第9話 四番目の客
植田さんの不機嫌が長く続くようになってきて、私は徐々に環境の変化を感じ取りつつあった。私が手術後に馴化プログラムに取り組むことは、母も承知の上だ。プログラムの中身がどのようになるかの違いはあっても、実施自体は既定路線なんだ。植田さんもそれをよく知っていたはず。
それなのに植田さんがあれほど苛立っているのは、私のプログラムをサポートしなければならない立場の母が、これまでのポジションからぴくりとも動いていないからだろう。
自立するためにあえて望まない手術を受けたのに、私以上に母が自立プログラムを受け入れていない。これまで通りでなぜいけないの? 使い古しでぼろぼろの旧習の中にずっぽり埋まってしまって、足を動かそうとしない。厄介だよなあ……。
トムからのアクセスの翌日はコールがなかった。私は仕方なく勉強のために机に向かった。これまで足止めを『仕方ない』と思ったことがなかった私にとって、『外』を知ることが心理に及ぼす影響は
予想と実体験は、明らかに違う。直接会話は知識でもシミュレーションでもなく、間違いなくライブなんだ。そのライブの欠落が私を『変』というカテゴリーに追いやっているのなら、場数を踏むことで私の内外の印象不一致は解消して行くんだろう。
そして、翌日。母との昼食を済ませて自室に戻った途端に携帯が鳴った。指名かな?
「ルイか?」
「はい。指名ですか?」
「そう。うちでも初めての客や」
「女性?」
「せや。ばあちゃんや」
ばあちゃん……か。
「そういう依頼はちょくちょくあるんですか?」
「多くはないけどな。まあ、話し相手や。一番無難やけど、間ぁ保たすのがしんどいから、良し悪しやな」
「そうですか。初めてだと、相手の方がどんな人かは分かりませんよね」
「せやな。電話やなく、事務室に直接来よった。柳谷のじいさんほどアクは強くなさそうや」
ふうん。でも、それならわざわざこういういかがわしいところを利用しなくてもいいような……。
「ただな」
「はい」
「俺の勘やで。あのばあさんはくせもんやな」
やっぱりか。中里さんは、私と違ってたくさんのケースを見てる。どこかで警告音が鳴っていれば、微弱でも聞き落とさないんだろう。
「私にさばけますかね?」
「ルイなら行けるんちゃうか? まあ、トムん時と同じや。面通しするさかい、来てくれるか?」
「おーけーです。これから出ます」
「済まんな。頼むわ」
「はい」
さあ、今度はどんなことになるのやら。
◇ ◇ ◇
「失礼します」
事務室に入ったら、中里さんが言った通りの穏やかそうなおばあさんがソファーにちょこんと座っていた。いわゆるババ服ではなくて、地味だけどおしゃれなスーツを着ている。くたびれ切った事務室の雰囲気には、まるっきり合わない。おばあさんは私を見てすぐに会釈をしたので、私も会釈で返す。
「あら。本当にお若い方なのねえ」
「未成年じゃああらへんで。ハタチや」
「ああ、そう。それでも、わたしのような年寄りにとっては孫より若いわ」
「はっはっは。そうやろな」
「ええと、お名前は?」
「あ、ルイです。よろしくお願いします」
「ルイさんね。わたしは瀬崎です」
ふむ。偽名を使わない。本名を名乗った。あのおじいさんの時と同じだけど、特別自己顕示欲が強いようには見えない。少なくとも私の目には、ごく普通のおばあさんに思える。ただ……。
「それで、私に何かリクエストがありますか?」
「いいえ、特に。お話相手になっていただければ」
「それでよろしいんですか?」
「はい。動くのは億劫なので」
「分かりました。では、二時間お付き合いいたします。行き先は瀬崎さんにお任せしますね」
「あら。それでよろしいの?」
「私は、この辺りに土地勘がないんです」
「分かりました。それじゃあ」
ひょいと腰を上げた瀬崎さんは、中里さんに料金を支払うと一礼してすぐ事務室を出た。中里さんはその背中をじっと見送っていたけど、続いて部屋を出ようとした私の背中に小声でアラートを貼り付けた。
「ルイ。用心せ。あいつ、間違いなく食わせもんや」
◇ ◇ ◇
そう。中里さんに警告されるまでもない。私の中でも、おばあさんの持ってる雰囲気に違和感爆裂だったんだ。
寂しいから話し相手が欲しいということなら、歩いている最中に必ず私へのアプローチが始まるはずだ。でも。にこにこしているけれどほとんど話しかけてこない。それに、態度は最悪だったけどよぼよぼだった柳谷さんと違って、このおばあちゃんは足腰がしっかりしてる。歩く速度は私よりむしろ早いくらいだ。かくしゃくなんてもんじゃない。しゃきしゃき。それだけ体力、活力のある人が、うさんくさいレンタル屋なんかを安易に利用するだろうか?
そして。
これまでの三人。じいちゃんとメリー、トム。どれも、見かけと中身がぴったり一致していた。欲望は外からはっきり見えたんだ。それがはっきりしていたからこそ、私の望まないタイプの人物であっても対応は出来た。ほとんど小細工なしでね。
だけど瀬崎さんは態度や見栄え、言葉遣いを注意深く調整してて、生の部分がちっとも見えない。自分の本性や目的を慎重に隠そうとしてる。それって、レンタル屋から誰かを借り出して愚痴ること、つまり自分の悪感情をダイレクトに吐き出すこととは矛盾してるよね。
さらにさらに。いかがわしいレンタル屋にアクセスしてくる客筋としては、あまりにまとも過ぎる。しかも、見せている常識的な姿勢が逆に私や所長の警戒心を掻き立てているんだってことを、全然考慮してない。どうにもアンバランスでおかしい。
つまり。瀬崎さんは決してノーマルな人種ではなく、どこかに異常性を隠し持っているってこと。私は彼女が表立って見せていない魂胆に充分用心しなければならないだろう。
「ここでいいかしら?」
瀬崎さんが指差したのは、大型スーパーの一階に併設されているドーナツショップだった。
「私はかまいません」
「それじゃあ、入りましょ」
私が何も言わないうちに、ドーナツとコーヒーを二つずつ注文した瀬崎さんは、そのトレイを持って隅のボックス席に移動した。トムの時と違って、ついたてがないから私たちの姿は他の客から丸見え。でも光景としては、祖母と孫の組み合わせだ。きっと違和感はないんだろう。奇異なものを見るような周囲からの視線は特に感じなかった。
着席してすぐ。自己紹介が促された。
「はじめまして。
「リストにあった通りで。ルイです」
「本名は?」
「それは明かせません」
「どうして?」
「うちの店の基本ルールなので。プライベートを暴かれるのは困ります」
「仕方ないわね」
ほら、やっぱりね。私や所長の感じていた違和感は、予想通りにぶくぶく膨らみ始めた。
「あなた、学校は?」
「行ってません。今は、これが本業ですね」
嘘偽りなく。その通りだ。
「そうなの? それでいいの?」
「よかないですよ。でも、いろいろ事情があるので」
「そう」
私の中でまだ固まりきっていなかった瀬崎さんに対する違和感が、『クロ』で確定した。
もし瀬崎さんが本当に寂しいのなら、話はまず自分の身の上のことから始まるだろう。自分がどれくらい不幸な境遇にあるのか、それを不満に思っているのか。だけど、瀬崎さんのアプローチは、私の素性を探り出そうとすることから始まった。それはどうにもおかしい。
レンタルという性質上、レンタル期間が終わればその人物との関係は切れる。それが借り手と貸し手双方にとって、一番のメリットだろう。一時の関係として割り切れるということなのだから。瀬崎さんが起こしているアクションは、レンタルカレシの常識にあからさまに逆行してるんだ。
この前のトムの時のように、私との会話の接点を増やしたくてプライベートに踏み込むっていうことはあるだろう。トムの場合は意図がはっきり見えたから、私もゲートを出来るだけ開いた。互いに匿名であるっていう前提が崩れない限り、プライベートの出し入れは大きな問題にならないと思う。でも、瀬崎さんの場合は逆だ。私と話をしたいという目的が何一つ見えてこない。魂胆が分からない。分からない以上、警戒はぎりぎりまでしておかないと。
私の警戒心に気付いたんだろう。きょろっと私を見回した瀬崎さんが、唐突に身の上話を始めた。それがどうにも奇妙だった。いや、話自体には特に変なところがあるわけじゃない。矛盾や破綻もなかったと思う。
二十代半ばで公務員だったご主人と結婚し、五十代で死別。子供はいない。ご主人は頻繁に転勤のある仕事に就いていたから、近所付き合いで親しい人が出来るということもなく、ご主人の死後は市内のマンションで一人暮らししている。生活に変化がないので、どうしても退屈になる。話し相手が欲しいってこと。
だけど。それがどんなに奇妙か、このおばあさんには分かっているだろうか? 世間知らずの私にすら、その身の上話がとんでもなく嘘臭く感じる。話し相手を探すっていうのは、誰かにそうしろって言われたことじゃないよね? 自分に、話し相手を探したいっていう欲求があったから。当然、何を話したいのかは最初のプレゼンで見えるはずなのに、ネタがちっとも見えてこない。そもそもそれがおかしい。
私への突っ込みも、どうにも中途半端だった。私に強い興味があれば、私がそれを明かすことを徹底拒否しても、隙を見て切り込んでくるだろう。でも、そういう素振りが見えない。そもそも私を興味の対象として認定していない感じがするんだ。じゃあ、なぜ安くない料金を払ってまで私を借り出したわけ? そういう一番基本的なところから、どうにも違和感が拭えない。
そして、問いかけにしても受け答えにしても、瀬崎さんの話し方には熱がない。妙に淡々としていて、あまりに感情がこもっていないんだ。まるで電話の自動音声ガイドと話をしているみたいな、かっさかさな受け答え。それって、わざわざお金出してまでする意味あるの?
もし瀬崎さんが、世の中そんなもんだって達観しているなら、そもそもいかがわしい若造と話をするなんてバカなことは考えないだろう。でもそういう割り切った感じでも、ニヒルな感じでもない。感情がどこかに切り離されていて、乾き切った話し方……。
瀬崎さんの口から次々出てくる立て板に水の身の上話は、私にはまるでシナリオを棒読みしているように感じたんだ。何のシナリオ? 私たちの同情を集めるためのシナリオ。その同情をどう使うか。私には、宗教かカネ絡みのことしか思い浮かばなかった。
つまり。瀬崎さんには、私たちがしているようないかがわしい商売で稼いだカネは一方的に掠め取っても構わないっていう、ものすごく歪んだ倫理観があるんじゃないかな。それなら一切の罪悪感なしで、私たちの稼ぎの上前をはねる方法を考えていてもおかしくない。それがどんな手段なのかまだ分からない以上、充分に注意しておかないとならない。
私は、瀬崎さんの話に同情するふりも、聞き捨てるふりもしなかった。そこに、瀬崎さんが悪用しそうな私についての判断材料を付け加えたくなかったんだ。だから、ただひたすら相槌を打ち続けることに徹した。
私の変わらない態度に焦れたように、瀬崎さんは私の外堀を埋める努力を切り上げて、いきなり核心の事案を切り出してきた。そしてそれは、私にとっては予想外の内容だった。
「でね」
「はい?」
話しかけていた話題の腰を突然折って、持っていたバッグから瀬崎さんが何かひらっと書類を引っ張り出した。
「わたしね、今のところを出たいの。一人暮らしには広すぎるし、管理費や共益費の負担も年寄りには高い。そこを売って、一回りコンパクトなところに住み替えたいの」
「そうなんですか」
「でもね、わたしはもう年金暮らしで、それしか収入がないし、不動産の売買や銀行からの資金借り入れで、保証人になってくれる人が見つからないの」
すうっとその書類が私の前に差し出された。
「ねえ、ルイ。わたしを助けてくれる?」
そういうことだったのか。私は思わず苦笑した。
「あの、瀬崎さん」
「はい?」
「私が、そんなに世間知らずのど阿呆に見えました?」
突き放そう。付き合っていられない。
「確かに、あまり好ましくない商売に従事してるのかもしれませんけど、それでも私は一応レンタル屋の貸し出し品なんですよ」
「ええ」
「レンタル品は返却されないとなりません」
「そうね」
「そしてね。借り出すお客さんはレンタル品に傷を付けてはいけない。そういう取り決めになってるはずです」
私はシャツの胸ポケットに畳んで入れてあった規約一覧を広げて、瀬崎さんの書類の上に重ねた。
「それを熟読してください」
「どうして?」
「もし、私が瀬崎さんの手助けをすることで金銭的なトラブルに巻き込まれたら、私だけでなくレンタルショップにも被害が飛び火しかねません。もちろん私の家族にも、です。申し訳ありませんが、その手のお手伝いは一切出来かねます」
私の明確なノーの返事を聞いた途端。それまでの取り澄ました瀬崎さんの仮面は、一瞬で全て取っ払われた。
「けっ! クソ生意気なガキが!」
ああ……なんだ。この人も、柳谷さんと同じか。最初から分かってたおじいさんの方がまだましだったな。げんなりする。
「まあ、残りの一時間、あなたの悪口を聞き倒すことになっても仕方ないです。でもね」
私は、財布からドーナツとコーヒーの代金の分の現金を出して、ショップの規約書の上に乗せた。
「あなたが私を騙そうとしたことは、明らかな詐欺行為です。さっきの紙は不動産売買に関わる書類じゃなく、ほとんど白紙の委任状。あなたが欲しいのは私の実名と印鑑が押された書類でしょ? それをどう偽造して何に使うか知りませんけど、手が後ろに回りますよ?」
さっと顔色を変えた瀬崎さんは、慌てて席を立って逃げ出そうとした。
「ああ、ごちそうさまでした。代金はいいんですか?」
「とっととくたばりやがれっ!」
穏やかなおばあさんから因業ばばあに変身した瀬崎さんは、顔を真っ赤にしてそう怒鳴り散らすと、走り去った。
名前は明らかに偽名。だって、バッグのネームタグに付いてたアルファベットはMとGだもん。瀬崎裕子じゃまるっきりあてはまんない。声の張りや動きの素早さから見て、おばあさんというのも怪しい。まだおばさんの年齢なのかもね。老けメイクでもしてたのかなあ。
まあ、もともとレンタルで派遣される先のお客さんとは、リアルでの接点を持ちようがない。瀬崎さんの嘘を、不誠実だと言って一方的に非難することは出来ないんだ。だからって、まんまと悪用されるのはごめんだけどね。
私は、残っていたドーナツとコーヒーをゆっくりお腹に押し込んでから、瀬崎さんが回収仕損なったうさんくさい書類を畳んで胸ポケットに収めた。
「中里さんに報告しとかないとね」
◇ ◇ ◇
「どうやった?」
「あのおばあさん。詐欺師ですね」
「え?」
胸ポケットに畳んで入れておいた、おばさんが出した紙片。それをガラステーブルの上に広げて、中里さんに見せた。
「こいつは……」
見る見る、中里さんの表情が険しくなった。
「俺の勘が当たったいうことやな。やっぱりとんだ食わせもんや」
「でも、そんなに腕がいい感じじゃなかったんですけど。あれじゃあ、誰も引っかからないような……」
私がそう言うと、中里さんが苦笑いしながらぱたぱた手を振った。
「ちゃうがな。そらあ、あの女があんたを読めへんかったからや」
「読めなかった、ですか?」
「そうや。あいつ、プロフ画見て、こいつなら騙せる思たんやろ。泣き落としで行けるゆうて」
「げ」
「せやけど、実際のあんたからは情の部分がよう見えへんねん。のほんとして、何考えてるかよう分からん。切り込む口が見つからへんね」
「それで、かあ」
「そう。騙しの流れが最後まで掴めへんかった。あのばあさんは、あんたを騙すつもりやったのに、逆にあんたに一杯食わされたんや」
ううう、あのおばあさんには、私の方が詐欺師に見えたってことかあ。それはそれでショック……。
「まあ、せやけど。冗談抜きに引っかからんでよかったわ。連帯保証人の署名捺印なんかさせられたもんなら、よくて夜逃げや。ヤの字に流れてえげつないことに使われたら、一族崩壊やで」
ぞーっ! たった一枚の紙切れなのになあ。悪魔の紙切れ、か……。
「ブラックリストに乗せとく。他のメンバーにも、絶対に相手にすな言うとかんと」
「そうですね」
「みんながみんな、ルイみたいにうまくさばけるとは限らへんからな」
「ううう。うなされそう」
「まあ客筋から言うて、ああいうのがどうしても混じる。そらあしゃあないわ。そのリスクだけはゼロに出来ひん」
「ええ」
「これからもな」
店長は、私の出したあの紙切れを茶封筒に慎重に収めて金庫にしまった。
「あのばあさんの直筆部分があるさかい、一応物証になる。面倒ごとはごめんやからサツにはチクらんが、万一のことがあるからな」
そして諭吉さんが二枚、私の手元にやってきた。
「それぇ、報酬言うより褒賞やな。よう見破った。自分自身をほめたってくれ」
「あはは」
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