七月 十四日-家族

 翌日。

 いつもよりも目覚めが悪い。

 体は異様に怠く、動く事を拒否している。事実、何もしたくない倦怠感が体中にしみ込んで動きたくはない。

 虚無感が世界を覆い尽していくように、視界に蓋をしていく。

 何も見たくないし、何も聴きたくない。


 だが、こんな事をしている場合ではないだろう。

 ああ、関係ない。

 昼子が何者だろうと関係ない。

 俺は昼子を守ると決めた、誓った。

 それに嘘偽りはない。

 ない、はずだ。


「だから、ダメなんだ。だから俺は来夜を護れなかったんだ……」


 あの時も俺は、来夜が恐ろしい怪物のような存在であると知って、来夜を恐れた。ほんの一瞬でも来夜を人間ではないと疑ってしまった。よそよそしく接してしまった。俺が気が付かないと思っていても、きっと、そういう思いは感じ取られていたのだろう。

 それが、来夜の死に繋がった。

 俺が、俺自身が信頼を要求したにも関わらず、それを俺が裏切った。

 そうなればもう孤独でしかないだろう。


 またそんな事を繰り返すのか、俺は。

 身勝手な感情で振り回し、一人の小さな儚い命を殺すのか。


 そんなものは嫌だ。


「ああ……そうだ。昼子は、俺が護らないと」


 あの言葉に嘘はないと証明してみせろ。

 本当に俺が、昼子を愛しているのだと世界に刻み付けてみろ!!

 そうでなければ俺のような力だけがデカい凡人が、人を護る事などできやしない。


 意味はない、だがとにかく気合を入れたくて思いっきり飛び起きた。

 昼子と話をしよう。

 そして思いを伝えよう。



「昼子、入るぞ」


 一応ノックはしたが、返事はまたずに無理矢理入った。そうでもしないと話が進まない。

 部屋に入ると、もう朝の十時だと言うのにカーテンも閉まったままで、異様な湿気を生み出していた。寝ていたらどうしようかと思っていたが、どうやら起きていたようだ。


「おはよう。昼子」


 なんの気なしに挨拶をする。

 昼子は目をぱちくりさせて硬直していた。意味が分からないという顔をしている。そんなものは無視だ。分からないなら分からない内にごり押してしまえれば万々歳だ。


「ま、待ってください!! なんっ、何で勝手に入って来てるんですか!?」

「勝手に入らないと入れてくれないだろ」

「な……そんな、強引な。とにかく出て行ってください!! ボクはもう、惣介さんとは……」


 ああ、分かっている。

 俺がそうであったように、昼子も俺との関わり方でずっと悩んでいたのだろう。


 それでも。


「関係ない。昼子が男だろうが女だろうが、んなもんは関係ない!! 俺は『昼子』を守ると決めたんだ、だったらそこに性別は関係しない。それに――


 元より俺は、ヒトのリビドーなどに興味はない。

 来夜を護れなかったあの日から、そんなものはとっくの昔に捨てている。


 そう、俺は――


「俺は昼子が好きだ。ああ、愛している」

「嘘です。そんなの嘘です!! ボクは男で、貴方も男。その間に芽生える愛なんて存在しません。絶対にです!!」


 その激しい剣幕は明らかに怒りの感情を含んでいた。

 だが、ここで退いてはもう後はない。例え目の前に見えている地雷があっても、俺はそれを踏み抜いてでも昼子の心を引きずり出す。


「言葉で信用できないのは当たり前だ。これは異常な感情だ。だとしたら何故、昼子は俺に抱きしめられてあんなに顔を赤くしていた」

「そ、それは……誰だって急に、あんな風にされたら……」

「昼子が俺を好きであるなら、俺が昼子を好きでいてなんの問題がある?」

「それは……」


 ここで引き留めておかなくては、もう二度と、昼子に会えない気さえした。


「――――――っ!!」

「待てよ!!」


 俯きながら逃げ出した昼子の腕に、手を伸ばした。

 虚空を掴む右手。

 フラッシュバックする来夜の死体が、昼子の背中と重なって、俺は得体の知れない恐怖感に襲われる。孤独と絶望が綯い交ぜになって、胸に空洞が開いたような感覚。それを思い出し、吐き気がこみ上げた。


 何をやってる。早く追いかけろ!!


「ああ分かってる……!!」


 恐らく昼子はそのまま家を飛び出ただろう。廊下を走り、階段を駆け下り、玄関へ向かう。その途中で佐久奈が俺に声をかけたが、俺はそれを振り切って家の外へ出た。後ろは振り返らない。

 振り返ったが最後、もうどちらを選ぶ事もできなくなってしまう。


 そう遠くへは行けないはずだ。

 魔術師である昼子が発する微量な魔力を辿っていけばいつかは追いつける。今は落ち着いて、体力を温存しながら昼子が向かっている場所へ先回りをするべきだろう。


 魔力の跡は南側へ続いている。

 あの時のロープウェイがある場所だ。

 場所は分かった。後は急に進路を変えない限りはそのまま南側へ向かうだけでいいだろう。


 と、電話がかかってきた。

 ポケットの中のスマートフォンがから軽快な音楽が鳴り始めて連絡がある事を知らせている。恐らく、佐久奈か……そうであれば、出るべきではない。が、落ち着いていた俺は念の為、スマートフォンを確認した。

 するとそこには――


「姉、ちゃん――?」


 何も不思議な事ではない。俺には姉がいる。その姉から電話がかかってくる事に、何もおかしい事はない。

 俺の家族は……父さんと母さんと、姉ちゃんは、今までどこにいたんだ?

 記憶を失って、それが戻って久しいが、どうやら未だに家族の事を思い出してはいなかったようだった。

 出るべきなのか……? これは。

 そう迷っている間に電話は切れてしまうが、代わりに留守電のを録音する音声が流れ始める。


『惣介ー? まだ起きてないのー?』


 間違いない。紛れもない姉ちゃんの声だ。

 酷く懐かしく聞こえる声を聴いて、いてもたってもいられなくなった。南側へ走りながら電話に出る。


『あ、もしもし? 久しぶりだねー元気してたー?』

「ああ。久しぶりだな姉ちゃん。どうしたんだよ急に」

『えぇー? もしかして忘れたのー? 今日帰ってくるって言ってたじゃんかー。危険だから私達は霧雨丘の外に逃げとけって一年前にここを出てって、今日帰ってくるって約束だったでしょー?』


 そう、だったのか?

 やはりまだ思い出せない。以前までのような思い出そうとしたら頭が勝手に記憶を封じ込めるあの感覚とは違い、ただ本当に思い出せない。

 だがまあ、これは間違いなく姉ちゃんの声だ。それに、今まで家にいなかったのだから、姉ちゃんの言っている事が本当だとすれば辻褄が合う。


「でも姉ちゃん、今ちょっとどうしても手放せない用事があるんだ。もうちょっとだけ待ってもらえないか?」

『えー? マジでー? うーん、そうだなー。じゃあ仕方ない、父さんと母さんに言っとくよ。じゃあ今日は朝霜のホテルだなー』

「待ってくれ、朝霜って……」


 朝霜は今向かおうとしている南側の地区の名前だ。

 という事はもう、この街に帰ってきているのか?


『あー、そうなんだよー。もう霧雨丘には帰って来ててさー、今朝霜のロープウェイの所にいるんだー』

「な、あっと……今丁度そこに向かってんだよ。待っててくれないか?」

『んー? なんでー?』

「理由は会ってから話すから! じゃあ切るぞ!」


 これはややこしい事になってきたな……

 このまま行けば昼子と姉ちゃん達は鉢合わせてしまう可能性が高い。姉ちゃん達にはその場に留まってもらって、昼子がロープウェイ乗り場に辿り着くまでに追いつかなければ。

 それにしても、この違和感はなんだ……?



 走り続けて数分が経った頃、アスファルトの上にへたり込んでいる昼子がいたので咄嗟に手を掴んだ。


「昼子……っ!!」

「は、離してくださいっ!! 私は貴方を騙したんです!! 自分を偽って貴方を誑かした……そんなボクに貴方といる権利なんてないんですっ!!」


 昼子は暴れている。だが、疲れ切った少女の抵抗など赤子の手をひねるように簡単に羽交い締めにできた。周りの目など気にするか。


「違う。俺は騙されてなんかいない。俺は昼子、お前を自身を好きになったんだ。ああ、何度だって言う。俺は昼子を愛している」

「そんなの……詭弁じゃないですか……なんで、そこまでボクの事を……」

「なら、逆に訊こう。昼子は俺が嫌いなのか?」

「――っ……く、そんなの、卑怯じゃないですか。卑劣です……野蛮です……ボクは、ボクは――っ!!」



「ボクは、お兄ちゃんの事が大好きです……だろ? 日向ひなた



 全身の細胞が悲鳴を上げる。

 沸騰する神経が、この場が危険だとシグナルを鳴らす。だが、その体は硬直し、動かない。あまりにも大きすぎる恐怖で、体が動かせない。嫌な汗が体中から溢れ出てきて服が肌に張り付く感覚が気持ち悪い。


 まるで空間全てを粘着質の黒い物体で埋め尽くしたかのような恐怖の発生源は、いつの間にか目の前にいた男だ。

 俺は、この男に見覚えがある。

 君が悪いくらいにニコニコと、それでいて無邪気な子どもような笑顔。


「お前は……」

「久しぶりだな、愛しの惣介。丁度、一年と七日ぶりか……今でも思い出すよ。一年前の七夕で、来夜の死体を前に絶望するお前の顔。アレは今でもお気に入りだ」


 冷存零士。

 ああ、完全に思い出した。

 コイツが、来夜を殺した張本人だ。


「いやぁ、惣介が記憶喪失になったと聞いた時はショックだったよ……オレの事まで忘れてしまったのかと、その日は眠れなかった。だが何もしない訳にもいかない。オレはお前の記憶を取り戻す為に色々と頑張ったんだ。

 例えば……そうだな、未来への干渉で間接的に惣介の記憶を阻害していた、邪魔な女……ギィエルミーナだったか? ソイツを殺したりな」

「お前が、ミーナ先生を殺したのか……!」

「その感情はダメだ。折角の昼子に対する美しい感情が台無しだ。女など、男の隣にいるだけの使い捨ての飾りに過ぎん。オレはな、惣介。お前がもっと昼子を愛するところを見ていたいんだ……! 生命原理を否定した、男が男を愛する美しい感情を……オレにもっと見せてくれよ」


 やはりコイツは異常だ。今の俺は、あまり人の事は言えないが、それでもこの男は異常だ。

 何よりそんなくだらない理由でミーナ先生を、来夜を殺した事を、絶対に許す訳にはいかない。

 あの時は逃げられたが、今は違う。今の俺には亜冷存の力がある。今ここで殺さなければ、昼子も来夜のように……


「ん……何か、勘違いをしているようだな」

「なんだと……?」

「オレは日向を……そうか、今は昼子だったな。昼子を殺したい訳じゃない。むしろ愛おしい弟である、家出した昼子を迎えに来たんだ。ああ、来夜は邪魔だったから殺しただけだ。アイツはすぐに昼子にくっついては、オレの邪魔をしていたからな。思い出すだけでもウザったい。

 さあ、昼子……いや、日向。オレと一緒に帰ろう」

「ふざけないでください……ボクをその汚らわしい名前で呼ばないでください!!」

「いけない子だ。まあ、俺は日向でも昼子でもどちらでもいい。お前が返ってきてくれればそれでいい」

「ああああああ――っ!!」


 何かが爆発したように咆哮した昼子は、零士に向かって駆けだそうとする。


「待て昼子……! お前が戦っても勝ち目はない! 下がってろ!」

「離してください……!! 母さんの、母さんの仇を取らないといけないんです!!」


 やはり、冷存雪子アレイゾンが死亡し、堕天使と化すほどに世界を憎んだのも、冷存零士が原因だったのか。

 とにかく今は、昼子を安全な場所へ移動させなくてはならない。

 ロープウェイの方向へ行く訳にもいかない。来た道を戻りながら逃げるか……


 そう、思案している時だった。


「グルハウチェ、出番だ」

「ふん……くだらん茶番だ」


 いつの間にか冷存零士の後ろに立っていたグルハウチェが、不意打ち気味に俺に対して剣を振り下ろした。

 昼子を抱えながらギリギリそれを避けるが……この立ち位置は逃げるなら南側へ走るしかない。

 道は一本道で、横へ逸れるにはもう少し戻らなくては道はない。


「くっ……仕方ない」


 無論訳を話している暇はないが、姉ちゃん達と合流して昼子の事は任せるしかない。やめたとは言え元魔術師の夫婦だ。雲隠れするくらいはなんでもないはずだ。

 昼子をお姫様抱っこしたままロープウェイ乗り場がある方へ駆けだす。もうそれほど距離はない。少し走っただけで駐車場が見えてきた。

 ロープウェイ乗り場の少し前に、姉ちゃん達が立っていた。


「姉ちゃん……!!」

「そんなに慌てて、何かあったのー? って、その子誰ー?」

「何かあったのか、惣介」


 父さんの何かを察した声色に、天然な姉ちゃんの顔も少し強張った。


「話してる暇はないんだ。すぐにこの子を連れてここから離れてくれ……!!」

「……惣介。こう見えても私は魔術師の端くれだ。あの時は事態が事態で逃げるしかなかったが、今は違う。私も加勢しよう」

「父さん……」

「母さん。話の通りだ。この子を頼んだ。お前もだ」

「分かりました。あまり、無理はしないでね、惣介」

「そうだよー、また一緒にゲームしたいからさー」


 なんだ……なんなんだ? この違和感は?

 違う。何が違うのかが言葉で表せないが、何かが決定的に違う。


「どうした惣介? 顔色が悪いぞ」


 目の前にいるのは間違いなく、俺の父さん、母さん、そして姉ちゃんだ。それは間違いない。

 なのに、何故だ……?


「急いでいるんだろう、早くその子をこっちへ」

「どうしたの? 惣介」

「様子がおかしいよー?」


「違う……お前らは、本物じゃない……」


「何を言っているんだ惣介。私達はお前が、助けたい人がいるが、危険だから街の外へ逃げてくれと言ったからそうしたんじゃないか」

「あなた、本当にそうだったかしら?」

「なんか、もう少し違ったような気がするなー」


「やめ、ろ……」


「ああ、そうか思い出した。惣介は、来夜を護る為に、私達を見殺しにしたんだ」

「そうだったわね。来夜ちゃんはその体の中に『怪物』を宿していた。定期的に人を殺さなくては暴走してしまう呪いがかかっていた」

「ある時、抑え込むのに限界が来たんだよねー。それで、仕方なく私達を生贄に使った」

「分かっている。それは仕方のない事だった。そうしなければきっと、街のみんなにも被害が出ていたに違いない。それは、一度その場面を見た惣介が一番分かっていた事だった」

「でも、何故私達だったの?」

「そうだよねー。なんで、家族であるはずの私達だったのかなー?」

「それは、近くにいたからだ。封じ込めが限界に達していたその時、丁度来夜ちゃんは自宅にいた。私達も全員、自宅にいた。丁度よかったんだ。今すぐに発散する為にはな」

「そんな理由で、私達は殺されたのね」

「仕方なかったって、言い訳してたよねー」


「本当に、仕方なかったんだ……本当に限界だった……あのまま放っておけば、本当に、霧雨丘を全滅させていた……だから、仕方なかったんだ!!」


「分かるか? どれだけ痛かったか」

「どれだけ苦しかったか」

「どれだけ、怖かったか」

「裏切られ殺される気持ちを」

「見捨てられ殺される気持ちを」

「そうでもして見殺しにした癖に、結局助けられなかった」

「なんの為に私達は死んだ?」


 父さんと、母さんと、姉ちゃんの体だったものは、元々そういう風に作られた人形だったように、


 頭が潰され脳髄がはみ出た、顔以外が肉片になった、血まみれの肉細工と化していた。


「ああ……ああああああ……」

「いい顔だ。惣介……わざわざコイツ等の肉体を作り直した甲斐があった」


 いつの間にか目の前には、冷存零士が立っていた。

 音もなく、元からそこにいたように。


「だが、お前と遊ぶのもこれが最後になりそうだな……残念だが、オレは日向を連れ帰らないといけないんだ。きっと、オレとお前は相容れないだろうからな。さあ、日向」

「誰が……!!」

「よく考えろ日向、誰のせいで惣介がここまで傷付いたのかを。お前が逃げ出したりしなければ、惣介はこれ以上心に傷を負う事はなかった。お前が、余計な事をしたからだ」


 ダメだ、こんな事をしていては……昼子を護らないと……昼子を……!


「元はと言えば、日向が惣介の前に現れなければ、厭佐久奈が苦しむ事もなかったのだぞ?」


「違う……昼子のせいじゃ、ない」


「考えれば分かる話だろう。これ以上、尭土井惣介に迷惑をかけない為に、お前がとるべき行動は?」

「ボクは……」

「じゃあこう言い換えようか。お前がオレの元へ戻ってくれるなら、これ以上、惣介には干渉しない」


 昼子はゆっくりと立ち上がった。

 冷存零士の方へと、歩き出した。


「昼――

「ごめん、なさい。ボクが、迷惑をかけて」

「さあ日向、口に出して言うんだ。惣介に聞こえるようにな。『ボクは大好きなお兄ちゃんと一緒に家に帰ります。もう二度と、貴方の前には現れません』」

「なんでそんな――

「言え」

「っ……ボクは、大好きなお兄ちゃんと一緒に……

「声が小さいなぁ! そんな声じゃ惣介には聞こえないんじゃないかぁ?」

「ボクは……!! 大好きなお兄ちゃんと一緒に、家に帰ります。もう二度と貴方の前には現れません……!!」

「よく言えました。じゃあ、帰ろうか。オレの日向。ああ、グルハウチェ、後は好きにしろ」


 止めようと前に出た俺を、昼子が睨み付けた。

 何も言えない。

 何もできない。


 昼子の背中は少しずつ遠ざかっていき、やがて、見えなくなった。


「尭土井惣介。同情するよ」


 そう告げて、グルハウチェは姿を消した。


 雨が降り始めた。

 通り雨だろう。急に振り出しては、土砂降りになった。

 雨の音がずっと、耳に張り付いている。

 何もなくなった、ただ虚無になっただけの俺のなかに、永遠に雨音が響き続けた。

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