七月 十日-壊れた人形、ガラスの中
「
「大丈夫だ……それに、これは今すぐでも知りたいことだ。一秒でも早く知らなくてはならない事なんだ」
辛うじて歩く俺の肩を持つ昼子。
現在時刻は午後七時。さきほど学校から帰宅し、着替えてそのまま家を出た。俺の住んでいる地域は東側の『
北側は喉かな畑が広がる田舎町で、民家は農家の方のものが両手の指で数え足りるほどに人気は少ない。五月雨を更に北に進んで緩やかな山を登ると数百段の階段を上った先には人の寄り付かない神社がある。その北西にはロープウェイでも行ける牧場があるので、そちらはこの街の人間には人気のようだ。
そして、俺が用があるのは北側の五月雨町にある『
俺はそこで佐久奈の親父さんに訊かなければらない事がある。今まで避けてきたが、あんな事があれば仕方がない。
「やっぱり今日はやめておいた方がいいと思います。もうフラフラじゃないですか!」
そう、ギィエルミーナと対峙した際のあの脳がミックスジュースになるような強烈な頭痛がまだ収まっていない。あれよりはマシだが、未だに頭の中がガンガン鳴っている。
「今知らなければ、もう二度と知ることができないかもしれないんだ。俺の記憶は一年分消えている。気のせいだと信じたいが、お前と出会った数日前の記憶も既に薄いんだ」
「え……」
「いや、気のせいかもしれないから気にするな。ただ、記憶がないってのが怖いんだ。もし全部の記憶がなくなって、自分も忘れてしまったら、それは死んでいるのと変わりない。それだけは絶対に嫌なんだ」
死んだら終わりだ。
死は生物に永遠の無を齎す恒久的な生殺し。そこから先は何もなく、それ以前へも戻れない。ソイツの全てが無へ還り、右も左も上も下もただただ何もない無だけしか存在せず何も存在しない。
それが怖い。
死んだ後のことが何も分からないから、その後を俺は無だとしか考えることができなくなっている。
死んだら、もう、何も残らない。
だから俺は死にたくない。
どんな形であれ、俺が俺を自分だと思っていることをずっと認識し続けていたい。
「チッ……ビビりやがって、クソッたれが」
「口が悪くなってますよ」
「ああ……自分が死ぬほど情けない。という訳でだ、今帰る訳にはいかないんだ」
ほんの少しだけだが足に力が戻ってきた。腕の筋肉にも力が入ったのを感じ取ったのか、昼子はもうそれ以上は何も言わなかった。
「あったあった……タクシー乗り場」
「この街ってバス会社とか無かったんじゃないですか?」
「タクシーはあるんだよ。数台だけらしいけどな。でも最近需要が増えてきたしえで供給が足りなくて高いんだよなぁ。金はあるからいいんだけどさ」
あったあった、とタクシー乗り場に停めてあったタクシーに乗り込む。
「五月雨までお願いします」
「はーいありがとうございまーす」
軽めのノリの若い男性の運転手だった。
俺と昼子を乗せたタクシーは北に向かって動き始める。
「五月雨のどこまで行きましょう」
と、運転手が聴いてきた。ごもっともだ。そう言えばどこへ行くのかが抜けていた。だが――『秋綾教』は霧雨丘の街でも得体の知れない存在として避けられている。
今はギィエルミーナの魔術か何かで意識を操作されているせいか仲がいいが、本来は厭佐久奈に俺以外の友達はおらず、そもそも学校中でもかなり浮いた存在として恐れられているくらいだ。
そこに行くと言うのがいささかはばかられる。
「どうしました?」
「秋綾教のビルまで……お願いします」
「え……? 秋綾教、ですか? わ、分かりましたけど、どうして――
「余計な詮索はやめてください」
案の定ぎこちない反応をした上に余計な事を訊こうとしたものだから釘を刺すと、それ以上は何も言わなくなった。
「あ、ありがとうございましたー」
ひきつった苦笑いの運転手を尻目に俺は『秋綾教』のビルを深く睨み付ける。
中に入り佐久奈の親父に訊くまでもなく、記憶は一人でに頭の中から沸き出した。
そしてそれと同時に、糸が切れたように俺の意識もふっと途切れた。
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