七月 十日-壊れた人形、ガラスの中Ⅱ

 そう、あれは何もない、本当に何もおかしなところなんて無かった頃の俺達だった。

 尭土井惣介という少年と、厭佐久奈という少女は、その当時まだ小学生にもなったばかりの子ども真っ盛りの時期だった。

 『産まれた時から一緒だった』、と言うのは決して誇大表現ではない。尭土井と厭の家は大昔からずっと親交があり、俺達の両親もその例に漏れず、仲が良かった。そして俺達も、この世に生を授かったすぐ後、病院にいる時もずっと二人で遊んでいたと母に聞いた。


 その時はまだ、『秋綾教』の存在も、佐久奈がそうである事も知らなかった。

 そしてその日も、俺は佐久奈が父母と住む家にお邪魔してままごとか何かをして遊んでいた。

 本当にそれだけだ。

 今までずっとそうだった。おかしな所などどこにもなかった。それは佐久奈の父と母にしてもそうだ。人間としてはとても真面目で、娘の事を第一に考えていた親の鏡のような人達だった。俺も数え切れないくらい世話になったはずだ。

 そう、どこにも、どこを見渡しても綻びなどたった一つも存在しない完璧に幸せな人間としての風景。

 佐久奈の母は笑っていた。時々俺達の話題に混ざりながら、子ども達の姿を見てとても幸せそうな笑顔だった。


 そして、首を吊って死んでいた。


 唐突に、ほんの少しの前触れさえなく、自ら命を絶っていた。


 そこから佐久奈はどこかが壊れた。度々俺に対しての過剰なスキンシップを行うようになった。

 そして恐らく、その時から俺は『死』が怖くなったのだと思う。


 その後に知った事だが、『秋綾教』は教義を信じる宗教だった。

 ふと、何故かギィエルミーナを思い出した。


 人の宗教をとやかく言うつもりはないが、それで一人の人間の心が壊れ、苦しんでいるのだと思うと、憤りを感じずにはいられない。死を重んじる事など異常極まりない。死後を知る方法がない限り、死とはどこまで行っても虚無であり、無意味な生理的現象に過ぎない。生物が産まれながらにして背負った唯一バクテリアに劣る弱点、それが死だ。いずれ訪れる死なら受け入れよう。だが、人為的に起こされた死など、一体どれほど非生産的で無価値であるか。


 だが、違和感があるほどに落ち着いた精神の中、一つだけ疑問に思った事があった。その事について、俺は何かを忘れているはずだった事。

 俺が、佐久奈を庇って誰かを咎められるのか? と。



「――さん……! 尭土井さん!!」



 あ……?

 そう言えば俺は気を失っていたのか。『失っていた』と言うよりも『夢を見ていた』と表現する方が正しいか。とにかく俺の意識は覚めたようだ。


「よかった……急にこと切れたものだから本当に心配しましたよ!」

「あ……あぁ、ありがとう。もう大丈夫だ」


 いつの間にか頭痛も消えていた。何かを思い出す時に現れた頭痛だが、どうやら一年前以前の記憶には現れないらしく、ついでに元の頭痛も治してくれていた。

 それにしても、またもや昼子に迷惑をかけてしまったようだ。


「ところで昼子。ここは、どこだ?」

「それは、ですね……」


 妙に暗い色の部屋。窓はなく、光が入ってこないせいか天井に灯された淡い電球の光が部屋を薄オレンジで照らし出し、まるで魔女が鍋をかき混ぜているような雰囲気を感じた。何せ、この部屋の壁にはおどろおどろしい幾何学的な紋様か何かが刻まれていたり、風をひいた時の夢に出てきそうな絵のポスターが張られていたり、棚に頭蓋骨が置かれていたりたと、これでもかと言うほど悪趣味なのだ。魔女的なものを連想しても無理はない。


「久しぶりだね、惣介君」


 渋る昼子に代わるように、俺の真後ろから声が聞こえた。突然感じた気配に思わず飛び退いてしまう。


「いや、すまない。驚かせるつもりではあったけど、まさかそこまで警戒させるとはね……おじさん少し傷付いたよ」


 いう言いながらも、その顔は不敵に笑っている。まるでこちらを見透かしたかのように。

 背は高く、灰色のスラックスに白いワイシャツの裾を入れた服装の、普通のサラリーマンのような男性だが、張り付いた笑顔は仮面のように微動だにしない。


「僕も佐久奈のあの行動はここから見えていたからね、そろそろ来る頃だと思っていたよ」

「知っていたなら何故来なかった!! お前が来ていれば――」

「僕にも仕事があるからね。それに、惣介君は知らないようだけど、佐久奈はギィエルミーナ・セナに既に助けれていた。僕がわざわざ出向く必要はどこにもなかったよ」


 ここで、ギィエルミーナの名前が出た。

 だとしたら、やはりあれらの記憶の改編はアイツによるものである事は十中八九確定した。

 だが、


「助けた、ってのはどういう事だ」


 勢いを詰まらせて出た俺の疑問に、笑顔の仮面を被った男の口角が、楽しそうにつり上がった。

 俺はどうも、あの日からこの男の事は受け付けないようだ。


「何がおかしい!」

「いやいや、馬鹿にした訳ではないよ。ただ、懐かしくてね。君がこうして僕に頼ってくれるのがただ嬉しいんだ。あれ以来会わなくなってしまったからね」

「いいから早く話せ」


 今にも右拳が出てしまいそうな俺の様子を一瞥して、佐久奈の親父は元の笑顔のまま話し出した。


「さてどこから話そうか。そうだね……佐久奈はね、君の事が好きなんだ」

「っ……」

「まあ、薄々気が付いてはいただろうけど」


 産まれた時からずっと一緒。仲の良かった幼馴染だ。そういう感情がいつか芽生えないはずはないだろう。


「だが俺は――

「まあ話をまず聞きたまえ。その始まりは恐らく佐久奈が小学一年生だった頃かな? 僕の妻が死ぬ一年前くらいか。君は知っているかな。代々尭土井と厭の家は親交が深かった。僕達の先祖はね、より優秀な魔術師の血を残す為に互いの子どもを結婚させ、子どもを産ませていたんだ。許嫁ってやつだね。まあもちろん、できない時もあったけど、そうやって今日まで優秀な魔術師の血というやつを受け継いできた。おや、初耳だという顔だね」

「当たり前だ。父さんからはそんな事一言も聴いていない」

「だろうね。君のお父さんはその代で魔術師としての限界を感じ、引退していたからね。君は確かに才能はあったが、もう普通の人間として生きていきたいと君のお父さんが申し出たからね、僕は快く受け入れた。そうなれば、許嫁の話もなかった事になるねと。でももうその時には僕は、許嫁の話を佐久奈に言ってしまっていたんだ。すると、どうなる?」

「どうって、言われても……」

「佐久奈はこう思ったはずだ。このままいけば惣介と一緒になれた。だが許嫁の話がなしになれば、その可能性が低くなると。その後に僕の妻が死に、君は僕達に対しての不信感を露わにし始めた。そうしていつしか疎遠になった……けど、佐久奈は諦めずに君に会い続けた」


 佐久奈がおかしくなったのは、確かにその時からだ。だがそれは、一般人からすれば異常な教えから母が死んだ事からそうなったのではないのか? この男の話し方は何か引っかかる。


「君は佐久奈をどう思っていた?」

「俺は――


 佐久奈の親父は俺の取り繕う言葉を遮った。


「君は佐久奈を嫌がっていた。まあそれは仕方ないけどね。普通の人間として普通の反応だ。だがそれで佐久奈は傷付いていたはずだ。だって佐久奈は、君と仲良くしていたかっただけなんだからね」


 何も言い返せるはずもない。

 本当に何もかも見透かしているかのように、コイツはその通りの事を話しやがる。

 俺が佐久奈を避けていて、それで佐久奈は傷付いていた。俺はそれを分かっていた。だが、これ以上深く関わりたくはなかった。佐久奈はあくまで知り合いで、それ以上でもそれ以下でもない。決して親しい間柄ではなく、ただ話すだけの友達。俺はそれでいいと思っていた。だが佐久奈はそうではなかったのか。

 いや、佐久奈の好意も、コイツの言う通り気が付いていたはずだ。佐久奈と一緒にいる事が、恐かっただけだ。


「結論を言おう。佐久奈がこうなったのは君のせいだ。切っ掛けは僕かもしれないが、完成させたのは君だ」


 俺に、佐久奈を庇って誰かを咎める権利などない。俺は既に佐久奈を捨てていたんだ。俺の中に佐久奈はいない。そしてこれからも、関わる事はないのだろう。だがそれではあまりにもむごすぎる。佐久奈は今まで一人で苦しんでいた。佐久奈に友達はいない。そうやって佐久奈を傷付けておきながら、俺は佐久奈に同情を、信頼を寄せていたんだ。佐久奈をいいように扱って、騙して、まるでそれじゃ……


「だったら、言ってくれればよかったじゃねえか! 言ってくれればそこで理解わかれただろうが!!」

「言える訳がないだろう。佐久奈は君の思い人だった子を自分が殺したと思っているのだからね。それに、簡単に言える言葉ではないよ。他人への好意の意思はね」

「……待て、殺したと思っている、だと? じゃあやっぱり、佐久奈が殺した訳じゃないんだな!」

「さてね。それは本人から聞いてみればいいんじゃないかな?」

「んな事できるわけ――

「今更、傷付けるのが怖いと?」


 何も言い返せない。

 全て悪いのは俺だった。俺が佐久奈を傷付けていた。それであんな事になったのだ。

 俺の中にあった怒りはいつの間にかなくなっていた。

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