第10話 ケーススタディ4
「うーん……」
相変わらず機嫌が悪い植田さんだけど、この前みたいに苛立ちを剥き出しにすることはなくなった。きっと、母の説得にいくらか進展があったんだろう。でも、カウンセリングがもっと進んでいればいつもの穏やかな植田さんに戻るはずだ。そうなってないってことは、全体としてはまだまだ停滞なんだろなあ。
「ふう」
背広を脱いで椅子の背にがさっとかけた植田さんは、唐突に質問を始めた。
「進展は?」
あはは。私の方も『進展』か。
「始めて、危険に遭遇しました」
がたっ! 椅子を鳴らして植田さんが立ち上がった。それを手をかざして鎮める。
「いや、身体の方への危険じゃありません」
「ほ?」
なんだろうという表情で、植田さんがそろそろと椅子に座り直す。
「ああいうのは、話には聞いてたんですけど後味が悪いものなんですね」
「ああいうの?」
「詐欺。人を騙すっていう行為です」
「騙す……か」
瀬崎というおばあさんより、騙すという行為自体がどうしようもなく嫌だ。思い出すと顔が歪んでしまう。
「人を傷つけない。自分を守る。そういう目的で嘘を使うことは、私は必ずしも悪いことだと思わないんです。自分を全部曝し続けていたら身が保ちませんから」
「ああ、確かにそうだね」
「でしょ? でも、相手をもの扱いして所有物や善意を搾り取ろうというのは、私には許容出来ません」
「誰だって許せないだろ」
「だと思うんですけどね。でも、騙すことをこれっぽっちも悪意とか犯罪だと思わない人種が実際にいる。現実をまざまざと見せつけられました」
厳しい表情のまま、植田さんが探りを入れて来る。
「……相手は?」
「おばさんです」
「ふむ。見るからに、口が上手いっていうタイプだった?」
「いえ。見かけはそういう感じじゃありませんでした。温和で、慎重に話をするタイプ」
書き込みを続けていた植田さんが、ひょいと顔を上げて首をひねった。
「ふうん。女性でそれは珍しいかもなあ」
「そうなんですか?」
「詐欺っていうのは一種の雰囲気作りさ。虚偽が真実に見えるまで、あの手この手で徹底的に膨らませる。それを可能にするのは話術と物証だ。んで、今回は話だけなんだろ?」
「はい」
「話での誘導が上手なら、類くんはまんまとやられていたはずだよ」
「あはは。確かに、そうかもしれません。でも、今回は最初からどうも不自然さが目立っていたんで」
「そこがおかしい。相手のおばさんが、人を騙す行為にまだ不慣れなのかもしれないけど。詐欺の目的がそもそも金銭詐取じゃないという可能性もあるね」
なるほど。さすがだなあ……。私がなんとなくおかしいと『感じた』ところを、植田さんは見事に理論で裏打ちしてくる。緻密だ。
「相手は一人?」
「一人です」
「それも、変なんだよ。催眠効果を出すなら、複数でよいしょしないと意味がない」
私がしばらく考え込んでいたら、植田さんがさっとヒアリングを切り上げた。
「類くんにさばけたのなら、もう心配はないな。類くんに魂胆を見透かされている以上、おばさんはもう突っ込んでこないよ」
「私もそう思います。でも」
「うん」
「ちっとも訓練にならないんですよね」
「ははは……」
植田さんが、力なく笑った。
「それは仕方ないさ。本当は調整者を交えての、小人数でのグループワークの方がいいんだよ。でもそうするには、グループの人選を僕かお母さんがしなければならない。それじゃあ鶏小屋を出たいと考えている類くんのオーダーを満たせない。出発点に戻ってしまう」
「その通りです」
「今回のプログラム。類くん自らが立案したというところが、ものすごく重要なんだよ。僕は類くんじゃないから、どうしても最初にかける負荷を小さく見積もりたくなる。つまり補助輪を付けたくなる。それじゃなかなか馴化のペースが上がらない」
さすが、プロだ。よく分かってくれてる。
「私はそう思ってます」
「だろ? どのくらいのペースでブレーキとアクセルを踏み換えるかは、類くん自身に任せるしかないんだよ」
「植田さん」
「ん?」
「もしかして。母の説得で一番難航しているのは、そこですか?」
「そう」
即答だった。
「庇護や補助は、ゼロワンの世界じゃない。でも、その中間点をどこに置くかをお母さんが決めたんじゃもうダメなんだよ。それを、いくら言い聞かせても納得してもらえないんだ」
「……そうですか」
「まあ」
植田さんが、椅子の背にかけてあった背広を手にしてさっと立ち上がった。
「それこそ、類くんに対する以上に時間をかけるしかない」
「お手数をおかけして済みません」
「いや。今がチャンスなんだ。この機を逃したら」
植田さんが、眉の間にくっきりと皺を寄せながら重々しく呟いた。
「鶏小屋だけじゃない。全部潰れるからね」
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