オイシイ関係2-2

 案内されたのは都内にある大きめのマンションだった。

日光はリビングのみに存在し、他は蛍光灯が頼り。無機質なコンクリートの壁とフローリングの床。そしてベランダに続く大きな窓がひとつ。必要最低限の家具が微かな生活感を漂わせてはいるが、殺風景で全体的に薄暗い。1人暮らしの会社員の部屋にしてはあまりにも広く、何もない2LDK。普通に見えて異常。それが部屋の印象だった。

「なんもねぇな…。」

先にリビングに足を踏み入れ、ぽつりと感想をこぼすと「そうですね」と後ろから同意の言葉が掛けられた。

「家具は備え付けですし、この部屋には寝る以外に何もすることはないので、この有様です。」

振り向くと、ちょうどアイツがトレンチコートを脱いでいるところだった。俺を連れてくる予定ではなかったはずなのに部屋は片付いている。几帳面なコイツのことだ。きっと普段から片付けているのだろう。

「俺の部屋みたいに、物でごった返してるよか全然いいとは思うけど。」

「今度、拝見しに行っても?」

「やめろ。」

そう言いながら渡されたハンガーを受け取り、上着とマフラーを掛ける。掛け終わるとまた自然な仕草でハンガーが回収された。いつの間にか、床に置いたはずのカバンまで男の手の中にある。壁際にそれらがかけられると、少しだけ部屋が人間らしくなった気がした。

「寝るだけっつっても物が少なすぎねぇ?趣味とかねぇの?」

「ありませんね。それどころかどんな部屋が普通なのか見当もつきません。だから君の部屋を参考にさせてください。」

「しつこい。んなこと言って、冷蔵庫とかゴミ箱開けて俺の食事情を探る気じゃねぇだろうな?」

俺がジト目でにらむと、ちょっと沈黙があった。

「…こういうときだけ勘のいい人は嫌いですねぇ。」

「絶対来んな。」

それに今の言い方だと普段の俺は勘が鈍いみたいじゃないか。たしかに話を持っていかれることは多いが、それは逆にあっちの頭が良すぎるからだ。そうに決まってる。とにかく俺は鈍感ではない。

…たぶん。

「物や趣味がなくても生活に支障はありませんし、これでいいんです。普段は他人を部屋に入れたりしないので。」

そう言いながらこれまた自然な動きでテーブルへ俺を招き、イスに座らせる。それに素直に従ってしまった自分に呆れ半分、ムカつきさえする。

「俺は他人だぞ。」

口を尖らせると、即座に真上から返答が降ってきた。

「違いますよ。大切な人です。」

俺はぐりんっと顎をあげてアイツの顔をにらんだ。後ろに立って俺を見下ろす男の顔は逆さに見える。

「だーかーらー。そういうことを言うんじゃねぇよ。こっぱずかしい。」

「顔、赤いですよ。照れてるんですか?」

「ちげぇよ!急に上向いたから血が上ったんだ……っ!」

「そうですか。」

アイツの手が俺の肩に触れ、そのまま首を伝って頬を包まれる。

本能的に危機を感じてそれを外そうと手を掛けるが、それより先に視線が絡み、そらせなくなってしまった。

今日も吸い込まれそうな瞳にとらえられる。

俺だけを見つめる、2つの目。

あの駅のホームで見た時の鋭い目とは違う。リラックスした、穏やかな目だ。

それでいて俺のことを貫く強さを感じる。体までがんじがらめにしたように動かせない。

瞳の中には、その目に見惚れる俺の間抜けな顔がある。

(やっぱりコイツの目は綺麗だ。)

ぼんやりとした思考の片隅で、そんなことを思った。

「また、目を見ていますね。」

「何かわりぃか?」

素直に答えると、目はスッと細められた。

「君が言ったんですよ?特別な人の前だけでこういうことを言えって。」

「い…言ったけどよ……。」

直接指摘されると性癖を告白した時のことを思い出して、またもじわじわ熱が集まる。

あの時のことは、緊張していたせいで何を口走ったかよく覚えていない。混乱した頭は、状況を飲み込むので精一杯だった。コイツに泣き顔を見られたなんて、今となっては屈辱でしかない。

俺が黙っていると、目がさらに嬉しそうに細められた。

「それなら、別にかまわないでしょう?」

「アンタ、俺で遊んでないか?」

「滅相もない。楽しんでいるだけですよ。」

「それを遊んでるっつうんだよ。」

「あはは。」

手と目による拘束からやっと解放され、きしむ首を元の位置に戻す。もう少し長くああされていたら筋がどうにかなっていたかもしれない。

首をさすっていると、目の前のダイニングキッチンへ移動したアイツがエプロンをつけていた。エプロンの色が黒いのがアイツらしい。いつもスーツ姿ばかり見ているせいか、今日の格好は新鮮に見える。この殺風景な部屋で、エプロンという生活感あふれる格好をされると変な感じがした。

「さっそく昼飯か?」

「はい。そのために連れてきたんですから。」

「現金なヤツだな。」

「君もよく知っているでしょう。」

さっきまでの丁寧な扱いはそのためか。こらえ性のないヤツだ。

「何を食べますか?」

「何があるんだ?」

「基本的に野菜しかありませんよ。」

「基本的?」

「人間が食べられるものってことです。」

吸血鬼であるコイツに『人間』と言われると距離を感じる。だが、こうして自宅に招いてくれるくらいには受け入れられているはずだから、ここは何も言わないでおく。

「そしたら本当にサラダしかできねぇじゃんか。」

「作ろうと思えばスープもできますが、メイン料理がないですからね。あまり手の込んだものを作ると時間が掛かりますし、サラダが妥当だと思いますが…不満ですか?」

「うーん。夕飯だったら勘弁だけど、さっき肉まん食ったからサラダだけで大丈夫。最近あんま野菜食ってねぇしちょーどいいわ。」

昨日の昼はカップ麺。一昨日はハンバーガー。節約のために朝飯は抜いているし、夕飯はスーパーの弁当だ。相変わらず偏りまくった食生活である。

「また市販の弁当や冷凍食品を食べているんじゃないでしょうね。体調崩しますよ?」

「ほっとけ。」

1人暮らしになると、どうしても家事が億劫になる。そして俺にとっては最も気が進まないのが飯づくりだ。特に野菜は買うとそれが腐る前に全て1人で食べきらなければならない。料理が苦手なせいもあって、延々と同じような味を食べ続けることになってしまう。自炊への道は遠のく一方だ。それに、料理という行為自体、疲れた体への拷問でしかない。

「お前は俺のおふくろかよ。」

「お母様ではありませんよ。お友達です。」

「んなこたぁ分かってるよ。いちいち上げ足取ってんじゃねぇ。口より手ぇ動かせ。」

「あぁ…これが客人の態度ですかねぇ。」

「そっちこそ客人に対する態度かよ。」

「心配してるだけです。」

コイツのマイペースさには調子を狂わされる。

俺は少しむきになって反論することにした。

「こんなことならコンビニで弁当も買ってくればよかったんじゃねぇの?」

わざと大きくため息を吐くが、相手に焦りは見られない。

「君の食事が偏っていることは分かっていましたし、それじゃあ風情がないじゃないですか。」

「風情ねぇ…。肉まんは良かったのかよ。」

「あれはあれでいいんです。今日も素敵でしたよ。冬に外で温かいものを食べた時の、あの湯気の感じがたまらないんです。特に肉まんは口を離した時、口と杏の両方からゆらっと湯気が立ち上るところとかグッときませんか?その熱さで顔をしかめるなり、涙目になるなり、激しく息を吐くなり、想像するだけでたまらない…。あれはもう冬の風物詩と言っても過言ではないですよ…。」

そう言ってまたうっとりとした顔をする。そんなコイツの感性には全くもってついていけない。俺は食に関してコイツほどこだわりはないので、そんなことよりも満腹感を優先したい。ぶっちゃけ、ある程度の味と量があれば満足する。

「それはさておき。文句を言うならこっちに来て一緒にメニュー考えてくださいよ。作るのは僕がやりますから。」

精神的トリップから帰ってきたらしいアイツが話題を元に戻した。

「アンタが座らせたんだろうが…。」

「ほら、早くしてください。」

理不尽に急かされて、仕方なくイスから降り、キッチンへ入る。何となく違和感を覚えるのは、フライパンや鍋類はあるのに全く使われた形跡がないことと、丁寧に棚にしまわれている皿のせいだろう。これじゃあモデルルームとそう変わらない。

「アンタ、あんま料理しねぇの?」

「自炊はしてますよ。とはいえ食べやすいように切るだけで、これといった調理はしませんが。」

言われて見れば、まな板だけは使いこまれているような気がする。包丁はしっかり手入れがされているようで、刃の部分がぬらぬら光っていた。

「吸血鬼の僕に無駄な味付けは必要ないことです。食べ物を不味くするだけですし、調理の過程は見ていてあまり心地いいものではありません。」

最後のひと言には明らかに拒絶の感情が含まれている。ちらりと横顔を見やればその双眸に恨みにも似た闇を感じた。さっきまであんなに楽しそうだったのに、妙な雰囲気になってしまった。

「すまん。そんなつもりじゃなかった。」

反射的に謝ると「分かってます」と返される。その発言にも不穏なものを感じるが、触れてはいけない気がして指摘はしないでおく。最近のコイツは失言というか、吸血鬼を匂わせる発言が目立つようになってきた。これはわざとなのか、それとも俺の前だけで気を許してくれているということなのかは判断しかねる。できれば後者であってほしいと思う。どちらにせよ、俺から踏み込んではいけないような気がしていた。

2人で順に手を洗い、冷蔵庫の一番下の引き出しを開ける。中にはびっしりと野菜が詰められていて、キャベツやニンジンはもちろんハクサイ、ホウレンソウ、ダイコンなどが目いっぱいに入っていた。中には見たこともないものもある。

「すっげぇな。全部野菜か?」

俺が驚いた声を出すと、肯定された。

「そうです。僕の主な食べ物は野菜ですから。味わわないとはいっても、変化があった方が食べることに飽きないでしょう?」

「俺からすると、食べることに飽きるって方がすげぇと思うわ。」

「人間の食事とは違って、アレンジができませんから。君は悩みがなくていいですね。」

嫌味なヤツだ。

俺はそれを無視して冷蔵庫の中を覗きこんだ。

「妙に細長いニンジンだな。」

「金時人参です。普通の人参より柔らかくて甘いですよ。」

「こっちのは白いドリルみてぇだ。」

「イタリアの野菜で、ロマネスコと言います。美しい野菜としても有名で、カリフラワーの仲間です。」

「カリフラワーって白いブロッコリーか。」

「はい。」

名前は全く頭に入ってこなかったが、形はとりあえず覚えた。

敷き詰められた野菜はどれも新鮮で、しなびたものは1つもない。それだけ仕入れられてから日が経っていないということだ。

「これアンタひとりで全部食べんのか?」

「人間が1日に取るべき野菜量は350グラム以上と言われていますし、主食の3倍は野菜類を摂取すべきともいわれます。ここに入っている野菜は1週間もすればなくなりますよ。」

「350ってどのくらい?」

「1日に3食として、1食にサラダボウル1皿半でも足りないくらいです。」

「へぇ…。すげぇ量だな…。」

「君にも当てはまることですし、今日から始めてみたらいかがですか?」

「俺には無理。」

手をひらひらとふって、お手上げのポーズをする。そうすると「それは残念です」と思わせぶりな返事と笑顔が返ってくる。

「さて、いつまでも冷蔵庫を開けておくのも忍びないので、早く食べたいものを選んでください。」

「はいはい。」

適当に返事をしながら、手を伸ばす。食べたことがない野菜は高そうだし、口に合わなかったときにもったいない。俺は無難にトマトとレタス、玉ねぎを引き抜いた。

「アンタは何食べる?食べたい物とかないの?」

「僕は…先ほど食べたばかりなので大丈夫です。」

「そうなのか?」

「はい。」

顔に張り付けられた満点の笑顔。コイツが嘘を吐くときの、何も考えていない真っ黒い目。はぐらかされているのが分かって腹が立った。ムッとしていると手に持っている野菜を抜き取られる。

「あとは僕がやりますよ。せっかくのお客様に料理までさせるわけにはいきません。」

「俺も手伝うよ。自分が食べるものくらい自分で作る。」

部屋の主人が食べないのに作らせるのもなんだか悪い。しかし、コイツは食い下がった。

「あいにくエプロンは1枚しかないので。」

「別にそんなのなくてもいいだろ。」

「服が汚れますよ。それに衛生的じゃない。」

「俺は気にしねぇ。」

「僕が気にするんです。」

「アンタが食べるわけじゃねぇだろ。」

「それでもイヤです。」

「じゃあそのエプロン寄こせ。」

「イヤです。脱ぐのが面倒くさい。」

「アンタなぁー!」

なぜコイツはこんなにもエプロンにこだわっているのか。しかも俺がヒートアップしているというのに余裕の笑みを浮かべている。実に楽しそうに拒否をし続ける様子に、こちらが根負けした。

「…もういい。待ってりゃいいんだろ。」

「ご協力ありがとうございます。」

「うぜぇ…。」

営業スマイルに罵声を浴びせるも、全く気にした様子がない。むしろ遊ばれた気がして俺はげんなりしていた。

コイツは出会った時より、感情を表に出すようになった。簡単に言うと笑顔が出るようになった。特にこんな感じのバカらしい会話とか、俺をからかっているときとか、それはもうドラマの撮影をしているんじゃないかというくらいにいい笑顔をする。コイツはコイツで俺と過ごす時間を楽しんでくれているようだ。それが一番輝くのは食事中だが、その時の目はキラキラしていてずっと見ていたくなる。

言われた通りにするのもなんとなく癪だったので、ダイニングテーブルの反対側に回り、立ったまま頬杖をついた。料理ショーさながらにまな板の上で野菜をそろえる姿がよく見える。

「さっきみたいなことはしない方がいいですよ。」

「あぁ?エプロンの取り合いのことか?」

「そうではなくて…吸血を誘うようなことです。」

吸血鬼はその長い指で愛おしそうにトマトを撫でた。

「飢えた吸血鬼の前で、あんな風に、首なんてさらさない方がいい。」

トン…と包丁がまな板に当たる音がして、次の瞬間にはトマトが真っ二つに割れる。綺麗な切り口から溢れた汁が、まな板を赤く染めた。

それを聞いて、イスに座らせられた後にアイツの目の前に喉を出した時のことだと理解する。

「誘うって…そんなつもりはなかったんだが…。」

生々しい単語を出されて、ちょっとたじろいでしまった。対して吸血鬼は冷静だ。

「吸血鬼にとってはそう見えるということです。今後は、慎んでください。」

「…善処はする。」

何をしたらそういう風に見えるのかがはっきりとは分からなかったので、曖昧な返事にとどめた。そのせいなのか、男の目が不自然にふせられる。そうすると、綺麗に並んだまつ毛がよく見えた。

「お聞きしますが、僕が吸血鬼と知ってから吸血鬼について調べたりはしましたか?」

「してねぇよ。」

「全く?」

「あぁ。」

即座に返すと心底残念そうにため息をつかれた。

「何か文句あっか?」

「信用されているという点では嬉しいのですが、あなたの場合、思いつかなかったという方が正しいのではないですか?」

「な…何言ってんだよ。信用してるからに決まってるだろ?」

声が裏返った。図星だ。

それが悔しくて意見に乗っかると、鼻で笑われた。これは確実にバレている。

「確かに吸血鬼の存在は一般的にに認知されているわけではないので、ネットや図書館でどうにかなるようなことではありませんが…。」

「じゃあ調べるなんて無理じゃねぇか。」

「その辺の酪農家とか、献血団体に問い合わせれば情報は手に入りますよ?いくら隠ぺいされているといっても、僕たちが存在している以上関わる人はそれなりのネットワークを持っています。実質的な被害を被ったわけでなくとも、僕たちは脅威と取られているので、助けを乞う者を拒みません。」

「ふーん。そんなもんか。」

そう言われたところで『吸血鬼について教えてください』なんて他人に聞く勇気はない。もしもコイツの言うことがホラだったとしたら、俺はただの変人だ。コイツが吸血鬼であることを疑ったことはないが、他にも吸血鬼がいるというのはまだ確信がない。というか確かめようがない。結局のところ、俺は今の関係を続けたいだけなのだ。そこにコイツが何者であるか、どんな人物であるか、どこに所属しているかなんてことは重要じゃない。そこに、俺の理想の目があることが重要なだけだ。

「どうぞ。」

おもむろに、レタスがひときれ差し出される。俺がそれを咥えると、吸血鬼は嬉しそうに手を離した。俺が咀嚼する姿を見るコイツは、やっぱり楽しそうにしている。半分バカにされているというのに、その理想的に細められた目を見るだけで、どうでもよくまってしまう。つくづく変な性癖を持ってしまったもんだ。

ザクリとレタスを最後まで切り終えると、アイツの声が少し低くなった。

「君は吸血鬼のこと…もっと知りたいですか?」

ヒヤリとした。持っている包丁を突きつけられたかと思うほど、鋭い声だった。俺のことを試すような、感情のない瞳。一気に相手の感情が読めなくなる。それは俺にとって恐怖だ。

でも、俺は間髪入れずに答えることができた。

「アンタにまかせる。」

相手に自分の決定を求めるのは苦手だ。人間は意見を求められたとき、大抵思いやりとかよりも、利益で物事を決める。特に会社のようなプライドの集合体はその典型だ。その場合、決定をゆだねると嫌な思いをすることが多い。だからできるだけ、自分で決めるようにしてきた。

でも、ここはプライベートな空間だ。変な意地なんて張る必要はない。どう見たって、コイツは俺に話したがっているじゃないか。今、相手にゆだねずして、思いやらずして、いつするというのか。俺が決断をコイツに任せるのは、そういう理由だった。

俺のはっきりとした口調に驚いたのか、アイツの瞳が少し揺れた気がする。そして包丁を持ったまま、吸血鬼はまた微笑む。

「それでは、お願いしましょうか。」

そう言って切り分けられた野菜をそれぞれ皿に盛り、冷蔵庫に入れてしまった。その代わりに、棚からワインボトルとグラスを2つ取り出す。

「ワイン?」

「えぇ。食べながら話しても良いのですが、食事中に適さないお話もありますので、せめて飲み物を…と思いまして。」

それを聞いてちょっと後悔したが、今さら引いたら男が廃る。

「アンタはいいのかよ。」

これは《食べるのを見なくていいのか》という意味だ。

「我慢くらいできますよ。」

さっきまであんなに急かしていたのに、それを中断するくらいだ。コイツが腹を決めたのなら、それをしっかり受け止めてやりたいと思った。

俺とアイツの間にグラスが置かれ、ボトルのコルクが抜かれる。ポンッと鈍い音がして、硬いはずの封は思ったより簡単に外れてしまった。

「吸血鬼の僕でも美味しく飲めるワインです。人間にはちょっと味が薄いかもしれませんが、君は気に入ると思いますよ。」

ボトルを差し出されて慌ててグラスを持つと、中から赤黒い液体が注がれる。とぽぽぽ…と心地よい音と共に、ふわりとアルコールの匂いが広がった。グラスに半分ほど注がれたワインは、傾けると怪しく光る。

「綺麗な色だな。」

「そうですね。僕らは人間よりも味に敏感なので、ブドウのみを使い、味の調整をしないものを好みます。アルコールの度数も低いので、好きなだけ飲んでください。」

「おう…。」

俺はさっきまでの話のせいか血を連想してしまって、すぐには口をつけられなかった。とりあえず席に着き、目の前にグラスを据える。アイツもエプロンを外し、丁寧にたたんでから、俺の目の前の席に座った。自分のグラスにもワインを注ぐと、ボトルは中央に置く。

いざ、向き合うと、妙に緊張した。

アイツの真剣な目から、これから始まる話が俺らにとって重要なことだということが嫌でも伝わってくる。それなのに、その目に見惚れてしまいそうになる自分がいる。向き合ってもらえているというだけで、これからされる話がどんなものであろうと俺はもう満足だった。

アイツが大きく息を吸いこんだ。

「僕は、君にもっと僕のことを知ってほしい。だから、聞いていただけますか。」

「何度も聞くな。ちゃんと聞いてやるから。」

前置きが長すぎると文句を言うと、吸血鬼は微笑んだ。


  ○  ○  ○


「君に行動を慎め、と言ったのにはちゃんとした理由があります。吸血鬼にとって、生き物から直接血を吸うというのは最高の贅沢です。冷凍された血や古い血とは比べ物にならない、極上の味。さらに言えば、動物よりもはるかに質の良い物を食べている人間は、血の質も良い。」

俺の脳内には少ない牧草を食べて育った安価な牛と、美味い牧草をたらふく食って育った高級黒毛和牛のイメージが流れる。その点では人間も動物も共通しているようだ。

「僕たちも犯罪者になりたいわけではないので人間を襲ったりはしませんが、人間の血を飲まないわけでもありません。僕は血さえ手に入ればいいので家畜の血を分けてもらっていますが、人間の血を好んで飲む吸血鬼もいます。人間の血だけを飲みたいなんて贅沢を言う吸血鬼は献血団体のような特殊ルートから手に入れるか、パートナーをつくり、毎日一定量の血を分けてもらうことが常です。1日大体コップ1杯くらいですね。」

そういってからワインの入ったグラスを指されると、ワインがますます血に見えてくる。少し、胃のむかつきを覚えた。

「じゃあ人間のパートナーを持ってる吸血鬼は毎日超贅沢じゃねぇか。」

毎日ごちそう食い放題と考えれば、この上なく幸せだろうに。

小腹の空いた俺がハッピーな想像をしていると、一瞬で否定された。

「それがそうでもないんですよ。」

その目は笑っていない。コイツには俺の脳内が丸見えなんじゃないだろうか…。阿呆な想像をしていた自分を少し反省した。

「パートナーを持てば、血を手に入れるのは楽になりますが、常に血を飲む分量を気にしなければなりません。血を取りすぎれば相手に負担が掛かり、血の質は下がります。そうでなくとも、毎日血を抜かれるというストレスがかかるわけですから、体調管理も人一倍しなければなりません。傷を負おうものなら、その匂いで吸血鬼は常に生殺し状態になります。そもそも吸血鬼のことを知っていて、受け入れてくれる人なんて滅多にいません。だから、色々と厄介なんですよ。」

彼の目が儚げに揺れた。

「美味しいものっていっぱい食べたくなりませんか?君は子どもの頃『チョコは1日3つまで』という風に親御さんと約束したのにもかかわらず、それを破ったことがありますよね。」

「決めつけんな。ってかなんで俺の子どもの頃の菓子事情まで知ってんだよ。」

「大抵のことは分かります。」

「んなことあってたまるか!」

「ちなみに板チョコは割らずにかじる派ですよね。キンキンに冷やした板チョコをパリッといくのがお好きなようで…。」

「俺アンタの前でチョコなんて食ったことねぇよな⁉」

「今度見せてくださいね。」

「絶対嫌だ…!」

微笑まれても納得できない。

たしかに、何回か多めにお菓子を食べたことがあったし、好きな板チョコの食べ方もそれで合ってる。当たったのはまぐれだと思いたいのに、そうも言いきれないのがコイツの怖いところである。

時々…いやけっこう頻繁にコイツを色んな意味で恐ろしいと感じる。

「冗談はさておき、吸血鬼も同じなんですよ。直接に人の血管から血を吸えば、そりゃあ美味しいでしょう。でも、それ故に、抑えがきかなくなってしまう。全てを吸いつくしてしまう。それこそ、相手が死ぬまで。いや、死んでもなお、しゃぶり尽くす。死んだことにさえ気づかずにね。それが吸血鬼というやつです。」

「………。」

見たこともない吸血風景をリアルに想像して青くなっていると、すかさずフォローが入った。

「もちろん現代の吸血鬼は幼いの頃から専門の教育機関で訓練されているので、むやみやたらにそういったことはしません。普段はそうならないよう注射器で血を抜いて、それを飲みます。教育機関が成立する前の、さらに血を抜く道具が手に入らなかった時代に事例があったというだけです。歴史や伝説は誇張される物ですし、それらに根も葉もない噂がついて、オカルトじみた話が残ってしまっている。だから、結局未だに人間の世界で受け入れていただけないんです。だから君が青くなる必要はありませんよ。」

「そ…そうか。それならよかった…。」

心の底からほっとした。

「では、これを踏まえた上で質問します。吸血鬼が人間のどの部位から血を吸いたくなるか、ご存知ですか?」

「首…じゃねーの?」

そういうことに聡いわけではないのでうろ覚えだが、たしか頸動脈とかいう血管があったはずだ。

マンガや映画で見た記憶を手繰り寄せる。

美女の首にかじりつく吸血鬼。

派手な戦闘シーンでよく血しぶきが上がる部位でもある。

もちろん俺の知識は人間が作ったフィクションから得たものだろうし、実際に見たことはないから断定はできない。

「そうですね…。」

組んでいたアイツの手が解かれる。少しイスをひき、背もたれにもたれると、ついでに組んでいた足も降ろされた。

「主に太い、動脈の通っているところ…。」

そう言いながらアイツの長い指が自らの身体をたどる。その姿は妙に色っぽくて、俺は自然と彼の右手を目で追いかけていた。

「まずは首。」

白くて筋肉質な首筋が上から下へなぞられ、手はそのまま滑らかに左腕へ進む。

「そして二の腕と手首の裏。」

腕をさすり、手はさらに下へと降りていく。途中で触れた腕時計がかちゃりと音を立てた。

「太ももの内側に…アキレス腱…このくらいでしょうか。人間の体はよくできていますよ。急所はみんな隠れたところにある…。」

股の付け根を少し撫で、手はまた上へと戻ってくる。

アイツがテーブルに乗り出した。

「いいですか?」

不意にテーブル越しに、心臓のあたりを指で突かれる。

心臓を鷲掴みされるような気がして、喉からひゅっと嫌な音がした。

それを皮切りにして体から血の気が引いていくのが分かる。

それなのに頭、というか顔全体が熱い。

その原因は分かっていた。

目だ。

彼の目が、あまりにも熱を帯びているからだ。

いつも純白をたたえているはずの目は軽く赤みを帯び、全体的に潤んでいる。

色気が目から垂れ流されているような。激情をひた隠しているような。

そんな、情熱的な目。

「いくら厳しく訓練されていても、絶対はない。酷く飢えている吸血鬼は野生そのものです。普段は堪えているものの箍が外れるんですから、力加減なんてできません。そうなった吸血鬼は、理性ではなく本能に従って行動します。だから、吸血鬼の前でこれらの部位を極力さらけ出さない方がいい。君達人間が、ステーキの焼ける映像を見て唾がこみ上げるのと同じように、吸血鬼は人間を見て同じような感情を抱く。僕は唯一の友人を誰かに食われたくないし、自ら殺したくもない。だから協力してください。」

コイツも、今、俺にそんな感情を抱いているのだろうか。

真っ直ぐ見つめられる。

優しく諭すような口調と懇願するような目。

こういうのはずるい。こういう目には弱い。はねのけられない。感情が素直に伝わってくる。

分かっている。

コイツは、俺を怖がらせたいわけじゃない。守りたいからこんな話をするんだ。だから本当のことを話してくれているんだ。俺はコイツに大事にされている。それを、嫌でも感じる。

「分かったよ。」

2重の意味で理解した。ぽつりと告げるとさっきまでの切ない表情が、嘘のように満足げなものへ変わる。

「ありがとうございます。」

「………。」

そうしてようやくアイツの手が、俺の胸から離された。

脅しにも似た言動があったが、俺も死にたいわけではない。極力気を付けよう。

俺が見上げるようにして黙っていると、目の前の吸血鬼はまたいつもの笑顔を取り戻した。

「ふふふ。あなたとの秘密が増えてわくわくします。」

「こっちは気が気じゃねぇよ…。」

この数分の間にどれくらい寿命が縮んだだろうか。俺はそんなに肝が据わっているわけではないのであまり怖がらせないでほしい。

「友人に吸血鬼について話すのは初めてですね。なんだか悪いことをしているみたいで楽しいです。」

「お手柔らかにたのむよ。」

心からお願い申し上げた。

「それでは次は、先ほど話に出た吸血鬼の教育機関についてお話しましょうか。」

そう言うと、吸血鬼はイスを手前にひき、また手を組んだ。長い指が互いに絡み合って、その上にアイツの顎が軽く乗せられる。

「吸血鬼は正確には人間です。」

教科書を暗唱するみたいな口調だった。

「『1日一定量の動物の血液を飲みたいという衝動を持ってしまっている』というだけで、体の構造は人間と何ら変わったことはない。別に十字架やにんにく、日光に弱いだとか、寿命が極端に長いとかいうこともない。秀でているとすれば、嗅覚、味覚、聴覚が少し鋭敏なくらい。そこはお分かりですか?」

「アンタを見てればその辺はなんとなく分かるよ。」

普段一緒に過ごしていても、コイツが何か不審な行動をしたことはないし、コイツから吸血鬼だと聞かされるまで気づかなかったのもそのせいだ。むしろ欠点を教えてほしいくらいである。吸血鬼だという事を除いても、コイツは弱みを見せない。

「でも、人間と姿かたちが同じだからと吸血鬼の子どもを人間と同じように育てるわけにはいきません。それには様々な問題が生じます。主に吸血衝動の処理。特に幼稚園や保育園に行くような年齢になれば、周りの子どもたちと自分が明らかに違う存在だということ認識します。だから幼い頃から吸血鬼専門の教育機関へ行かせることになっています。これは吸血衝動のコントロールをするためということもありますが、一番の理由は将来の経済力を確保するためです。」

「経済力?」

話の先が見えず、またも首をかしげると、吸血鬼は手を組み直した。

「例えば、君が吸血鬼だとしましょう。君のお給料から家賃や食費、もろもろの生活費を差し引いて、残ったお金を想像してください。あっ口に出さなくて結構ですよ?期待していないので。」

「アンタはいちいち俺をけなさねぇと説明ができねぇのかよ。」

「ほら、早く。」

抗議を続けたい気持ちを抑えて、言われた通り頭の中で計算をする。俺の安月給から生活費を引いてしまったら、残るのは雀の涙ほどのお金だ。もちろん貯金なんてろくにできていない。親の仕送りで何とか生きている。なんとも苦しい1人暮らしだ。あぁ、想像しただけで泣けてくる。

「それで?」

「吸血鬼は、そこから毎日の血液代が必要になります。言うまでもなく足りないですよね。そして、血液を手に入れるのにはお金の他にもコネがいります。だから、正確には、お金と一定以上の社会的地位が必要になるんです。」

「それで教育か…。」

やっと話が見えた。血を手に入れるためには人並みの給料では生きていけない。幼少から英才教育を受けることで、元からハンデを抱えている吸血鬼が将来路頭に迷わないようにするわけだ。

「ってことは吸血鬼ってみんなエリートになるのか。副産物とはいえ、ラッキーじゃん。」

重くなってきた空気を軽くしたくて半分ふざけたように言うと、ピシャリと言い返された。

「君は何か勘違いをしていませんか?」

俺の発言はまたも冷ややかな声にかき消される。表情は笑っているのに目が据わっていた。怒らせたかもしれない。

「吸血鬼は今の世の中では人間よりも低俗な生き物として扱われています。どんなに仕事ができたって、どんなに素晴らしい容姿をしていたって、そういう位置づけです。基本的には人間と同じなのに、血液を摂取しなければならない。血を吸わなければ理性が保てない、というハンデを持っているだけで、虐げられて、人間以上の努力を強要される。多数の存在が正しいとされる。本当に面倒くさい世界ですよ。」

好きで吸血鬼になったわけではないのに、そんな風に勝手な想像で肯定、否定するのはひどいことかもしれない。そう思いはするが、それが社会の仕組みになってしまっているとすれば、俺には何もできない。それは酷くもどかしかった。

「さて、話を元に戻します。」

そこまで言うと、コイツはグラスを手に取り、のどを潤した。俺とアイツの間に、再びブドウの香りが漂う。

「先ほど少しお話ししましたが、吸血鬼の子どもは3歳ごろから小学校卒業までの間、それぞれの区画にある専門機関で吸血鬼に必要なことを学びます。一番重要視されるのは、理性のコントロールですね。」

「むやみに吸血しないようにってか?」

「それもありますが、冷静に物事を見られるようにという側面も大きいと思います。会話する相手を観察し、自分に有利な方向に物事を持っていくには、頭をフル回転させなければなりません。それこそ、水面下で足をばたつかせる白鳥のごとくね。あとは、人間の食事の匂いをかいだり食べたりしてもむやみに吐いたりしないように訓練したりします。人間の料理程ありふれていて吸血鬼の苦手なものはありませんから。」

そう言われると、目の前の男の冷静さや完璧さに納得がいく。体に覚えさせられているのだ。

俺ら人間にしたら美味しそうな匂いのあふれた商店街も、コイツ等からしたら地獄でしかない。その中でも平然としていなければならないのはさぞ酷なものだろう。

「そしてそれをベースに、社交術、人心掌握術、社会学、経営学、医学、他にも専門的なことを学びます。中には年代と商業別の傾向、毒の判別、男女の口説き方から性交渉まで、それこそあらゆるジャンルを学びます。」

「小学校でか…⁉」

「はい。」

俺が吸血鬼だったら頭がパンクしていると思う。俺なんてまともに勉強したのは大学受験くらい。しかも付け焼刃だったせいでその時の知識なんてもう1ミリも残っていない。

というか小学生のうちに……とんだマセガキだ!

「しかも毒の味ってのは…。」

「吸血鬼は味に敏感なので、こういうところでは便利なんですよ。毒を飲まされる可能性がないとは言えないですから覚えておいて損はないでしょう。」

「そうなのか?」

「えぇ。」

そんな状況にはなったことがないので、損得は分からなかった。

「そして中学校から、個々に指定された地区にある人間と同じ学校に入ります。そして小学校で得た知識で人間に紛れる術を磨いていくことになりますね。既に幼少の頃から学びに関しては頭に詰め込まれているので、良い学校、企業には入れますし、学びの小屋とは名ばかりで、色々な意味で実践の場ですね。もしかしたら君のいた学校にもいたかもしれませんよ?」

そう言われたところで全く思い当たる節はない。それだけ、吸血鬼が人間の社会に溶け込んでいるということのだろうか。

「なんか、徹底してるな。」

素直に感想を漏らすと、吸血鬼は「そうですね」と肯定した。

「そうでもしないと生き残れません。先ほども言いましたが、世の中は多数の者が優位に立ちます。だから、こうしてうまく隠れないと世界から排除されてしまいます。」

それは俺もよく知ってる。少しでも周りと違っていたら、淘汰される。だからみんな自分の本来の姿を隠し、表面で生活するのだ。

「そして時期が来れば、決められた吸血鬼同士で子どもを産みます。」

「決められた?」

「吸血鬼は吸血鬼同士でないと、子どもができません。だから、吸血鬼の団体によって遺伝子の型が合っている吸血鬼を合わせます。吸血鬼の血を絶やさないためにも子どもができないのは困りますし、そもそも吸血鬼の子どもはできにくい。無駄に時間やリスクを負うより、科学的な結果から決めてしまった方が確実です。お互い、経済力だけはあるので、必ずしも結婚する必要はありませんが、吸血鬼についての知識を持った人間は少ないですし、育児の大変さを考えれば、吸血鬼同士で暮らすのが妥当ですね。」

「それじゃあ、パートナーは結婚相手ってわけではないのか。」

「書類上の結婚はできますが、子どもができないのであまり例はないですね。しかし必ず子連れまたは他で子ども作ると分かっている相手を選ぶ人はなかなかいないでしょう。」

パートナーというくらいだから勝手に結婚相手の、しかも異性だと思ってしまっていた。確かに、結婚は血を残すための過程に過ぎない。フィクションなんかでは『愛があるならいい』みたいなこともあるだろうが、現実には、世間体だとか、親族からの期待もある。だから、自分の人生を棒に振るようなことはできない。吸血鬼も人間も色々と面倒くさいものだ。

「そうして子どもは2人もうけます。2人産まれなければ、代わりに他の吸血鬼が足りない分の子どもを産み育てます。2人しか産まないのは『これ以上吸血鬼は増やすべきでない』というのが世界の判断だからです。これ以上不幸な子どもたちを増やしてはいけないが、減らすことも憚られる。そして世界で吸血鬼が受け入れられていないうちは、完全な管理の下、せいぜい数を減らさないようにするしかありません。世界は吸血鬼の存在と権利を尊重する代わりにそれを条件に決めました。今のご時世、それこそ魔女狩りのごとく無差別に吸血鬼を殺すことはできません。これが折衷案というところなんでしょう。僕もそうすべきだと思っています。とは言っても、人間の人口は増えていますから、吸血鬼の人口の割合自体はどんどん減っているのですが…。」

「………。」

まさにぐうの音も出ないというやつだ。本当に徹底している。人間との共存のため、自分たちの立場の確立のため、どれだけの労力が使われてきたのだろうか。やろうと思えば、子どもを産ませないという手もあったかもしれない。それを許容させたのはすごい。しかし、これは確実に『多数が有利な世界』になっていくということだ。人間は、吸血鬼を追いやろうとしていることに変わりはなさそうだった。

「これらのもろもろの制度に問題があるとすれば、幼少期から冷静さや理性を鍛えるので、感情の起伏が小さい者が多い。それこそ性交の際には興奮剤が必要なくらいに。職業選びも少し厄介で、技術はあっても目立ちすぎないように過ごす必要があります。それでも生活できるなら文句は言えません。僕もこの制度には感謝しています。」

コイツ自身もそれなりの苦労はしているだろうとは思っていたが、吸血鬼は人間社会でかなり過酷な環境に置かれているようだ。俺が腕組みをしながら頭の中を整理していると、アイツはまたワインに口を付けた。コイツもコイツなりに緊張しているのかもしれない。

目が合うとまた微笑まれた。

「それより、俺なんかに話して大丈夫なのか…?」

「さすがにむやみやたらに全てをお話しするわけにはいきませんが、このくらい大丈夫でしょう。君のことは信用してますし、君くらい人望がないと、言いふらされたとしても誰も信じないでしょう?」

信用されてるのか信用されてないのかよく分からない発言だ。

またむくれていると、アイツは微笑んだ。

「でも、君はそんなことをする人じゃないでしょう?だから心配ありません。」

これだから怒れないのだ。

欲しいときに欲しい返事が来る。

突き放すには惜しい心地よさ。

俺はわざとらしくため息をしてみせた。

「確かに、本物を見てみねぇと信じるヤツなんていないよな。」

「目の前にいても信じない人間もざらにいますけどね。君なんてすぐに信じるからこっちが驚いちゃいましたよ。」

「…あんときは正気じゃなかっただけだ。」

あの時は自分の告白の方にガチガチに緊張して、頭がよく回っていなかった。

「でも、その後も信じてくれてるじゃないですか。」

「それはそれだ。」

「そうですか。」

吸血鬼はふふっと嬉しそうに息を漏らした。目を細めたせいで、長いまつ毛が更に長く見える。

「僕はよく笑うようになったでしょう。」

また唐突に話題が変わった。

それはさっきちょうど考えていたことだ。

俺が頷くと、アイツの目が少しだけ弱々しくなった。

ふせられた目は艶を持ち、まつ毛が細かく震えている。

「あまり言いたくありませんが、君の性癖を知ってからわざとそうしている節があります。相手に好かれるように。取り入れるように。勝手に頭と体がそう動いてしまうんです。教え込まれるとはそういうことです。呆れるでしょう。」

「そんなことねぇよ。」

自虐気味に言う吸血鬼を俺はすぐに否定した。

「にらまれたり、無表情になられるよりか何倍もまし。むしろ、俺は感謝すべきだろ。取り入れられたおかげでタダ飯食えるし、アンタの目をいくらでも見れるし。」

「そう言っていただけると助かります。」

そしてまた嬉しそうにする。

これが演技だと言われたばかりなのに、俺には自然な行動に見える。でも、体や表情といった表面的な感情の起伏はあっても、目の奥の、本当の感情があまり動かないのを、俺は知っている。今だって俺の言葉を社交辞令と思っているに違いない。

きっとコイツは自分を肯定して欲しいと言いながら、それを心から信じられないのだ。何となくそう思った。物心つく前から教育を受け、有無を言わさず吸血鬼として生きるために過ごしてきたコイツは、きっとまだ臆病な子どもなんだ。そう思うと少しだけ、コイツが自分に近い存在に思える。自分の心を隠すのが上手くなっただけの大きな子ども。だから、他人との距離も、普通がどういうことなのかも、分からない。だってそれは、友達や仲間と協力したり、ケンカしたり、そういった純粋な関わりの中で学ぶことだから。俺にも足りないことではあるが、コイツよりはマシなはずだ。

マニュアル人間。

いや、マニュアル吸血鬼。

完璧ゆえに脆い。

失敗を知らない。

あまりにも自由がない。

正しいことしか分からない。

正しいことしかしない。

正しいことしか考えられない。

そうすることでしか過ごすことができない。

その『正しい』ということを決めたのは人間だ。

だが、人間の世界の中での『正しさ』は本当に正しいと言えるのか。

コイツら吸血鬼との折衷案は、本当にお互いを幸せに導くものなのか。

俺は吸血鬼の存在を知ってまだ1年も経っていない。しかも俺はコイツ以外の吸血鬼を見たことがない。だからこれらに疑問に思ったとしても口を出していいこととは思えなかった。

「何か、他に聞きたいことはありますか?」

今の吸血鬼の目には力がない。いつもは何もかもを知っている、自信しかないような態度なのに、今だけは俺に弱みを見せている。その事実が、俺を安心させた。


《なぜなら、目の前の男が、昔の自分に重なったからだ》


「俺ら、やっぱり似てるかもな。」

「突然どうしたんです?」

眉間にしわを寄せる吸血鬼は、俺の発言にはついて来れていない。

いつもリードされてばかりの俺が、逆にリードできたような気がして小さく吹きだしてしまった。

「笑ってても分かりませんよ。」

「いや。すまん。」

「何だか気になりますね…。」

そのままじっと見つめ返されたが、今度はさっきよりも穏やかな表情になっていた。

「吸血鬼についてはだいたい分かった。今日はこれ以上説明されても覚えらんねぇと思うから、もういいわ。ありがとな。」

「分かりました。」

了承を確認してから、俺はようやくワインに口を付けた。コイツの言っていた通り、味は薄く、アルコールは香る程度にしか入っていない。それでも自然な甘みは好みだった。

その間も食い入るような瞳にさらされ、背筋に何かが走る。それにアルコールも手伝って、俺の心は妙な高揚感に包まれた。

俺はそれでまた、決心をした。

「なぁ…。」

「はい。」

「今日はアンタについて色々教えてもらったし、今度は俺のこと、聞いてくんねぇかな。」

そう告げると、吸血鬼は興味を持ったようだった。

「何ですか?」

「俺が、目を見るようになったきっかけと、その末路っつうか…。」

目がほんの少し見開かれる。

それでも即座に出てきたのは、俺を心配する言葉だった。

「話して大丈夫なんですか?今まで話さなかったということは、そんなにいい思い出でもないんでしょう?」

なんでコイツは何でもお見通しなんだろう。それがムカつくと思う時もあれば、もどかしく感じる時もある。今は後者だった。

なんでコイツはそこまで分かっていて、俺の過去のことを知らないのだろう。

何故、もっと早く話さなかったのだろう。

そんな思いが俺の中でぐるぐる回る。

だから話したかった。

「そうだな。あんまり思い出したいもんじゃない。」

俺の人生が狂った瞬間。それははっきりと記憶にこびりついている。

その傷は今もなおじくじくと疼き、俺を縛っている。

でも―――

「でも、これがなかったら、きっとアンタと出会ってないから。」

コイツに会わなかったら、俺は解放されていなかったから。

抱えることしか知らない俺に、寄り添うことを教えてもらった。

「だから、知ってほしいんだ。俺のこと。俺の、この性癖のこと。」

コイツの人生からしたら、俺の過去の傷なんてどうってことないことだろう。

でも、それでも知ってほしい。何かで繋がっていたい。

この関係に名前は付けられなくても、関係を強く深くしていきたい。

だから知りたい。知られたい。

そう思うのはおかしいことだろうか。

不安になる俺をよそに、アイツは優しく微笑んだ。

目はきれいな三日月形になった。

「君が聞いてほしいならいくらでも聞きますよ。僕らはそういう関係でしょう?」

こういう時ばかりはコイツの落ち着いている態度に助けられる。

意地を張らず、話すことができる気がする。

たった何ヶ月かの付き合いしかないはずなのに、俺は完全に心を許してしまっている。

これも、コイツによって誘導された結果なのかもしれない。

それでも、これは、今、俺が、コイツにしたい事だ。

その事実は変わらない。

だから話すんだ。

話せるんだ。

「ありがとう。」

俺は同意の意味も込めて、感謝の言葉を口にした。

こうして俺の2回目の告白が始まった。

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