刻めよ罪を、掲げよ生を

秋口峻砂

刻めよ罪を、掲げよ生を

 ふわりふわりと風が吹いている。

 やはり高いところは苦手だ。子供の頃に家族旅行で一度だけ行った東京での観光で、東京タワーの展望台から下を見たときに、突然身体が震えだして腰を抜かしたことがあった。

 あの時、母が笑いながら差し出した手のぬくもり――それを思い出した瞬間、私は自分が滑稽で少しだけ笑ってしまった。

 両親を捨て一体どれだけの日々を過ごしただろう。

 愛している彼と共にいられれば、今でも私は幸せだ。家を飛び出して、彼と二人辿り着いた狭い部屋に、少ない荷物を運び込み真新しい家具を揃えた。食事を作るにもまだ台所用品が足りなくて、あまり美味しそうに見えないコンビニのお弁当を買って。

 本当ならば二人で食べたかったけれど、彼はまだ自分の両親を説得していたから、一人きりだった。

 私はその時、そのコンビニのお弁当を食べて、何年ぶりに「美味しい」と思った。何年ぶりに食べても吐き気を感じなかった。

 どうして家族を捨てる必要があったのかなんて、本当は考えても意味なんてない。

 捨ててしまった方が楽だったとも言えるし、あの人達の本当は愛情だったかもしれない監禁という名の束縛や、父がしていた私への淫猥な行為、それを黙認していた母、「親だから」と受け入れていた弟、見て見ぬフリを続けていた祖母が憎かったからかもしれない。

 何度かの命を捨てる行為で、きっと私は大切な人達に気付いて欲しかったのだと思う。

 私だって馬鹿じゃない。キャリアとして学のある男達と真正面から戦い、男達を全て抑えつけて手に入れたNo.1という称号。一つ大切な何かを捨てて、一つ手に入れた地位とプライド。

 それらが私を支えていた。

「刀のようにありたい」と思い願い、触れるものは全て傷付けて、邪魔に奴は全て潰した。

 潰された彼らが私に向ける視線は、常に憎しみだった。

 彼らが悪いわけじゃない。でも私だけが悪いわけでもない。社会の仕組みがそうで、生き残る為には潰すしかないんだ。

 それが自分に対する言い訳で欺瞞偽善だと気付いていて、でも気付かないフリをしていた。

 それを見詰めて認めてしまったら、私は死んで償うしかないと気付いていたからだ。

 ふと、風に揺れる自分の髪に触れた。

 ここに来ると決めて私は、学生の頃から久しぶりに髪の毛の色を思いっきり抜いた。

 ここまで抜いたのは初めてだ。金髪よりも更に抜いた、プラチナブロンド。触ってみて分かった。この色は少ないなりに残された私の心の自己主張なんだと。

 この病に犯されて、私はファッションとかに全く拘らなくなった。服なんか着れればどうでもいい。それに馬鹿高いブランドモノに拘っても、中身の私がこんなにくだらない女では、ブランドも嫌がるだろうと思った。

 小さな小さな、とても小さな、私の中に残っていた色気。それが嬉しいのか悲しいのか、今の私には分からない。

 残っていたその色気は、彼が必死になって働いてプレゼントしてくれた大切な濃紺のジーンズの為に、たった一つ残された色気なんだと思う。

 このビルからの高い視点の景色が大好きだった。高いから街の灯りも少ないし、星空だってほら、よく見える。

 私が私である為に、自分以外の誰かを切り捨てるなんて生き方、本当は楽しい訳がない。

 でも、私はそうして生きてきた。

 眼下に広がる街並に、少しだけ目を細めた。

 真下に走る直線の道路、少しだけ視線を右に流すと十字路がある。それを左に曲がって近道の公園を横切って、そこからまっすぐ歩くと、私と彼のアパートに着く。

 昨日は徹夜で仕事をしていたから、今頃きっと熟睡しているんだろうな。

「刀のようにありたい」と願い、切り捨ててきた全て。傷付け壊した彼らの幸せ。

 償いたくても償いきれない。あの頃のように強くあれば、きっとまた働いて成功もあるのかもしれない。

 その金があれば彼らに、最低限度の償いはできるだろうとも思う。

 でも、きっと私は赦されない。

 何度も命を捨てて償おうとした。でも、その度に未練がましく生き残った。

 最初は知識がない為か風邪薬を大量服用、二度目はビルからの投身自殺未遂、そして三度目は殺虫剤を大量服用した服毒自殺、四度目は病院からもらった薬によるオーバードウズ。

 一度目は勿論助かった、二度目は飛び降りる前に彼に捕まった、三度目は九割は死ぬ可能性での奇跡的な快復、四度目はただ眠っていただけだった。

 死ぬという事で赦されるのならば、こんなに容易い方法はないだろう。だから私は今まで、そうして死のうとした。

 私が欲していたのは、きっと罪への報いとあたたかい押し付けではない優しさなんだ。でも私のそれはただの我侭なのかな?

 ただ、無償で抱き締めてもらえるような、そんな温かさが欲しかった。

 私は結局、ただの弱虫なんだ。惨めな負け犬なんだ。生きていく強さすら残っていない、そんな弱虫な負け犬なんだ。

 両親は私を愛していてくれたのか、今では分からなくなった。

 監禁のような束縛に、私は一度も安堵したことなんかない。むしろその束縛と冷たい蔑みの視線は、私に追い詰めることしかなかった。「私はきっと、ここで腐れて壊れていくんだ」と何度も思った。

「……ねえ、どうしたいのよ。私は一体、何がしたいの。逃げたって何も変わらないって、もう分かっているでしょう」

 呟いた瞬間に、少しだけ滑稽で笑った。

 ここでこうして、暗く広がった眼下の景色を眺めている。東京タワー以来高所恐怖症の私の足は、今でも怖さでガクガクと震えている。

 私はきっと、生きている意味が欲しいんだ。

 そういう屁理屈がないと、弱虫な私はどうしても生きていくのが辛いんだ。そしてそういう言い訳をして、両親や仕事上の敵を切り捨ててきたんだ。

 少しだけ、ほんの少しだけ誰かの声が聞きたくなって、私はポケットに入った携帯を取り出して、一番仲のいい友達に電話をした。

 何度かの呼び出し音の後、『もしもし』といういつもの明るい声が聞こえた。

 少しだけ、ほっとする。

「あ、秋ちゃん、元気にしてる」

『へ、ナニ言ってんのよ、一昨日会ったじゃない。……あ、もしかして、何かあったの?』

 いつもの優しくて強気な声が聞こえる。何度この声に救われただろう。私が挫けそうになると、いつも優しく笑ってくれた。

 私が受けた傷を知ると、いつも「そいつを殺してやりたい」と私の代わりに憎み、そして一緒に泣いてくれた。

「うぅん、なんでもない。明後日なんだけど、遊ぼうよ」

『……ん、あ、ごめんその日は長男の運動会なんだ』

 ……そっか、今は約束、欲しかったのにな。

『電話じゃ出来ない相談なの。下手なことは考えないって約束してるの、覚えてるよね』

「……ぅん」

 電話の向こう側で、真剣な顔をして怒っている彼女が見えた。

 彼女は正しいと言う言葉について、自分なりの完璧な答えを持っていた。彼女にとっての「正しい」とは、「自分が正しいと思うこと全て」らしい。

 倫理や論理はどうでもいいらしく、「私が正しいと思えばそれが正しいんだよ」といつも笑って言い切るのだ。

「……また旅行に行きたいね、温泉みたいなの」

『あ、いいねえ、あたしも結婚なんかするんじゃなかったよ。あんた達みたいに同棲でやめときゃよかった』

 自分で言ってて可笑しいらしくて、彼女がケタケタと笑った。

 少しだけ、ほんの少しだけ心が落ち着いた。

 私が生きてきたことを、彼女は知っていてくれる。きっとずっと覚えていてくれる。こんなにボロボロで惨めでみすぼらしい女でも、彼女はきっと忘れないでいてくれる。

「……じゃあ、ありがとうね」

『うん、バイバイ。あ、そうそう……』

 通話を切ろうとした寸前、突然彼女がこう言った。

『……あんたがいるからあたしもいるんだってこと、忘れないでね』

 戸惑ってしまう。ちょっと意味が分からない。でも何となく、心に残る言葉だった。

「うん、ありがとう。……バイバイ」

 秋ちゃんとの電話を切った後、私はそのまま携帯の電源を切った。

 これでもう、邪魔は入らないだろう。

 遺書らしいものは書かなかった。書いてもそんなの、苦しみしか伝えられないのに、それが残されたモノだなんてあまりにも悲しすぎるから。

 眼下に広がる真っ暗な絶望という景色を見て、私は震えた。

 反面でこれで全てが終わると思うと、不思議と安堵して笑った。溢れた涙は頬を伝い、何度も噛み締めボロボロにささくれた唇は裂けて血が滲んだ。

 彼は、こんな惨めでみすぼらしい女と一緒にいてはいけない。

 彼は確かに不器用だ。

 仕事だってお世辞にも、上手くいっているとは言えない。世渡りなんて考えたこともないくらいに不器用で、どんな仕事でも体当たりで全力で頑張る。

 けど、どうしても世渡りが下手だから、評価もされないような地味でしなくてもいいはずの仕事まで押し付けられる。

 でも、それでも頑張る。

 彼を見ていると、効率的に能率的に最小限のリスクで勝ち上がっていた自分が、本当に惨めに思えた。でも私は、そんな彼の不器用さに惹かれた。

 私は最短距離を最低限の労力と犠牲で走り抜けた。でもそれでもこんなにボロボロになった。

 いつの間にか会社に出勤するのを拒否して、喫茶店で時間を潰すようになった。気付いた時にはもう、人と話すことすら怖くなった。他人の目を見て話せなくなった。

 ……じゃあ不器用な彼は、どれだけの苦しみを抱えているのだろうか?

 心が壊れてから鬱病となり、情緒不安定性人格障害、不安障害、そして複雑性PTSDと病気が変わった。

 彼と毎日繰り返す普通の日々。外に出る事は極端に少なくなったけれど、彼が一緒ならば外でも少しだけ笑えた。

 話題の映画を観たり、評判のイタリアンを食べに行ったり、彼が大好きなジーンズを古着屋に買いに行ったり。

 お金がなくても、キッチンで二人で晩御飯を作って、それを食べながらどうでもいいことを話して笑って。そんな何でもない、普通の日々。普通の幸せ。

 伝っていた涙がどうしてだろう、あたたかい。

 そうか、私はまだ、生きたいんだ。

 普通の幸せが嬉しくてあたたかくて、でもいつもいつも手の中の幸せが壊れてきたから、また壊れてしまうのが怖いんだ。

 守りたいと思った大切な何かをいつもいつも壊されてきたから、何も残っていない私が守れるはずないから、逃げ出したいんだ。

「……正しいことってなんなの。死ぬことなの、それとも生きていくことなの。私はただ……ただ普通の――」

 飛び降りようと身体を前のめりにした瞬間、私の身体を誰かが抱き締めた。

 荒い息、熱い体温、そして震えている腕。考えなくても分かってしまう、彼だ。

「……帰ろう」

 たったそれだけ、彼はたったそれだけを呟いて、ただただ私を優しく抱き締めてくれた。

 あなたは絶対に正しいの? 私は正しさよりも、赦されたいの。だからって死ぬことが正しいなんて言わないわ。

 でも人を切り捨てて生きてきた私が、幸せになんてなれるはずないじゃない。

 家族すら捨てたわ。

「あなたの為に」だなんて、卑怯な言葉は言いたくない。

 痛いことばっかりだったあの家から、私は逃げ出す切っ掛けをずっと探していたのだから。過去にあった私の受けた傷のあれもこれも、全部知っているでしょう?

 なのに、それでもあなたは私に、生きろと強要するの。

「……帰ろう、俺達の部屋に」

 必要とされていなかった私は、誰かに必要とされたかっただけなのかもしれない。

 愛されることの難しさと愛することの安易さを知っている私は、「愛されたい」と駄々を捏ねていただけなのかもしれない。

 生きていくことに理由が欲しくて、それを彼の所為にして逃げていただけなのかもしれない。

 子供みたいな我侭を振りかざして、彼や秋ちゃんが傷付くのを見て、愉悦に浸っていたのかもしれない。

 でも、それでも、あなたは私に生きろと言うの。

「にくじゃがが、たべたい……な」

「分かった、じゃあ俺特製の肉じゃが作るよ。だから、帰ろう」

「たきこみ、ごはんも、たべたいよぅ」

「よし、じゃあ鶏肉の炊き込みご飯に、特製豚汁も作る。……だから、帰ろう」

「ぅうん、まつたけ、ごはんが、いい」

「ああ、なら松茸ご飯にしよう。いつまでもずっと一緒に風呂に入って、物凄いえっちな下着をお前に穿かせていっぱい意地悪なセックスして、結婚して子供も作って、じじいとばばあになってその時がきたら、一緒に死のう」

 私はきっと、赦されたい。

 私はきっと、必要とされたい。

 私はきっと、これからも生きたい。

 私はきっと、誰かを愛して愛されたい。

 切り捨てて潰してきた全てに償うとするならば、死ぬ以外という選択肢以外で私はどうすればいいのだろうか。

 でもその答えを、彼ははっきりと言ってくれた。

「……お前がいるから、俺もここにいるんだ」

「償う」とは、生きていくことだ、と――

 子供のように泣き喚いて、私はあの母の手のあたたかさを感じていた頃から、彼の手の中でやり直すんだ。

 心に刻まれた罪を償い、掲げられた生を全うする為に。

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