七月 十三日-True or lie?

「今日の晩飯もうまかったぞ。昼子」

「ありがとうございます」

「私に言わせればまだまだだね。頑張った方だと思うよ」

「アリガトウゴザイマス」


 ご飯の後は最早恒例行事と化した昼子と佐久奈の言い合いタイム。見ていて心がほっこりささくれ立つので、昼過ぎにやっているサスペンスを見ているようで、見ているだけなら面白い。


「じゃあ、食器片してきますね」


 食器を運んで台所へ向かう昼子。その背中を俺と佐久奈はじっと観察し、流し台の水音が聞こえだしてから話し始める。


「佐久奈は洗濯物を取り込んでくれ。俺は風呂を洗ってくる」

「分かった」


 昼子が家に来て六日が経った。

 それまでに色々……本当に色々あったが、今まで俺がやっていた家事をいつの間にか昼子が全て担当していた。

 手伝おうと風呂へ向かうと既に沸いていて、手伝おうと庭へ出るといつの間にか洗濯物が綺麗に畳まれてタンスの中にしまわれていたり。

 守られているだけなのが嫌なのはなんとなく分かるのだが、それにしても頑張りすぎだと感じる。

 任せっきりのままでは男として情けない。佐久奈とも協力して、昼子の気が付かない内に家事を終わらせてやろうという作戦だ。


 それに、実兄の事を話した辺りから様子がおかしい事もあった。

 そんな精神状態の中で無理をしていては心労で倒れてもおかしくはない。そんな事があった日には、俺はすぐさま地獄へ落ちるべきだ


「よし……これで大丈夫だ」


 浴槽の四隅や側面、壁から棚まで完璧に洗えたはずだ。

 今日は、昼子に先に入ってもらおう。ああ、それがいい。


 風呂場から出てリビングに向かう。

 どうやら洗い物はまだ終わっていないようだ。


「佐久奈、どうだ調子は……あぁ、そうか」

「ごめん惣介……私、綺麗に畳めない……全部部下にやってもらってたから」


 普段は微塵も感じられないが、そう言えばお嬢様と言って差し支えないんだな佐久奈は……


「それは俺がやっとくから、佐久奈はこの部屋を片付けておいてくれ。畳んだヤツをタンスに入れる役目は頼む」

「分かった!」


 そうして、なんとか昼子に気が付かれないようにドタバタとその他諸々の家事を終わらせて、洗い物が終わる頃には何事もなかったかのように俺は椅子に座って本を読んで、佐久奈はソファに座ってテレビを見ていた。


「あ、お風呂入れないと……」


 洗面所へ向かう昼子を佐久奈と一緒に後をつける。

 風呂場に入り、浴槽の蓋を開けて驚く昼子。

 その背後から声をかける。


「風呂はもう入れたぞ」

「ひゃあっ!? い、いきなりどうしたんですか? というか、もう入れたって……ああ、やってくれてたんですね。ありがとうございます。でも、どうして?」

「最近、頑張りすぎだなって思ってたからさ。それに、ここは俺の家なんだから、俺には遠慮してくれ。少しでも大変だと思ったのなら俺に頼んでくれ」

「惣介は信頼してほしいんだってさ」

「ば……っ、馬鹿んな事言ってないだろ!」

「言ってる言ってる。『俺がお前を護ってやる。だから全部俺に任せとけ』って意味だよね?」


 少女漫画の主人公が惚れた男のセリフかッ!!

 と、ツッコミたいところだがご生憎様、あまりの恥ずかしさに脳がオーバーヒートして言葉が出てこない。

 正直なところ、そうは思っていないと言えば嘘になるのは確かだ。

 しかしそんな事を言ってしまえば、一歩間違えれば好感度が地の底へマントルを突き破って反対側へ抜けるくらいに落ちてしまう可能性も……と思い、恥ずかしさで直視できていなかった昼子の顔色を伺うと……


「あ……そ……え……」


 昼子は口をパクパクさせたまま、リンゴのように頬を紅潮させていた。

 横目で佐久奈を見るととても悪い顔でニヤニヤと俺達を眺めていたと同時に、俺に『さっきのセリフを言えよ』と目が告げていた。


 俺の脳内の一人が複雑だと言った。

 他でもない佐久奈が、何故俺に昼子に対する好意を伝える事を勧めるのかが分からなかった。


 俺の脳内のもう一人は、ここを逃してはならないと告げていた。

 ここを逃せば、ほんの少しの心のすれ違いが大きくなり、離れてしまいかねない。昼子の不安は解消されない、と。


 俺は――


「俺がお前を護る。だから、俺にお前の全てを任せろ」

「は……ひゅ……」


 俺に抱きしめられた昼子は過呼吸になったように喉の奥を鳴らしていた。

 重なり合う鼓動が互いの思いを加速させる。力が抜けていた昼子の腕が、俺の背中を強く抱きしめた。

 涙を流す昼子は、俺の腕の中で泣き続けた。

 時間が進む事を忘れるほどにただ泣き続けた。



 今日は、昼子が最初に風呂に入って欲しかったので、泣きつかれて元気になった昼子にそう勧めた。


『そんな、ダメですよボクが最初なんて』


 とか言い出したので、


『お前の為に入れたんだ』


 と言ったら素直に入っていった。

 やはり複雑だ……


「いや~いいもの見せてもらったよ、惣介」


 ヘラヘラと笑っている佐久奈。

 佐久奈が何故、俺が昼子に対する好意を伝える事を勧めたのか、全く分からない訳ではない。

 だがそれはあまりにも惨い。

 今まで俺が佐久奈にしてきた事へ回帰してしまう。


「なあ、佐久奈」

「分かってるよ。でもね、私は惣介の幸せが一番だと思ってるの。だからこれでいいの」

「いい訳がないだろ。他人の幸せの為に、お前の幸せを蔑ろにするなんて――


 そう言いかけて、佐久奈が笑っていた。

 喜んでいる? 怒っている? 悲しんでいる?

 鮮やかなマーブル模様の絵の具に、黒を混ぜてしまった時のように、佐久奈の表情の色はぐちゃぐちゃだった。


 いいのか……このままで。

 このまま続ければ、いつか天秤の上の佐久奈は落ちてしまう。今ですら昼子に傾いている。

 俺は選択をするべきなのか?

 それとも、現状維持を望むべきなのか?


 分からない。分かりようがない。分かりたくもない。

 それはつまり俺の選択一つで一人の人間を実質的に殺してしまう事に他ならない。

 俺が昼子を選べば佐久奈は永遠に幸せになれない。

 一方、俺が佐久奈を選べば、昼子はまた恐怖と孤独の底へ堕とされてしまう。


 どちらも選ばなければ、その両方の結末が訪れるだろう。

 そうならない方法を見つければいい。

 だが、俺には佐久奈は、まるでそれを拒否するかのように見えてしまう。

 まるで俺が昼子を選ぶように差し向けているかのように感じてしまう。


 偽りの愛はいらないと。


 俺が誰を好きなのかを、考えろと告げているようで。

 それはつまり、俺自身がそう思っていたのだ。


 どんなに佐久奈を傷付けようとも、どんなにそれを後悔しようとも、どんなに懺悔を繰り返そうとも、俺は佐久奈を好きではなかった。

 好きにはなれなかった。


 昼子が好きだった。


 自分を殺してやりたいほどに憎い。

 だがそれ以上に、こんな心を創った神様をぶん殴ってやりたかった。


「別に、私が死ぬ訳じゃないんだからそんな顔しないでよ。また難しい事考えてたの? そんな泣きそうな顔して」

「し、してねーよ!!」

「してるってー。もう、ほんっと惣介は可愛いなぁ。そんなに心配しなくても、惣介が、私達三人でいる事が幸せだと思ってる事くらい分かってるから。でも、守らないといけないのは昼子ちゃんなんだからね。それだけは間違えないで」

「……分かってる」


 今は、このままでいい。

 いや、いつまでもこのままがいい。

 この楽しい時間を壊したくはない。

 今はただそう思う事しかできなかった。


「さ、私は部屋に戻るから、惣介は昼子ちゃんを待ってないとダメだよ」

「ああ」


 リビングには俺一人が残った。

 今の俺にはこの部屋は広すぎてどうも落ち着かない。


 気が付くと洗面所の前に立っていた。


「何やってんだ俺は……」


 自分の行動にため息をついて、洗面所の扉にもたれかかった。

 とは言え、他に何をする事もない。

 ただ待つという事がこんなにも苦痛だと初めて知った。

 まあ、だからと言って女の子が風呂から上がるのを風呂の前で待つのはいささか通報案件だ。

 ああ、すぐに離れよう……


 そう、思った瞬間だった。


『ふぅ~』


 風呂場の戸が開く音が聞こえたと思ったら、昼子が出てきてしまったのだ。幸い、俺がいるのは洗面所の前。廊下の洗面所は横開きの扉で隔たれているのでまだ気が付かれてはいない。

 だが、思わずその扉にもたれかかってしまっていた為に、もし今動けば扉が揺れて昼子に気が付かれてしまう。


 それだけは絶対に避けなくては……

 だがどうする?

 早くしないと昼子が出てきてしまうぞ。いや、少なくとも着替えるまでは時間があるはず――


 待てよ……


『あれ? 着替えがない……ああ、そう言えば持ってくるの忘れてたなぁ』


 取り込んだ洗濯物は全て佐久奈がその持ち主のタンスへ戻したはずだ。

 そして、昼子は風呂に入る前に自分の部屋から替えの下着や寝間着を持って洗面所へ向かっていた。

 だが、俺達が先に入るように急かした事で、持ってくるのを忘れていた。


『どうしよう……こればかりは頼む訳にも……』


 よし、という声が聞こえ、扉がスライドされていく。

 言わずもがな、どうにもできずに、しかもパニックになってもたれかかっていたままだった俺の体は、洗面所側へ倒れていく。


 すると、どうなるか……?


「あ」

「え……?」


 刹那、視界が肌色に染まったように感じた。


 だが、俺の脳内に生まれた感情は、恥じらいや煩悩ではない。

 疑問符。

 目の前の、奇異な状況を、俺はどうしても受け入れる事ができなかった。

 そこにあるはずのものがない。

 そこにないはずものがある。


 冷たいと思って食べたアイスクリームが、もし火傷するほどに熱かったら、きっと同じような反応をするに違いない。



 そして、今がその時だ。


「出て行ってください」

「昼子――

「出て行ってください!!」


 凍り付いた思考では、今の状況を反芻する事すら俺にはできない。

 締め出された俺はただ、自分の部屋へ戻る事しかできなかった。


 部屋の窓を開けて、夜風にその身を当てる。

 ようやく思考は落ち着いた。

 だが、何を考えればいいのかが分からない。


 昼子は男だった。

 だからどうした?

 それが、俺が昼子を護る事になんの影響も与えもしない。


 だが、分からない。

 分からない。


 何故昼子は、俺に性別を偽っていたのか……


 今思えば、あの時デパートに下着を買いに行った時からその予兆はあった。

 もっと早く気が付いていれば。

 気が付いていれば、なんだ?


 まるで、一度好きだと思った相手が男であったという理由で、その好意が間違っているものだと一瞬でも思ってしまった自分を、激しく嫌悪した。


 この日は、この後昼子に出会う事はなかった。

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