遅い昼食をとった。俺には作りかけだったサラダがふるまわれ、俺は生まれて初めて山盛りの野菜のみで昼食を済ませた。サラダボウル山盛りの生野菜を見た時には少しうんざりしたが、他人に作ってもらった飯を食べるのは久しぶりだった。食べたことのある野菜。味わったことのある味。それなのに美味しく感じた。店内とは違って、いつもよりも静かな食事。そのせいか、いつも以上に感覚が研ぎ澄まされていた。
俺はコイツの目を見て、コイツは俺の食事を見る。
そうしてお互いの欲を満たした。
食事が終わってから、俺の強い要望により『吸血鬼の普段の食事』というやつを見せてもらうことになった。
「どうせ本当は昼飯食ってないんだろ?せっかく吸血鬼について教えてもらったんだし、アンタについてもっと知ってる事が沢山あったっていいと思うぜ?」
からかうように言うと、困った顔をしながらも承諾してくれた。
「ひかないでくださいね。」
「まかせとけ。」
そうしてガッツポーズをしたものの、何が出てくるのかの方に興味津々である。アイツがまた野菜室を開け、いくつかの野菜を取り出す。次に冷蔵室も開け、他にも取り出していた。棚から皿を出し、それらを乗せて戻ってくる。
「これでご満足いただけますか?」
テーブルに置かれた皿には、ニンジン、レタス、セロリ、トマト、チーズ、そして何かの肉が生のままごろごろ置かれていた。
「野菜丸ごと…しかも生肉まで…。」
さすがにチーズと肉はカットされているが、その他は収穫されたままの姿である。
野菜はともかくとして、それこそ血とか特殊な薬が出てくるとばかり思っていたので、面食らってしまった。
「吸血鬼にとって食事は、体にガソリンを入れるようなものなのでどんな形でもいいのですが、無駄に味覚が鋭いので調理をしない方が楽なんですよ。」
そう言ってからニンジン手に取り、そのままかじりつく。まさに素材そのまま。
本人が言った通り、作業的に食べ物が口に運ばれていく。
その様子に、コイツにとっての食事の優先順位について考えさせられる。
「血は飲まねぇのかよ…。」
「残念ながら、朝に済ませてしまうので。」
「いや、残念ではないけど…。」
よく考えてみたら、血を飲む様子を見てしまったら、食事後の俺は吐いていたかもしれない。
吸血鬼はニンジンを食べ終えると、次はトマトにかぶりつく。慣れているのか汁が飛び散るようなことはなかった。農家を取材した番組などで野菜をそのまま食べるシーンを見たことはあったが、普通の部屋で、しかも目の前でされると妙な感じがする。
「肉…生のままで腹下したりしねぇの?」
「その点に関してはちゃんと指導されてますし、特殊な保存方法をしていますので大丈夫です。ほら、ユッケとかと一緒ですよ。管理が面倒なので少ししかありませんけど。」
そう説明されると平気な気がしてくるから不思議だ。
吸血鬼は肉をフォークで刺して口に運んだ。
生肉を食べる。
その動作は理性的なのに、食事姿はとても本能的に見えた。そういう見た目からも、人間から受け入れがたいのかもしれない。でも、コイツの食事がどんなものか知れたことで、えも言えない優越感がこみ上げてきた。
「じゃあ今度は焼肉でも行ってみっか?サラダも生肉もあるし。」
「焼肉店の肉を生のまま食べるのはどうかと思いますが、君が行きたいなら付き合いますよ。」
コイツはあくまで俺を優先する。コイツらしいが、ちょっともやもやする瞬間でもある。
「…アンタは行きたいところねぇの?」
「ありませんね。」
「その割にいつも外食じゃねぇか。」
「それは君が食事するのを見るためですから。」
「あっそ。」
「君のためですから。」
「そこをピンポイントでリピートすんじゃねぇよ。」
折角軽く流したのに、強調されるとどうも黙っていられない。コイツはわざとやってるとしか思えないから質が悪い。日頃の恨みも込めてにらんでいるうちに、吸血鬼はさっさと自分の食事を済ませてしまった。食事をするコイツの目は、俺が求めている真剣なものとはかけ離れていて、俺は終始罪悪感を感じた。
「いかがでしたか?」
「何が?」
「僕の食事です。」
「どうもこうもねぇだろ…。」
「単純な興味です。他人から見て、僕の食事の様子はどう感じるのかと思いまして。」
コイツならともかく、俺に他人の食事を見る趣味はない。
もともと友達もいないこともあって、まじまじと食事を見たのは初めてだった。
「あえて言うなら…バカ丁寧。」
テーブルマナーを学んでいるだけあって、所作のひとつひとつが洗練されている気がする。プロのコンダクターのように、動きに迷いがない。優柔不断で迷い箸をしたくなる俺にとっては羨ましいと思った。
「それは褒め言葉として受け取っておきます。」
照れくさくてぶっきらぼうに言ったにもかかわらず、コイツは嬉しそうだった。
「それじゃあ、食器を洗いましょうか。」
「あっ…それは俺がやる!」
今度こそ手伝おうとテーブルに置かれていたエプロンに手を伸ばす。しかし、あっさり取られてしまった。
「僕がやるので、君はそこでテレビでも見ていて下さい。今日は夜から雨が降るらしいですし、天気予報のチェックをお願いします。」
有無を言わせぬ雰囲気にのまれて、手を伸ばした姿勢のまま大人しく椅子に座り直す。
俺の様子を満足そうに見届けた吸血鬼は、テレビをつけてから食器をキッチンへ運び出した。これ以上何かしようとしても咎められる気がする。俺は言われた通り、テレビへ目を向けた。
俺の家にあるものよりもひと回り大きい電気仕掛けの箱。その中で、芸人がせわしなく動き回り、それを見ては客が笑う。祝日の特番らしい番組は、特設ステージで行われているイベントを放送しているようだった。画面の右上には中継を示すLIVEの文字が浮かんでいる。一通りの芸人が出演し終わると場面はスタジオに戻され、今度はすました芸能人たちがそれぞれ感想を述べていた。
「天気予報やりますかね?」
「もうちょいしたらやるんじゃねぇの?ちょうどいい時間だし。」
皿洗いを終えたらしい吸血鬼がコップに入った氷水を手に席に戻ってくる。それを受け取りながら時計を見やると、時計は午後3時少し前を示していた。天気なんて端末で調べてしまえばすぐ分かるのに、この落ち着く空間を壊したくなくて、そのままテレビを見続ける。コイツもきっとそんな風に思ってくれてるはずだ。自然にそう思えて、心がじんわりと温かくなった。
お笑いのコーナーが終わり、次は同じステージで歌番組に切り替わるらしい。画面はまた特設ステージに戻され、下手側に立つ元気な司会が映し出された。歌は新ドラマの主題歌で、主演女優がボーカルを担当するという説明がされる。モニターに司会者の隣に現れた女優の姿が映った。その瞬間、拍手喝采が沸き起こる。
『モデルに歌に演技に…とにかく多才な才能を持つ彼女は期待の星ですね!』
『そんなことないですよぉ。』
熱弁をふるう司会者に褒められた本人は、人のよさそうな笑顔を浮かべて謙遜する。よくあるやり取りだ。
「コイツ…本気じゃねぇな。」
「それは目で分かる…ってやつですか。」
「そう。目の中がギラギラしてる。こういうヤツは、心の底では自分が優れていると思ってる。ナルシストじみてるやつが多い。」
「へぇ…。」
目から分かる細かい精神分析をしながら、この女優のつけまつげは長すぎやしないだろうか、もっとありのままの自分で勝負すればいいのに、なんてどうでもいいことを考えていた。
「さすがですね。彼女、吸血鬼ですよ。」
「……はぁ⁉」
危うく飲もうとした水を吹きだすところだ。軽くむせつつ声を絞り出す。
「まじか…。」
「はい。」
俺がむせている様子を嬉しそうに見ている吸血鬼をねめつけながら、今一度画面を見る。しかし、全く分からなかった。
「僕は彼女と同期だったんです。もっとも、注目される職業は吸血鬼とバレる可能性が高いので女優になったのは彼女くらいですが…。」
「へぇ…。」
案外、世間は狭いのかもしれない。
とりあえず、俺はこれで吸血鬼を2人知ってしまったわけだ。
『それでは歌の方、よろしくお願いします!』
『はい。頑張ります。』
そう言って女優が笑顔でステージに上る。会場のボルテージが一気に上がり、歓声が響く。それらに手を振りながらステージ中央に立ち、あとは音楽が始まるのを待つばかり。
そこまではよかった。
突然観客の中から1人の男性が飛び出した。女性客から悲鳴が上がってもお構いなしだ。制止するスタッフをすり抜け、その男性はあっという間にステージに上ってしまう。
「なんだ?」
マイクがないせいで内容はよく分からないが、男性は女優に向かって何か叫んでいた。女優の方は困惑した様子で舞台裏をうかがっている。混乱した観客たちが騒いでいるせいもあって、スタッフたちもすぐには動けない。ステージ上にようやくスタッフが現れた時、男性は女優からマイクを奪い取っていた。カメラがようやく男性をとらえる。それは後ろの大きなモニターと連動しているようで、画面上には2人分の男性の顔が映った。男性は若者で、ひどく憔悴している様子であることが分かった。そして大きく息を吸い込んだと思いきや、信じられないことを叫んだ。
『この女は吸血鬼だ!こいつのせいで俺の人生はめちゃくちゃだ!吸血鬼は俺らの血を狙ってる!吸血鬼どもは俺らを殺す気なんだ!』
そこで画面が切り替わり、騒然としたスタジオが映し出された。皆、あっけにとられ、言葉を失っている。その中で、カンペが差し出され、MCの女性がうろたえながら話し出す。
『えー…ただいまトラブルが発生した模様です。予定とは異なりますが…先に天気予報のからお伝えしたいと思います…。』
そしてまた画面が切り替わった。そして画面いっぱいに出てくる雨と雷のマークは、全国的に天気が下り坂であることを表している。
『関東地方の今日の天気です。今日は午前中の快晴とは裏腹に、午後は大荒れの模様です。』
違うスタジオにいたせいか、はたまた相当肝が据わっているのか。不気味なくらい冷静な女性アナウンサーの声が流れる。
やっと目的の情報が出たというのに、俺は画面を見ていられなかった。
目の前に座る吸血鬼を見るが、その横顔に変化はない。
アイツの目はどこまでも冷たい。
まるで自分が食事をしている時みたいに。
どこか義務的で、何かを諦めたような、何も感じさせない目で、画面を見つめていたのだった。
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