「オイシイ関係」2

オイシイ関係2-1

 始めに言っておくが、あの吸血鬼は勘違いをしている。俺が初めてアイツを見たのは、仕事帰りの駅のホームだった。いつも並ぶ2号車4番目のドア前。普段は並んでいる他人になんて興味はなかったが、アイツはあまりにも目立っていた。

(うっわぁ…。すっげぇな…。)

そう思った原因は色々ある。

まず190cm近い長身。日本人男性の平均身長は170cm前後だというのに頭1つ抜き出ている。しかも均整の取れた8頭身。加えて横からでも分かる端正な顔立ち。髪型がオールバックのおかげで顔のパーツがよく映える。見れば見るほど分からない年齢不詳感はミステリアスと形容すればいいのだろうか。肌は繊細で透き通るような白。スーツの上からでも分かるがっしりとした骨格と筋肉。身に着けているのは、俺が買うことはおろか着ることもないだろう高品質の黒スーツ。それをそつなく着こなし、身じろぎひとつしない姿勢。遠巻きに自分を見る人々をものともしない態度。その威圧的ともとれる迫力のせいか、男の周りには不自然な空間ができていた。それでいて彼を見ない者はいない。彼は良くも悪くも目立っている。

通りすがる女性は彼を見ると頬を染めながら足早に通り過ぎていく。男性はそれを面白くなさそうに観察しているか、女性と同じく見惚れている。性別も年も身長も何もかも違う鑑賞者たちは、それだけが共通していた。

恐ろしいほどに美しいこの男には、逆らってはいけないと思わせる何かがある。

どちらにせよ、遠目から見てもこれが異様な状況であることは明白だった。

以上の理由から、その男はどうしようもなく目立っていた。

それがアイツだった。

(なんだこれ…。)

俺はそれら異様な空間と異様な対応をする人々を見て、顔をしかめた。

しかし、会社勤めになって早数年。俺が入社当初から一度として変えたことがない乗車口を、今日にかぎって変える理由にはならない。その場所が降りる駅で階段の目の前だから都合がいいということもあったが、それよりも「俺の方がアイツよりもここを長く使ってるんだから…」というよく分からないプライドを盾に、俺はその異質な空間に近づいていった。そして件の男の斜め後ろに並ぶ。すると周囲がざわついた。

(ほっとけ野次馬。)

という思いを込めてにらむが、伝わってないようで、皆ニヤニヤしながら仲間と笑い合っている。

「2列整列が当たり前だから」とそのまま前進し、意地になって男の真横に並んだ。威圧感に負けそうになるも、ぐっとこらえて背筋を伸ばす。電車が来るのを確認するふりをして、その横顔を観察した。試しに咳払いをしてみたが、眉ひとつ動かす様子がない。その代わりに、鑑賞者の一部から冷やかしの口笛が聞こえた。そこで、目立たない人間が目立つ人間の側にいるとどちらも注目対象になることに気づく。

(くっそぅ…。そこはいつも俺が並ぶ場所なのに…。ちょっとくらいこっちを気にしろよ新参者!)

心の中で文句を垂れるが、それは相手に聞こえるわけもなく、状況が変わるわけもない。だが、お前には全く興味がないと言われているようでなんだか悔しかった。

(何やってんだ俺……。)

意味もなく男をねめつけると、だんだん情けなくなってきた。ずっしりと重いのは歩き詰めの足だけではない。何もしていないのにプライドとか、威厳とか、その他もろもろがズタズタだ。たった少し彼を見ていただけで男…というより人間として負けたような気がした。人生の勝ち組とは彼のような人を言うのだろう。ひと目見ただけで頭のキレるヤツだと分かる。優れた容姿、オーラ、そして金を兼ね備えていると連想させる男。それが今、目の前に存在している。俗にいう玉の輿だ。それなのにこの男はどうしてこんなにも気難しい顔で電車を待っているのだろうか。なにか不満でもあるのだろうか。これ以上に望むものがあるのだろうか。

(あったとしても、俺には想像もつかないようなことだろうけどな。)

平々凡々な自分の人生に比べたら、もっと高尚なことで悩んでいるに違いない。自分のように財布の中身を振り返りながら、今月をいかにしてしのぐか…なんて考えていることだけはないだろう。今日だって散々営業に駆り出された挙句に残業。そして疲労で上手く回らなくなってしまった思考をスーパーの弁当半額セールに向けているような男は、このホーム上でも俺だけかもしれない。

他のヤツらは帰れば温かい家があって、恋人や家族がいて、すでに食事や風呂が用意されていて、ねぎらいの言葉を受けながら、次の仕事の活力を得るのだ。1人暮らしだったって友達と連絡を取ったり、ペットと遊んだり、週末の活用方法について考えたりする。趣味に没頭する人だっているだろう。とんだ偏見だと罵られそうだが、俺には誰もいない北向きの冷たいボロアパートの部屋しかないのだから仕方ない。ちょっとくらいひがんだっていいだろう。

目を見るのが好きという奇妙な性癖のせいでトラブルを起こし、軽い人間不信に陥っていた俺は、表面上の友達はできても、普段から連絡を取れるような人を作ることができなかった。惨劇を繰り返さないように、自分の性癖を隠し続けてきたから当たり前ではある。気を遣う相手がいないから1人の方が楽なのだ。しかしそれ故に今は孤独である。

悲しきかな悲しきかな…。

心が折れそうになって、俺は思考をシャットダウンした。恵まれた他人のことを思ったって自分の状況が変わるわけではない。それに、今の自分が誰かと一緒に過ごすことができるとは思えなかった。

(考えるだけ無駄だ。)

こんなことで勝手にみじめになっているようじゃ、それこそ自分が負け犬だと認めているようなものじゃないか。バカらしい。過去ばかり振り返ったって何も起きやしない。時間の無駄だってもんだ。

そうだ。世の中にはもっと不幸なヤツがいる。食べる物がなく、家さえ持たず、絶望しているヤツが。俺の想像するより、ずっと過酷な環境に置かれているヤツがたくさんいる。それこそ大勢の人が何かしら問題を抱えている。それに比べたら自分は食べるものがあって、一応住む場所があって、仕事があるだけましってもんだ。そうだそうだ。俺だって恵まれてるんだ。

無理矢理自分を幸せ者にしてみる。

でもそうしてみて分かったのは、上には上がいるということと、自分より苦労している人たちを見下す自分の愚かさだけだった。

(自分で自分を追い込んでどうするよ…。)

ただでさえ仕事で疲れていた体と精神はさらに疲弊するばかりだ。

犬のように首を振り、嫌な考えをどこかへ追いやってみる。

(今度は幸せなことを考えよう…。嫌なことばかり考えてちゃそれこそ鬱になっちまう。)

そう決めてから、もう1度隣に立つ男を横目で確認する。

俺は人の目を見るのが特に好きだ。動物の目も嫌いではないが、人間の目の白と黒のコントラスト具合とか、言葉や感情に合わせて動く様子とか、そういったものにどうしようもなく惹かれてしまう。

それは今日も例外ではなかった。

男の目に、視線が引き寄せられていく。

切れ長の目は狐を思わせるが、キツさはなく、育ちの良さをうかがわせる。

瞳の色は漆のように品のある濡れた黒。

白目も瀬戸物を思い起こさせる、青みがかった綺麗な白。

黒と白の比率も絶妙だ。

瞼の厚さは奥二重であることもあってほりがある。

それでも分かる長いまつ毛はどれも綺麗に整列していて、ゆっくりと瞬きする度に艶めいた。

その優れた容姿と相まって精巧に作られた人形のようだと思った。

いくら見ていても飽きない。むしろずっと見ていたい。

最近目を長時間観察したのは、せいぜい上司の説教中ぐらいだ。しかもあのおっさんの目はいつも濁っているし、まつ毛もまばら。せめて目ヤニくらいとってほしいものだ。見ていて気持ちのいいものではない。ちなみに説教の内容は『お前は愛想がない。そうやって人を睨み付けてばかりでは客も契約も寄っては来ない』という感じだ。要約すればひと言で終わりそうな説教は、少なくとも15分は続く。目つきや視線を指摘されないために仕事中は伊達眼鏡を掛けているが、俺の目つきに文句をつけてくるヤツは多い。仕事をちゃんとこなしていても、相手にとっては相当嫌な人物に見えるらしい。自分が無意識に客の目を凝視してしまうのは分かってはいるが、もう癖になってしまっていて、自分ではどうしようもなかった。といってもこの上司の場合は、自分の部署の売り上げの落ち度を俺に押し付けているだけとしか思えないが。

『以後、気を付けます。』

そう言ってわざと不機嫌そうに睨むと、小心者の上司は少しひるむ。

『わ…分かってるならいいんだよ。うん。』

そう言いながらさっきまで怒りで血走っていた目をたちまち縮こめて、視線はあらぬ方へと移動する。それを内心「ざまぁみろ」と思いながら一礼し、仕事に戻る。一応反省はしている。だが、いくら反省したところで状況は変わらず、小言が週に1回のペースで繰り返されるのだからたまったものではない。こんなことなら接客をしないような部署に異動させればいいのに。それか、いっそのこと目の整形手術でもした方が解決するかもしれない。まぁ考えたところでそんな金はないが。

思考を現在に戻し、目の前の浮世離れした男を見る。

(こういうヤツが上司だったら…)

できる上司というのは誰もが憧れるものだが、俺は目的がちょっと違う。

毎日その綺麗な目を見ることができたなら説教なんていくらでも受けるし、その目を真っ直ぐ見続ける。きっと業績だって上がる。少なくとも、あの使えない上司についているよりはモチベーションが上がるだろう。でも、そうしたら説教を受けられなくなるだろうか。それならちょっとサボろう。

(いや…高望みはしない主義だ。)

自分の中でそう折り合いをつけて、また思考を止める。昔からの癖で、ひとつのことに対して勝手に思考が膨らんでいってしまう。そうして1人で考え込んでいるうちに周りに置いて行かれることもしばしば。でも熟考することで見えてくることもあるはずだ。

たぶん。

ポーンポーンと電子音が鳴った。電車の来る合図である。

ゴウゴウと音を立てながら電車がホームへ入ってきて、ゆっくりと扉が開いた。俺と黒スーツの男は電車から降りてくる客のため、それぞれドアの横に分かれる。車内から吐き出される人、そしてまた吸い込まれる人。それらの人々は、明らかに俺ではなく反対側の黒スーツの男を見ている。俺は幽霊かドラマのエキストラにでもなった気分だった。そこにいるのに、誰からも認識されない存在。

(エキストラだったらそこにいるだけで金がもらえるから、苦労しねぇのにな。)

またも人としての価値を比べられたような気がして、俺は足早に車内に足を踏み入れた。

運よく席が空いていたので端の席に座る。暖房が程よく入ったあたたかなイス。その上で深く息を吐くと、体がズシリと重くなったような気がした。突如として眠気が襲ってくる。瞼を降ろせば、自分の足がじんじんと熱をもっていることが分かった。

先ほどの色男はどこへ行ったのか、とずり落ちた伊達眼鏡を掛け直すと、目の前に高そうな黒いスーツが見えた。

(まさか…。)

そのまさか。座っている自分の前に、先ほど横に並んでいた男が立っていた。長身のせいで吊革が吊るしてある鉄棒に頭を打ち付けそうだが、生真面目に吊革に掴まっている。視線は窓の外にあった。

(おいおい。まじかよ…。)

せっかく自分のコンプレックスの具現化のような男から逃げてきたのに、今度は文字通り向き合うことになってしまった。こんなことなら他の乗車口から乗ればよかった。数分前の自分に忠告してやりたいが、今さら後悔しても遅い。「後悔先に立たず」ってやつだ。

向かいに座る乗客たちを見ると、やはり黒スーツの男に見惚れていた。中年の男性はもの珍しそうな顔をしているし、若い女性は疲れた顔に慌てて化粧をし始める始末。

(そんな必死に取り繕ったって、どうせコイツは見やしねぇよ…。)

心の中の忠告など聞こえるはずもなく、女性は疲れ切った肌に上手くのらないファンデーションと格闘していた。電車が揺れて、塗ろうとしていた口紅の位置がずれたのはなんだか滑稽だった。

必死になっている人間の目は好きだ。何より純粋にきれいだと思える。なりふり構わず何かに必死になっているとき、本人の考えてることは全てその目に表れる。考えてる事が分かるのは、俺にとってありがたいことだ。色々とトラウマを抱えている俺が、安心して相手と接することができる瞬間とも言える。

学生の頃は良かった。大体のやつが必死に生きていた。勉強にしろ、部活にしろ、恋愛にしろ、みんな何かしらに一生懸命だった。

それに対して大人はつまらない。必死になる瞬間なんてほとんどない。

うきうきと会社に行く大人なんて見たことない。

家に帰る時でさえ、表情は無いに等しい。

電車に乗っている大人は特に嫌いだ。大抵は疲れた顔で虚空を見つめているか、スマートフォンをいじるか、本を読んでいるか、はたまた眉間にしわを寄せながら寝ているか。

こんな大人になんてなりたくなかった。こんなことをしたくない。なんでこうなってしまったんだ。もう色々なことに疲れてしまった。

目と体がそう訴えている。

必死になることなんて諦めてしまっている。

楽ができればいい。

他人に指摘されなければいい。

どうせ自分が出しゃばったところで何も変わらない。

そんなことを考えている奴ばかり。

他人に批判的。

自分に肯定的。

そんな奴らが生み出すのは、重くて暗い不快な雰囲気だけだ。だいたい一緒にいたところで、嫌な印象しか与えない。

そういう大人たちに対して、目の前にいる男は稀有な存在だった。

彼を見る人々に、不快な感情を抱いた人間は今のところ見当たらなかった。

世の中全ての人が、彼のような人だったらいいのに。

この短時間の間に、俺は目の前の男に対してそこまで思えるようになっていた。

彼の視線は、未だに窓の外の漆黒の世界へ注がれている。

これなら俺が彼を見ていたって気づかない。

俺は正面からじっとその目を見つめた。

彼も疲れているのだろう。目の下にはうっすらとクマができている。

眼精疲労のせいで瞳は潤み、目の縁が少し赤い。

瞼が降ろされる度、湿り気を取り戻す目。

そこに映される外の明かりと、窓に映る自らの影。

それらが妙な色気を放っている。

これが大人の色気というやつだろうか。

映画のワンシーンのようだった。

(俺まで見惚れてどうするんだよ。)

半開きになっていた口と思考を律する。あまり見つめ続けても失礼だ。

気をそらすためにカバンを漁ると、1枚だけクッキーがあった。

(そういや出張土産にもらったんだったな……。)

大量の書類に挟まれていたせいで、かなり割れてしまっていたが、かろうじて丸い形を保っている。袋を開けると、甘ったるいバターの香りがした。

(なんで観光地ってこういういかにも安そうな甘味を提供すんだ?しかもみんな同じような味で。パッケージ取ったらどこにでもあるような砂糖菓子じゃねぇか。ってか地方まで出張行って、なんでクッキー買ってくるんだよ。もっとそこの特産品とかあんだろ。しかも大量に買うからろくなもんじゃねぇし。そんなに金があるなら、そのまま現金を配ってほしいもんだね。)

心の中で悪態をつきながらさっさとクッキーという形をした社交辞令を処理する。爪1枚くらいまで砕けたクッキーは、口に入れたとたんになくなってしまった。あまり甘味が得意ではない俺でも分かる、安物の味だ。

(上司には上等なもん渡すくせに…。)

たしか俺たち下っ端とは別に、しっかり箱に入ったものをもらっていた。中身は俺が食べたクッキー100枚の値段より高いとみた。つくづく人間…というか、会社という枠組みが面倒くさい。結局はこういったものも自分の株をあげる道具なのだ。

クッキーのカスを落とさないよう、ひとつ、またひとつとかけらを口に運んでいると、ふと視線を感じた。反射的に体がこわばる。

(なんだ…?)

恐る恐る顔をあげると、先ほどまで見惚れていた男の瞳と対面した。

その衝撃で息が止まる。

さっきまで憂いばかりたたえていたその目からは、間違いなく激しい感情があふれていた。

ヤバい。

本能的にそう悟った。

体が思うように動かない。

蛇ににらまれた蛙とはこういうことをいうのか。

何かを激しく求める、渇望したような目に射抜かれている。

少しでも動けば、切れてしまいそうなほどの緊張感。

息ができず苦しいはずなのに、ぎこちなくしか動かない肺。

背筋がゾクゾクする感覚に、脳がとろけてしまいそうだ。

俺が視線を外すことができずにいると、男はにこりと笑いかけてきた。

「ついてますよ?」

そう言いながら、己の薄い唇の横を指す。初めて聞いた彼の声は心地よい高めのテノールだ。そこで緊張が一気に解け、俺はようやく息を吸い込む。

「へ…?」

突然の出来事に間抜けな声を出すと、もう一度トントンと唇を指された。ようやく言われている意味に気付き、唇を拭うが手には何もついていない。首をかしげていると、男の白い手が伸びてきた。

「失礼。」

口元を優しく、ゆっくり払われる。骨ばった手はひんやりとしていた。そうして離れていった男の手には、俺の口についていたらしいクッキーのカスがついている。

「あ…あり…がと…う……ござい…ます……。」

「いえ…。」

かろうじて動く声帯からお礼の言葉を絞り出すと、男はまたにこりと笑った。それを見ていたら、さっきまでぎこちなく動いていた心臓が激しく鼓動する。女みたいな扱いをされたことが恥ずかしかったから、というわけではない。明らかに自分はそれとは違う感情を抱いていた。

(これは、マジでヤバい――!)

電車が止まった。ギクリと外を見やれば、自分の降りる駅である。

「おっ…降ります!」

男の横をすり抜けるようにして、慌てて電車から降りた。反射的に振り向くと、あの男と窓越しにまた目が合う。小さく手を振られ、それにぎこちなく会釈する。そしてその場から逃げ出すように階段を駆け下り、改札へ向かった。

その後も心臓は激しく動きっぱなしで、俺は衝動のままに家まで走った。

映画やドラマの中に突然出演させられたような異常な緊張感。

白昼夢でも見たようなふわふわとした感覚。

初めて味わった類の恐怖。

そして―――。

(アイツの目…。)

はぁっと息を吐く。

その吐息は熱く、重く、そして―――甘い。

(あんな目…初めて見た。)

自分が求めていた、理想の形があった。

漆黒の瞳。

整ったまつ毛と、切れ長の目。

軽く見開かれた後、うっとりするように垂れた目尻。

こちらを食らうような危険をはらんだ目線。

溢れる妖艶なオーラ。

一瞬の出来事だったが、明らかに自分はあの光景に見惚れ、見入り、興奮していた。

まるで、目の魅力に初めて気が付いた、あの時のように。


美しいバラには棘があるらしい。

バラを手に入れるにはその棘ごと愛す必要がある。

手に入れ難いからこそ、人はバラに魅せられる。

あの男の美しさがバラの花ならば、棘はあの目だ。

俺はあの目に刺されてしまったのだ。

だからその痛みのせいであの美しさを忘れられないのだ。

そのことを俺は身をもって思い知った。


そしてあの居酒屋で奇跡ともいえる再会を果たすまで、俺はアイツの棘が忘れられなかったのだった。


○ ○ ○


 あの衝撃的な初対面はもう2年も前の話だ。あの時の自分はアイツとの再会と、己の性癖の告白と、度肝を抜く返答を想像できただろうか。

そしてその告白からも半年。あの吸血鬼男とは、もう8か月も一緒にいることになる。なんら問題なく続いているこの奇妙な関係は、例の告白以来さらに深くなったような気がする。昔から友達をうまく作れなかった俺に初めてできた『親しい友人』。それは嬉しいような、こそばゆいような、言葉にしがたい感覚だった。確かに言えることは、アイツと過ごす時間は何とも心地が良いということだ。

(この辺でいいか。)

今日もメールで指定された時間に到着する。場所は俺の勤める会社の最寄り駅だ。待ち合わせによく使われる時計塔の前。冬晴れの抜けるような青空の下、俺はコートとマフラーを身につけているというのにカタカタ震えていた。

「さみぃな…。」

そうつぶやくと、ひとこと分の白い蒸気が上がる。

今日はアイツの会社は休み。俺は午後に会社へ掃除業者が入るとかで午前上がり。昼間からお互いが休みなのも珍しいので、昼飯と夕飯を一緒にとろうという話になっている。

アイツは毎回行く店について何も教えてくれない。待ち合わせ時間と場所だけがメールで届く。いくら店について聞いても『行ってからのお楽しみです。』というそっけない返事が来るだけだ。店の名前を知っていたらしり込みするような高い店に連れて行かれることが多々あり、俺としては到着するまで気が気じゃない。アイツの厚意と良質な料理にありつけることは嬉しいが、それよりも未知の世界へ立ち入ることと、その値段に対する恐ろしさの方が先に立つ。かたやモデル顔負けのやり手美人と、よれよれのスーツを着た平凡なサラリーマンという組み合わせは目立つものだし、あまり格式高い店は俺が完全に場違いだ。だからと言ってそれを理由に抗議しても必ず丸め込まれる。

『気にすることなんてないですよ?予約してあるのは個室ですからテーブルマナーは不要です。それに僕の取引している店ばかりですから、どんな格好でも追い出されることはありません。あなたは心置きなくディナーを楽しむだけでいいんです。僕もそれが楽しみなんですから。』

こういうところが年下扱いされているようでムカつく。実際に向こうが2つ上だが、大の大人相手に過保護すぎるのだ。貧乏人の俺が大真面目にディナーなんて言われたのはコイツが初めてだし、個室という言葉が入っている時点でその辺のファミレスやファストフードではないことは分かる。

しかもこれがとろけるような笑顔とセットである。女ならドキドキするようなシチュエーションなんだろうが、男の俺にとってはただただ心労でしかない。恥ずかしいを通り越して呆れる。

(プレイボーイってこういうやつのことだろうな。…いや、たらしの間違いか。)

言い返しても歯が立たないため、ひたすら聞き流すしかない。

初めて会ったときもそうだったが、コイツは他人に接触する癖でもついてしまっているのだと思う。服についたごみは取ってくれるし、イスを引いてくれたり、食べカスを拭ってくれたり、目があったら微笑んだり、歩くときは短足の俺に歩を合わせる。それでいてしっかりと距離をとり、馴れなれしい感じはしない。その姿たるやどこのよくできた紳士かと問いただしたくなるくらいだ。そのくせ食事中は邪魔したくないとかで俺がスープをこぼそうが、口をソースだらけにしようが接触はしてこない。実に楽しそうに俺を見ている。普段は恐ろしく頭が切れるし、大人な対応をするのだが、ふとした瞬間にこういった子供のような行動をする。そこが唯一の弱点かもしれない。

(そう思うと可愛いもんなんだけどな…。)

俺と食事するアイツは、新しいおもちゃを与えられた子どもみたいに生き生きしている。自分は何も頼まないくせに、とても満足そうにする。それを見ていると、黒目がちの瞳にそのまま吸い込まれそうになる。それが自分に向けられているだけでゾクゾクする。

俺は首に巻いたマフラーに顔をうずめ、笑った口元を隠した。何もないところで笑っていたら変に思われてしまう。そうはいっても俺を気にする通行人は1人もいないのもまた事実。でも、それが残念でもある。他人の目を人一倍気にするくせに、その目を見たい。我ながら、何ともおかしな性癖を持ったものだと苦笑せざるをおえない。

(理想に会っちまったら、見るだけで満足すると思ってたけど…。)

あの狙うような、射抜くような、アイツの目を思い出し、生唾を飲む。

(どんどん欲しくなる…。)

アイツとの関係は、お互いの利害の一致によって成立しているものだ。だから毎回食事に付き合わされているし、付き合っているし、付き合ってもらっている。アイツもあの告白の時、俺のことを『理想』だと言った。俺のことを求めてくれている、ということを知った。今もなお、そう思ってくれているのかは分からないが、それは自分と同じ感情なのだろうか。

(女々しい。ガキじゃねぇんだから…。)

親からの愛に飢える子ども?

否、他人からの愛に飢える大人?

大人である自分が同じだけの気持ちを求める姿勢は、恋慕にも似ているかもしれない。しかし、自分は彼に恋愛の感情を抱いているわけではない。感覚的にはもっと深い。底なし沼のような深み。互いが『理想』だという自信。そんな求め合う気持ちに、果たして名前を付けることはできるのだろうか。少なくとも、今はその言葉を持ち合わせていない。そしてそんな定まり切らない、ふわふわとした感覚が嬉しくもあった。

ふと時刻を見ると、待ち合わせの時間はとっくに過ぎていた。

(遅ぇな…。)

いつもはあっちが先に待っているか、時間ぴったりには登場するはずなのに、今日は待ち合わせを15分過ぎても現れない。念のため端末で電車の運行状況を調べてみるが、特にそういった情報は見当たらなかった。

(休みのはずだから仕事ってわけでもないだろうし。アイツの性格からして、寝坊もないな…。)

思いつく理由はどれも当てはまりそうにない。仕事のできるアイツは、いつも時間厳守なのだ。真面目も真面目。近年まれにみるきっちりとした社会人。遅れるにしても何かしら連絡があってもいいだろう。だからこそ、この状況が不吉でならなかった。

(事故…じゃねぇよな…?)

考えたらゾッとした。

(とっ…とりあえずメールを…!)

急に不安になって端末をもう一度作動させると、タイミングのいいことに電話がかかってきた。画面には今まさに連絡を取ろうとしていた男の名前が浮かんでいる。

(電話ってことは電車内じゃねぇのか…?)

とりあえず事故ではないことにホッとながら、通話ボタンを押す。

電話口から飛び出した第一声は、謝罪の言葉だった。

『お待たせしてしまって、すいません。』

「いや。別に俺は大丈夫だけど…。なんかあったか?」 

『僕自身は大丈夫なんですが…。予約していたお店でボヤがあって、今日は営業できないみたいなんです。』

「マジか…。」

こんなことは初めてだった。気の毒なこった。

『まいっちゃいますよねぇ…。』

電話越しに『ははは…』という空笑いが聞こえる。

『それで、他のお店に変更しようと思ったんですが、今日は祝日でしょう?どこもいっぱいでお店の予約ができなかったんです。そのせいで連絡が遅くなってしまって…。』

俺が何も知らず呆けている間に、アイツは色々と動いていたらしい。

ありがたいが、やっぱり先に連絡はしてほしかった。

「なんか、心配して損した。」

『はい?』

「いや、こっちの話。アンタ今どこにいんの?」

『予約してた店からの電話で電車に乗り損ねてしまったので、まだ最寄り駅にいます。』

「じゃあその辺のファミレスにでも…。」

『あぁ…ええと。』

俺の提案に、アイツがちょっと言いよどんだ。何かまずいことを言ったかと首をかしげていると、いつもより緊張気味な声が聞こえてきた。

『あの、嫌だったら遠慮なく言っていただいて結構ですので…。』

「うん?」

彼らしくない、迷いの見える話し方。

『よかったら、僕の部屋に、来ませんか?』

その言い方は、あの焼き鳥屋で会った後、俺を食事に誘った時と似ていた。


○ ○ ○


 指定し直された駅へ移動し、目的の人物と合流するため出口へ向かう。人であふれる中央出口で会えるかは不安だったが、それは杞憂だった。長身の男を遠巻きに見る人々の視線と、不自然にできた空間。そのおかげで、祝日のごった返した人ごみの中でも見つけることは容易だった。

今日のアイツは会社帰りでないせいもあって、いつもよりラフな格好をしている。髪はゆるく下され、白い無地のセーターに黒いズボン、そして黒いトレンチコートを羽織っていた。俺が同じ格好をしたところで似合う気がしないし、ただのフリーターにしか見えまい。それが元の素材がいいと雑誌の撮影風景のように見えてしまうのだから面白いもんだ。布しかり、体しかり、顔しかり。「天は二物を与えず」という言葉をあざ笑うかのように何もかもを持つ男に、何も持っていない俺が勝てるわけもない。

俺が自分の位置を示すために片手をあげると、向こうもこちらに気付いたようだった。

「待たせたな。」

「いえ。こちらこそ、無理を言ってしまって…。」

俺が合流した瞬間、周りにいた女性が何人か移動する。虎さながらの獲物を狙うような目が怖かった。

「アンタが悪いわけじゃねぇんだからそんなに謝んなよ。」

「それもそうですが…。」

しょぼくれているのが珍しくて、こちらが笑ってしまいそうになる。

「ところで、お願いした物は買ってきていただけましたか?」

「おう。買ってきたぜ。最近のコンビニは色んなモン売ってんだな。」

俺はドレッシングと肉まんが入った袋を開けて見せた。

あの電話の時にコイツから買ってくるよう言われたものである。


『うちで食べるならサラダになるので、お好きなドレッシングを買っておいてください。もし小腹が空いているようなら、何か温かいものを買ってもいいですよ。でも、食べるのは僕と合流するまで我慢してくださいね。僕は夕食のレストランを探しながら、駅で待っていますから。』


そうして一方的に電話を切られた。

コンビニのレジ横のホットケースに並ぶ食べ物は、なぜあんなにもいい匂いで空腹を刺激するのか…。

ほかほかでいい匂いのする肉まんを食べずに我慢するのは本当に辛かった。

「僕の家には味をつける物は塩くらいしかありませんし、さすがにそのままドレッシングなしで食べるのはお辛いでしょう?」

「そうだな。アンタは味付けんの嫌いだし、しょうがねぇよ。」

「君はそうでもしないと、サラダを食べきれないと思いますので。」

「いやいや。どんだけ野菜食わせる気だよ。」

「たぶん、君の想像の倍以上だと思いますよ。」

「まじかよ…。」

それを聞くだけでもう胸やけがしてきそうだ。

「まぁさっさと行こうぜ。時間がもったいない。」

口ではそう言ったが、実際にはまたナンパ目的らしき女性が複数寄ってきたから早く移動したかったというのが本音だ。のっぺりとした笑顔を貼り付け、平然を装って近寄ってくる。こういう時の女性ほどしつこくて面倒くさいものはない。さわらぬ神に祟りなしってやつだ。しかも狙いが俺じゃないのは重々分かっている。アウェーになるのが決まっているなら、声を掛けられる前に逃げた方がいい。

大きい背中をバシバシ叩くと、アイツは申し訳なさそうな顔のまま歩き始めた。俺が少し後ろからついて行こうとすると、突然振り向かれる。

「肉まん、食べていいですよ。その代わり、僕の隣に来てください。」

そう言って背中を押し、俺を真横に移動させる。

「お前ってほんっとちゃっかりしてるよな。」

「お腹空いてるでしょう?ほら…。」

手に持っているコンビニの袋を指で広げられると、肉まんの甘い香りが漂ってくる。コイツが食べないことを見越してひとつだけ買ってきたのだが、1つといえどもその魅惑の匂いたるや侮れない。肉まんの美味しそうな匂いに胃が刺激されていたのは確かだが、こんなに早く食べることになるとは思っていなかった。

「遠慮せずどうぞ。」

「しょうがねぇな…。」

促されて、しぶしぶまだ温かい肉まんを袋から取り出す。包みを開けると寒さのせいでできた水滴がポタポタとたれる。底についた紙をゆっくりはがすと、案の上濡れてしまった表面はしおしおになっていた。かまわずかぶりつけば、杏から熱い肉汁があふれてくる。そのまま舌を噛まないように慎重に歩いていると、隣から物憂げなため息が聞こえた。隣に目をやると、恍惚とした表情でこちらを見る色男の姿がある。少し濡れたような瞳が最高で……じゃなくて、コイツは欲望に忠実すぎると思う。

「前向いてねぇと転ぶぞ。」

「君を見ながら転ぶなら本望です。」

「誤解を生むような発言をするんじゃねぇよ。」

「してませんよ。」

「絶対分かっててやってんだろ。」

「そんなことありません。」

いつまでもしらばっくれる友人にむかついたので、残った肉まんはさっさと食べてやった。

それを残念そうにこちらを見てくる目も、なかなかよかった。

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