二十歳

孔田多紀

第1話

 幼馴染だったトモコさんと三年前に結婚した旦那さんのブログを発見した時、コウジロウくんは静かな興奮と戸惑いに包まれました。以来、覗きに訪れるのが朝の儀式となっています。

 二十歳の大学生である彼は電子音で目覚めると、まず枕元に置いてあるスマートフォンのアラームを止め、グーグルアプリを開きます。「ヒビ雑録」と名付けられたブログを訪れます。だいたい、二、三日に一回は更新されていますから、新しい記事が書かれている場合は、そのままベッドの上で読み続けます。話題は音楽とか映画とか漫画とかについてが多いです。プロフィールによれば筆者はごく一般の会社員であるものの、ネット上ではけっこう人気があるみたいで、たまに星とかブックマークとかが一気に何十も記事に付くこともある。そういう日は、コウジロウくんは寝転がったまま身悶えするようです。自分の知らないものをいっぱい知っているし、詳しいし、有名人が自分のブログやTwitterで言及していたりする(文章自体は、コウジロウくんはちょっと面白いかなと感じる程度みたいです)。

 もともと、それがトモコさんの旦那さんのブログだとは思っていなかったのです。ふとしたことから辿り着き、たまに暇つぶしに読むようになって一年ほどした頃、コウジロウくんは「ヒビ雑録」の裏ブログとも呼ぶべき場所を見つけたのです。

 見つけたといっても、きっかけは単純で、「ヒビ雑録」の筆者がブログと連携したTwitterアカウントである日、

「新しいブログを立ち上げました」

 といってアドレスを貼っていた。コウジロウくんがリンク先をクリックすると、「ヒビ雑録」とはかなり雰囲気が違う感じで、日付がそのままタイトルになっている。まだ一回だけだけど、最初の挨拶とか、映画とか音楽とか漫画についての話もなく、ふつうの日記のように日常的な行動記録が(個人が特定できないよう、うまくボカしたかたちで)つけてある。

 そこは毎日更新されるから、コウジロウくんもよく訪れるようになりました。「新しいブログを立ち上げました」ということ以外、特にTwitterでも「ヒビ雑録」でも何も言及がないので、コウジロウくんは、(「ヒビ雑録」が有名になりすぎたから、日記を別にひっそり始めることにしたのだろうか)と思いました。

 それがしだいに別の興味をそそるようになりました。その筆者が近くに住んでいるらしいことは「ヒビ雑録」の頃からうすうす察してはいたのですが、「hibinomemo」(裏日記のことです)では見知った場所がどんどん出てくる。これはもう、お互いの住所はかなり迫っているに違いない。やがて核心的な記述が出てきました。

「三年前に結婚したんだけど、十年前の自分が知ったら驚くだろうな」

 ここを読んで初めて、コウジロウくんはトモコさんのことを連想しました。

 トモコさんは隣の家の一人っ子で、六歳年上です。彼が物心ついた時からお姉さんだったのでよく一緒に遊んでもらいました。周辺に同い年くらいの子供は少なく、互いの家に入り浸ってご飯やおやつをご馳走になることもしょっちゅうでした。

 実家暮らしだった彼女が結婚したのは就職二年目で、コウジロウくんは十七歳で大学受験の年でした。結婚どころか交際している人物がいることもまったく知らなかったため、コウジロウくんは自分で考えていた以上にショックを受けたようです。

 そこで彼は生まれ育った場所から思いきり離れた土地を目指して受験することにしたのですが、失敗し、けっきょく、地元から一時間ほどかけて大学に通うことになりました。

 トモコさんは入籍すると家を出て、旦那さんと近くに部屋を借りて住むようになったとコウジロウくんは母親から聞きました。それで、この二年ほどは彼女の姿を見かけることもなかったのでした。

「hibinomemo」を見つける少し前の、暖かな春の日。コウジロウくんが午後から学校へ行こうと家を出ると、ちょうどトモコさんが向こうからやってくるところでした。

 ――久しぶり。そういえば、もう大学生なんだね。

 ――ウン。……あれ、会社は?

 ――ちょっと今、いろいろあってね。しばらく休むことにしたんだ。

 そう言葉を濁した彼女の顔にふと影が差し、少しやつれているようにコウジロウくんには見えました。

 その夜は、トモコさんのいった「いろいろあって」という言葉の意味が、曖昧なままにドンドンとアメーバ状に膨らんでいきました。そういえば昔からトモコさんにはどこか繊細なところがあった気がする、母親の意見に逆らったことはなかったし、難しいことを誰かに説明しようとすると途端に伝えるのが下手になった、二年目で休職するまでにはきっと何かつらいことがあったに違いない、……。


「三年前に……」の記述からしばらく、その筆者がトモコさんの旦那さんではないかという疑いは刻々と深まってゆきました。

 そして日記を追いかけることが日課となり、さまざまな記述の裏を読み続けて疑いが確信となった頃、「hibinomemo」にさらに気になる言葉が書きこまれました。

「最近、仕事から帰ると夜、周囲を走っている。でも家でいつ何が起こっても良いように、ランニング中もスマホを握りしめたままだと、転んだ時に両手で身体をかばえないから危ない」

 ……いったい急を要するほどの何が、家の中で起こるのだろう。

 コウジロウくんは最後に会った際のトモコさんの顔を思い浮かべました。それは想像の中で、ほとんど絶望的な表情にまで変貌しました。

 一方、「ヒビ雑録」の方は、更新頻度こそ月二、三回にまで落ちましたが、相変わらず音楽とか映画とか漫画とかの話ばかりしている。配偶者の話題などチラとも出てこない。それで以前のように時折、爆発的に読まれたりすることがある。

 夫婦関係はどうなっているのか、とコウジロウくんは訝りました。ともすれば怒りにまで発展しそうでした。トモコさんが暗い顔のまま一日中自室に引きこもり、その夫は仕事から帰宅するなり自分の趣味に興じているというイメージが取り憑いて離れませんでした。

 もちろん、その後も裏日記からは多少、家庭内のことが伝わってきます。「今の時代、女性は何かとたいへんだと思う」「家の中でも配慮が必要になってきた」「将来的な不安がまったく募らないわけではない」。遠雷の響きのような言葉が、いちいちひっかかります。

 考えてみれば、相手の男には一度も会ったことがない。どういう人物なのかも知らない。……実際のところ自分はただ、他人の日記を覗いて妄想を逞しくしているだけではないかしら。そんな反省が湧いてきましたが、すぐに打ち消しました。

 コウジロウくんはそれまで誰かと交際したことはありませんでした。トモコさんにずっと強く片想いしていたというわけでもないのに、そしてその旦那さんがハッキリと恋敵だったというわけでもないのに、十七歳のあの年以来、気持ちの落ち着く場所がないのでした。

 コウジロウくんの一番古い記憶は、四歳のものでした。その瞬間、十歳のトモコさんが目の前にいたという、おぼろげな映像が脳裏にあります。近所の小学校に入ると同時にトモコさんも中学校に進んでいましたので、学校が重なることはありませんでしたが、トモコさんが高校生になる頃あたりまでは実の姉弟のように仲の良い関係が続いていたようです。

 コウジロウくんはトモコさんの家の玄関で初めて黒い制服を見た日を思い出した。ドアを開けると、彼女は座って学校指定の靴を履こうとしているところだった。普段とはまったく違った格好をしている姿に、これから新しい日々が始まるという実感が、彼の全身をしっかりと掴んだ。自分よりも何十センチも大きな中学生の女の子は、そのまま目の前でどんどん大きくなり続け、彼を圧倒した。

 目が覚めると、部屋の蛍光灯がまぶしかった。二十歳の彼はまたスマートフォンに手を伸ばしました。午前三時と表示されています。電気を消して眠り直そうとしましたが、ふと、「hibinomemo」を検索しました。

 白く光る画面に映った、次の一節が彼の意識にひっかかりました。

「とうとう、明日から家人が実家に帰ることになった。一人の生活に戻るんだ……久しぶりに」

 充電器につないだスマートフォンを閉じました。まんじりともしないでいるうち、朝日が部屋へと入りこんできました。

 午後になって自室を抜け、コウジロウくんは母親からトモコさんの詳しい住所を聞きました。昔から互いの家の母親同士、話相手になっていたからです。

 そして家を出て駅へ向って歩き始めてすぐ、赤く色づいた秋の並木道の向こうから、見知らぬ人物に付き添われたトモコさんがやってくるのに気がつきました。

 彼は彼女を見た。

 その視線は、トモコさんの張りつめたお腹の中でまだ胎児だった私にまで突き刺さりました。

 二人の距離が縮まり、彼は何か言葉を発した。


 その時、二十五年後に夫となる男の声を、私は初めて耳にしたのです。


   ※


【参考資料】

モーモールルギャバン「ユキちゃんの遺伝子」

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