『思案』

矢口晃

第1話

 僕は夕食を食べ終わってから、リビングで学校の宿題を考えていた。いろいろな形の図形の面積を計算する算数の宿題だった。でも三問、四問と問題を解いていくうちに、僕はだんだん眠くなってきてしまった。考えていると眠くなるんだなと僕は思った。

 僕は台所で働いていたお母さんと話をして、宿題の残りは明日学校から帰って来たあと、またすることにした。明日は算数の授業はないからそれで平気だと僕は思った。だからお母さんに言われたとおり、今日は早く寝ることにした。

 自分のベッドに入ってから、僕はひとりで考えていた。考えていると、どうして眠くなるんだろう。そうだきっとずっと考えていると頭が疲れてしまうのだ。それで眠くなるんだろう。そう思ったから、僕はなるべく考えないようにしようと考えだした。でも考えないようにしようとすればするほど、僕の頭は「考えないように、考えないように」と考えてしまうのだった。

 このまま考えすぎていると、僕は毎日宿題のたびに眠くなってしまう。何か考えないようにするよい方法はないだろうか。僕は明日、学校でつとむ君に聞いてみようと思った。

「おはよう」

「おはよう」

 学校へ行く途中で、つとむ君に会った。僕たちは毎日一生に学校に行っているのだ。僕はさっそく、昨日考えたことをつとむ君に聞いてみることにした。

「ねえつとむ君、考えないようにするには、いったいどうすればいいかな?」

「え? 考えないようにって?」

 つとむ君はくりくりした丸い目を僕に向けて言った。

「うん。実はね、僕は毎日、いろんなことを考え過ぎているみたいなんだ。それで頭がつかれてしまって、ご飯を食べ終わって宿題をする頃にはすっかり眠くなっちゃんだよ。だから、普段はなるべく考えないようにして、勉強のときだけ考えるようにすればいいんじゃないかって思うんだけど、どうすれば考えなくなるのか、考えてもわからないんだ」

 つとむ君は黙ったまましばらく歩いて、十歩目くらいの時にいきなり僕に言った。

「寝ちゃえばいいんじゃない? 寝ている間は、何にも考えてないでしょう?」

「うん。そうだけど……」

 毎日寝てばかりいちゃ宿題が終わらないじゃないかと思ったけど、それを言ったら何となくけんかになってしまいそうな気がしたので、僕は言わなかった。

 学校についたら、ホームルームが始まるまで僕たちは公邸でドッジボールをした。僕は考えないことを考えるのに忙しくて、何度も球に当たってしまった。

 一時間目は国語のだった。でも僕の頭はやっぱり考えないことを考えるのに夢中で、あまり授業に集中できなかった。授業の途中で、突然先生が僕を指した。

「岡田君、続きを読んでください」

 そう先生に言われて、僕はあたふたしてしまった。続きをと言われても、僕は前の人がどこまで読んだのかちっとも聞いていなかったからだ。

 いつまでも読み始めない僕に、先生はいらいらしているようだった。

「どうしたの? 続きを読みなさい」

 四十を過ぎたおばさん先生の目が次第に吊り上ってくるのが僕にはわかった。

「先生、すみません」

 僕は恐る恐る席を立ちながら言った。

「続きがわかりません」

 それを聞いて、先生の目は完全に三角になってしまった。

「授業に集中しないから、そういうことになるんです」

 そのまま僕は飛ばされて、次の人が代りに僕の所を読んでくれた。

 二時間目の理科が終わって、三時間目の図工が始まっても、僕の勉強に身の入らないのは前と変わらなかった。僕は考えないようにすりことばかり考えていて、先生の説明も全然耳に入らなかった。だから先生が、

「では、始めて下さい」

 と言ったあとも、いったい何を使って何を作ればいいのかわからなかった。

 しばらくは周りの人のやり方を見ながら何とかごまかそうとしていたけれど、あまり手元がぎこちなかったせいか、とうとう先生に怪しまれてしまった。

「岡田君、どうしたの?」

 図工の高取先生は担任のおばさん先生と違ってとても温厚な男の先生だ。高取先生なら言っても起らないだろうと思って、僕は今日ずっと考えていることを打ち明けることにした。

「先生、先生は何にも考えていない時ってありますか?」

 僕がそう言うと、先生は顔を曇らせた。

「岡田君、何が言いたいのかな?」

「先生、僕はいつもいろいろなことを考えすぎるせいで、頭が疲れてしまうんです。だからなるべく考えないようにしたいんでんすが、その方法がわからないので、それを考えているんです」

「何を言っているんだ、君は」

 あのおとなしい高取先生が突然厳しい口調でそう言ったので、僕はびっくりして目をきょとんとさせた。

「考えたくないのなら、授業など受けなくてよろしい!」

 僕が先生に叱られたので、教室中がしんと静まり返ってしまった。僕は何だか決まりが悪くて、泣き出したくなってしまった。

 今日は散々だったなあと思いながら家に帰ると、リビングでお母さんが頬杖を突きながら一人でテレビを見ていた。

「ただいま」

 僕がそう言うと、

「お帰り」

 と小さな声で言った。

 僕はお母さんにもあの事を聞いてみることにした。

「お母さん、今何を考えていたの?」

「え? 何って?」

 お母さんは、僕に意外そうな顔を向けて言った。僕はもう一度同じことを聞き直した。

「今、何を考えていたの?」

「何って、別に何も考えてはいないわよ」

「え? 何も考えてなかったの?」

 僕はびっくりして思わず大きな声を出した。お母さんはそんな僕のことを不思議そうな目をして見つめていた。

「ねえお母さん、何も考えないようにするには、どうしたらいいの?」

「どうしたらって?」

「だからさ、何も考えていない時、お母さんはいったい何をしているの?」

「何って言ってもねえ……。ただぼけっとしているのよ」

「そのぼけっとする方法を、僕にも教えてよ」

「あんた、何言ってるの?」

「あのね、何も考えずに、僕もぼけっとしてみたいんだよ」

 その時、

「プルルルル、プルルルル」

 と家の電話が鳴りだしたので、お母さんは僕と話をするのをやめて電話にでた。それから何度もお辞儀をしながら電話の向こうの人と話をしていた。何だかいつもよりひそひそとした声で、時々僕の方をちらちらうかがっているようなのが気になった。それでも僕はなるべく知らんぷりをして、お母さんが点けっ放しにしていたテレビのチャンネルをいろいろ変えてみたりした。でも、夕方前のこの時間のテレビは、見たいと思うチャンネルは一つもなかった。

(早く電話が終わればいいのに)

 僕はそんなことを考えながら、そう言えば昨日算数の宿題を途中でやり残していたことに気がついて、ご飯までにそれを終わらしてしまうと思った。

 僕が部屋に教科書とノートを取りに行こうとリビングの椅子を立ちかけた時、お母さんの電話が終わった。お母さんは電話を切ると僕の顔を見ながら、

「あはははは」

 とお腹を抱えて笑いだした。突然のことで、僕はびっくりしたままその場に立ち尽くしていた。

 するとお母さんは笑い声を交えながら、僕に向かってこう言った。

「今、学校の先生から電話があったわよ」

「え? 学校の先生から?」

 何か悪いことでもしただろうか。そんなはずはないと僕は思った。

 お母さんは僕の方に歩いてきながら続けて話した。

「今日あんたの様子がいつもと違ったから、家で何かあったんじゃないかって、心配して電話してきてくれたのよ」

「僕の様子が?」

「そうよ」

 そう言った時には、お母さんは元いたリビングの椅子にもう一度腰をかけ直していた。そしてまだそこに立ったままでいる僕に、涙できらきらした目を向けながら言った。

「何だか学校で、一日ぼけっとしてたんだって?」

「ぼけっとなんて、していないよ」

 そう言いかけた僕の言葉も聞き終わらないうちに、お母さんはまた大きく吹き出してしまった。そしてその激しい笑いが終わった後、からかうような顔でこう言った。

「何よあんた。さっきは、ぼけっとする方法を教えてくれなんてお母さんに言っておいて。自分だって、学校でぼけっとしているんじゃない」

 それからまたお母さんは楽しそうに一人で笑いだした。

「ぼけっとなんてしていないよ。ただ、考えないように考えていただだけだよ」

 僕は最初必死で抗議をしようとしたが、お母さんの笑っている顔を見ていたら、なんだか自分までおかしくなってきてしまって、最後は僕もお母さんと声を合わせて笑ってしまった。

(なんだ。あの時、僕もぼけっとしていたのか)

 お母さんと笑いながら、僕は心の中でそんなことを考えていた。

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『思案』 矢口晃 @yaguti

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