第2話 ゾンビロイド



   1



 氷川涼真ひかわりょうまは暗闇で目を覚ました。仰向け状態の彼は、多量の汗を流し、荒い息遣いを繰り返す。


 また、あの夢か。


 過去の出来事が、寝ている間にフラッシュバックしていたのだ。それは涼真にとって、とても恐ろしい体験であり、まさに悪夢だった。終戦後から発症し、段々とひどくなってきている。最近では現実世界にも幻覚として、それらが現れることがあった。


 彼はベッドから降り、リビングに向かう。テーブルの上に無造作に置かれたペットボトルを掴むと、中の濁った水を乱暴に飲みほした。持っている物を床に投げ捨て、一呼吸つく。


 するとどこからか、呻き声のようなものが微かに聞こえてきた。人間の男が喉を振るわせながら出しているような、低い音だ。涼真はこの音に聞き覚えがあった。即座に、ベッドの横に置いてある拳銃を手に取り、部屋を出た。


 彼は現在、やや倒壊気味のマンションの、四階に位置している。辺りは闇に包まれていて、月明りと静寂だけが場を支配していた。


 彼は斜めに傾いた廊下を進んでいく。亀裂の入ったコンクリートを横目に、足音を立てないように慎重に歩いていった。


 再び、呻き声が聞こえた。今度は先ほどよりも、大きくはっきりとした音だった。涼真は拳銃のスライドを引いた。


 彼はゆっくりと、階段を降りていった。胸の鼓動が早くなり、緊張が全身に伝わる。一筋の汗が頬を流れた。


 二階にまで来たとき、涼真は進行方向に、音の正体を目撃する。


 彼はすぐに右の壁を背にして身を隠し、拳銃を自身の顔の近くまで持ってきた。


 背の曲がった二足歩行の、まるで猿のようなシルエット。その生き物は、もう一度低い鳴き声を上げると、にちゃにちゃという音を立てた。涼真は恐る恐る壁の向こうを覗く。音の主は、地面に転がった何かの肉塊を一心不乱に貪り食っていた。


 こちらに気づく様子はない。そう判断した涼真は、鉢合わせないように別のルートを行くことにした。慎重に足を送り出す。


 ぱりんっ。


 薄いガラスが割れる音。涼真の足元に、いくつものガラス片が散らばっていた。音の大きさに関していえば、さほど気にするほどでもない。しかし、食事中の獣が感づくのは明白だった。咀嚼音が止み、静かな間のあと、獣は涼真のいるほうに足音を近づけていく。


 彼は心の中で舌打ちをする。そして拳銃を構え、獣が姿を現すであろう場所に身体の向きを変えた。


 やるしかない。頭を見せた瞬間に撃ち抜いてやろうと思った。弾丸は貴重だ。必ず一発で仕留める。


 涼真は息を殺し、その時を待った。


 が、壁から体を現す前に、獣の足音は突然止まる。それから少しの間、完全に静止した。


 涼真は呼吸の音にすらも気をつけ、精神を集中させた。


 再度、獣は動き出す。しかしその足音は、涼真のいるほうとは逆の方角に、勢いよく遠ざかっていった。


 向こうに、行ったのか。


 彼は体の力を抜くと同時に、安堵の息を漏らした。そして振り向き、別のルートから一階を目指そうとした。


 しかし突然、前方の暗闇から飛んできた何かに両肩を掴まれ、その場に仰向けで倒されてしまう。地面に背中を強打した彼の目の前に現れたのは、人間の顔。いや、かつて人間だったモノの顔だ。ただれた皮膚が顔全体を覆い、赤黒く変色した両目がこちらを見ている。肌の至る所が擦れて破れ、金属の塊が飛び出していた。


 そいつは口を開けて、叫ぶように鳴き声を上げた。鼓膜を大きく揺らす重低音だ。先のとがった鋭利な牙が、口内に数え切れないくらい生えていた。


 くそっ、もう一体いたのか!


 涼真は、しまったと思うと同時に、拳銃の引き金を引いた。発射された弾丸は、眼前の敵の脇腹を貫く。敵は甲高い叫び声を上げると、間髪入れずに彼の首筋に噛みついた。


 「ぐぁあああああああ!」涼真は苦痛に顔を歪ませながら、引き金を引く。二発、三発、すべて命中し、襲撃者の腕力は弱くなっていった。涼真は即座に突き飛ばし、素早く立ち上がる。噛まれた箇所を手で押さえた。


 ゾンビロイド――涼真の頭に浮かんだ言葉は、地面に横たわった襲撃者のことを指していた。


 後方から低い鳴き声が聞こえた。一瞥すると二体のゾンビロイドが、こちらを見ている。


 涼真は走った。目の前の道をただ一心不乱に。


 追跡者の獲物を求めて疾走する足音が、響き始める。捕まってたまるものかと、涼真は必死に駆けた。


 走路の両側に、部屋への扉が等間隔でずらりと並んでいる。その中の一つが、いきなり開け放たれ、涼真の行き先を阻もうとした。彼は驚きつつも、軽い身のこなしでそれを躱し、逃走を続けた。開いたドアの部屋の中から、三体のゾンビロイドが、野生の猿のように勢いよく飛び出してくる。


 間もなく至る所の部屋のドアが、待っていたかのように、次々と開いていった。中から、それぞれ数体のゾンビロイドが出てきて、涼真に襲いかかる。


 この多勢に、涼真は冷静に対処していく。飛びかかってくる者には、弾丸を撃ち込み、足元から攻めてくる者には、鋭い蹴りをくらわせた。それから、一体のゾンビロイドの頭を掴み、勢いよく後ろに投げ飛ばす。後方から追いかけてきていた者たちが、それにぶつかって倒れた。


 マンション内は、既にゾンビロイドの巣と化している。尚も疾走を続ける涼真は、もはや下の階に行くことを諦め、ゾンビロイドがまだ現れていない通路を選び、走り抜けていった。身体を掴んでくる者は振り払い、進行の妨げになる者は撃ち殺す。


 四方八方から迫りくる脅威を切り抜けていくと、ようやく出口が見えた。涼真は全力で走り、弾丸を二発、後方に向けて放ち、ゾンビロイドを足止めさせてから、通路を飛び降りた。隆起し、罅割れたアスファルトの地面に、受け身を取って着地する。そしてすぐさま走り出す。


 逃走の舞台はマンションから、夜風がそよぐ外の世界に移った。


 少し走ると、前方に、黒く、所々に銀色のラインの入ったネイキッドのバイクが現れた。


 直列四気筒エンジンを搭載した大型自動二輪車だ。涼真の所有物であり、移動手段でもある。


 彼は、襲い来るゾンビロイドたちを銃弾でけん制する。やがてバイクに辿り着くと、すぐにシートに跨り、キーを回してエンジンを始動させた。その場一体を振動させる音を全身に受けながら、クラッチを握り、背後を一瞥する。目前まで、ゾンビロイドたちは近づきつつあった。


 涼真はバイクを発進させ、徐々に加速させていく。約三秒で時速百キロ以上に達した。


 追跡者たちも、このスピードにはさすがについてこれないだろう。涼真は後ろに視線を向け、ゾンビロイドたちの姿がみるみるうちに小さくなっていくのを確認した。


 ひとまず安心すると、ゾンビロイドに噛まれた箇所を押さえて、流れ出る温かい血液を感じた。傷は浅いが、早く処置しなければ、と彼は思った。


 巨大な交差点に差し掛かる。何台もの乗用車が、左の道に乗り捨てられていた。涼真はちらりとそれらを見る。


 すると、その乗用車たちを蹴散らすように、一台の大型トラックが涼真のいる方向に、圧倒的な勢いで突っ込んできた。衝突された乗用車は吹っ飛んでいき、強引にトラックの進む道ができていく。


 涼真は驚きながらも、そのまま真っすぐ進行した。大型トラックはスピードを保ったまま、交差点を左折し、涼真の後を尾けはじめる。


 何だ一体、とその大型トラックに目をやる。トラックの運転席には、二、三体の、奇声を上げるゾンビロイドがいた。荷台の上にも大量に乗っている。


 さらに、進行方向を向いた巨大な筒状の物体が、車体の至る所に取り付けられていた。まるで大砲のようだった。


 瞬間、涼真のバイクの右隣で爆発が起こる。涼真はハンドルを左に切った。飛び散った道路の破片が、彼の身体にぶつかる。


 すかさず、涼真は後ろのトラックを見据えた。車体に設置された大砲のような物の筒部分に、ゾンビロイドが入っていくのが視認できた。


 まさか、と彼は思ったが、その予想は次の瞬間、現実になる。


 砲台の上に乗っかっているゾンビロイドが、スイッチのようなものを押すと、五秒ほど経ったのち、筒の中のゾンビロイドが轟音とともに発射されたのだ。それは、高速でこちらに向かってくる。


 涼真は右に体重をかけ、回避行動をとる。砲弾として使用されたゾンビロイドは地面に衝突すると、一瞬で爆発した。


 自爆スイッチを入れて、飛んできているらしい。涼真はジグザグ運転を繰り返し、弾の軌道上を走らないように注意した。


 次々に、砲弾と化したゾンビロイドが飛んでくる。アスファルトの破片と、爆発の硝煙が、涼真の視界を奪っていった。だが彼は、前へ進むことを躊躇わなかった。


 いつの間にか、涼真を追う車両は大型トラック一台だけでなく、軽トラックやタクシー、バスなど、多種多様になっていた。すべてゾンビロイドが運転しており、砲弾を発射する装置が取り付けられている。


 涼真は自爆特攻してくる敵たちを紙一重で避けながら、考えを巡らせ、ある策を思いついた。そして覚悟を決めると、一気に急ブレーキをかけた。続いて、止まりかけたバイクで荒々しく、アクセルターンを実行する。後輪を浮かせたまま、車体を反転させ、逆走し始めた。


 追跡車たちもまたブレーキをかけ、向きを変えようとするが、バイクほど小回りが利かないため時間がかかってしまう。それどころか、すでに発射のスイッチがONとなっていた砲台から自爆アンドロイドたちが撃ちだされ、互いの車両にぶつかり合い、爆発していった。また砲弾になるため、自身の自爆装置を起動させて待っていた筒の中のゾンビロイドたちも、爆炎とともに散っていった。


 涼真は同士討ちの策がうまくいったことに満足しながら、車と車の間を疾走していく。


 その瞬間、派手な轟音とともに、大型トラックが大爆発し、炎と黒煙を巻き上げた。一瞬、辺り一帯がまるで昼のような明るさになる。その爆発に多数の自動車が巻き込まれたようで、オレンジ色の炎が連鎖的に広がっていった。


 涼真のバイクは、すぐさま左折し、地割れした細いアスファルトの道を進んでいく。追走を振り切るため、何度も後方を確認しながら、行く道を決定した。


 しばらく走ると、敵影はすでに周りから消えていた。


 バイクの音だけが、荒れ果てた空間に響き渡る。きれいに舗装された道路は皆無で、亀裂の入っていない建物は絶無だった。前方に見えてきた高層ビルには、中腹辺りにクレーターのような破壊痕がいくつも刻まれており、歪曲した上階部は辛うじてその均衡を保っている状態だった。そんな危なっかしい、崩壊気味な建造物が、見る限りで何十も存在していた。


 だが、それらが直される雰囲気は一切無い。修理業者がいないのではない。まず前提として、現在のこの街には人がいなかった。かつては何十万もの住人がいて、それなりに栄えていたのだろう。しかし今は、見る影もないほど荒廃していた。


 静かな世界。冷たい風が涼真の頬を撫でる。


 もうすぐ冬か。


 失われた季節感が一瞬だけ蘇った。


 ただ、この世界で季節を楽しむ余裕などなかった。すぐにでも死んでしまうかもしれないのだから、必死に生きている一日一日の合間に、ふと立ち止まって感傷に浸ることなど許されるはずがない。それは死に直結する愚行だ。


 と、涼真は思っていた。


 彼は何もない眼前を見つめながら、短いため息をついた。


 生き長らえ、これまで行く当てのない旅を続けてきた。死ぬのが怖く、ただ漫然と生を謳歌してきた。目的も終着点もない旅。果たしてこれで生きているといえるのだろうか。夢も、やりたい事も無いのであれば、生きることに意味はなく、前進することに意義はない。


 停滞。それが全て。その場で足踏みしているだけなのだ。


 果たして、進むべき道が示されることはあるのだろうか。いや、もはや生きるという目的さえ、無くなりかけているのかもしれない。


 バイクの駆動音が空しく響き渡った。 


 その時、突如として、はるか前方から自分のバイクとは違う種類のエンジン音が聞こえてきた。それは新たな刺客の存在を意味していた。涼真の意識は現実の世界に呼び戻される。


 涼真はブレーキをかけ、ゆっくりと停車する。五十メートル程前方に、こちらに向かい合う者がいた。そいつは、フルカウルのバイクに乗り、フルフェイスヘルメットを被って、黒のライダースーツを身に纏っていた。ゾンビロイドではないことは、明らかだ。


 刺客は空ぶかしをして、涼真を挑発しているようだった。


 涼真はバイクを発進させ、すぐ右に曲がった。刺客もほぼ同時にバイクで走り出し、左折する。二人はほとんど、横に並ぶ形で走行していった。


 先に仕掛けたのは刺客のほうだった。腕に装着したボウガンのようなものから、涼真に向けて、小ぶりな矢を放ったのだ。


 涼真はブレーキをかけ、それを回避。彼の目の前を矢が通過していった。そして彼の右側にあったマンションの壁に突き刺さる。数秒後、パンっという音とともに、手榴弾のような爆発が起こり、コンクリートが抉れ、飛び散った。


 拳銃を構えた涼真は、刺客に向けて、引き金を引く。だが命中はしない。その間に刺客は新たな矢をボウガンに装填する。


 涼真のバイクはエンジンの回転数を上げ、一気に加速していく。刺客を振り切ろうとした。しかし、刺客はピッタリと二、三メートル後方につけ、速度が安定したところで、ボウガンを涼真に向けた。


 刺客が矢を放とうとした瞬間、刺客のバイクの前輪が、コンクリートの瓦礫に乗り上げた。そのせいで、ボウガンの狙いが僅かにずれる。その状態のまま、矢が発射された。矢は涼真のバイクの後輪部分に突き刺さる。


 少しして、矢が破裂。後輪が破裂し、涼真のバイクは進行方向に吹っ飛んだ。涼真は素早くハンドルから手を離し、右斜め前方に飛んでいく。彼の体は地面に衝突してから、勢いよく滑るように転がっていき、欄干にぶつかってやっと停止した。


 そこでようやく彼は、さっきまで橋を走行していたことに気づく。


 刺客のバイクのブレーキ音が聞こえてきた。その後、こちらにエンジン音が近づいてくる。絶望の音だ。


 満身創痍の重い体を、何とか持ち上げて、涼真は立ち上がる。そして欄干を乗り越えようとする。鉄の味が口全体に広がり、意識が朦朧とした。


 敵が来る。

 早く逃げなければ……


 涼真は歯を食いしばり、最後の力を振り絞った。そうして、彼は欄干の上から飛び降りた。橋の下には河川がゆるやかに流れていた。ぼしゃん、と着水すると、彼の体は川の中に、沈んでいった。刺客のバイクの音がだんだんと小さくなっていく。痛みと苦しみを感じながら、涼真の意識は薄れていった。


 昔の戦友や、目の前で犠牲になった者たちの映像が、高速で頭の中に流れていった。

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