七月 十日-イレギュラーな存在
今宵も月がキレイだ。こんな夜は懇意の男性と口づけでも交わしたいところだが、生憎のところそんな相手はいない。いたとしてもとっくの昔に亡くなっている。
夜風に当たりながら今日のことを考えていると、階段の方から足音が聞こえた。まだ屋上のドアは治っていない。それを見て佐久奈が驚いた顔をしている。
「先生、これはどうしたんですか?」
「ああ……物をぶつけちゃって金具が壊れたからいっそのこと外したの。ほら、元々ボロっちかったでしょ? だから、ね」
「はぁ……そうですか」
腑に落ちない、と言いたげだったがそれ以上の言及はないようでなにより。
「それはそうと、肩の怪我はもう大丈夫?」
「肩……? ああ、はい。おかげ様でもう強く動かしても痛みはありません」
「そう、よかった……」
佐久奈が昼子を襲いだしたと知った時は向こう二百年分くらいの命がなくなったかと思うくらいに驚いたが、意識の改竄が間に合って本当によかった。あのままでは佐久奈はもう本当に死ぬしかなくなってしまうのだから。それではこの世界を救えない。破滅の未来を変える為には佐久奈が必要なのだ。
「まだどこか痛むなら、ゆっくり休むのよ。夜の間はずっとここにいるから、何かあったら私に言って?」
「先生は……先生はどうしてそこまで私を気にかけるんですか? 昨日だって……」
そりゃあ先生だからよ、と言おうとしたがうーむ、と思案。どうもこうも佐久奈の顔はとても真剣だ。いつもの決まり文句で誤魔化すのもいかがなものか。
「何というか……佐久奈さんは昔の私に似ているのよね」
こういう話はあまり好きではないのだが、この流れからしてこれが最適解なはずだ。寒いと言われたらもう死ぬしかない。
「昔……昔と言っても三百二十年くらい前かな? 好きな人ができてね。でもまあ、立場的な色々ごたごたがあって、思いを伝えることはできなかった。私には使命があったし、なんともできなかったのよね」
あの時はまだ、人間らしいことへの未練はほんの少しだけだが残っていた。だから心は揺れたし、使命なんて捨てて駆け落ちしてやろうとも考えた。だが結局、それはまた今度、後で考えようとしているうちに……
「思いを伝えることだけでもできたかもしれないのに、後回しにしているうちに、彼はもう寿命を迎えて死んでいた。私はもっと生きる必要があったから一緒に死ぬこともできなかった。使命は本当に大事だけど、たった一つだけ今でもこのことは後悔してる。『好きだ』と一言だけでも言えばよかったとね。
こういう言い方はあまりにも自分勝手だけど、佐久奈さん……あなたにはそんなことで後悔してほしくない。たった二文字だけのせいで一生悔みながら生きるなんて馬鹿馬鹿しいでしょ?」
「先生……」
「好きなら好きと言わないと、ね? 惣介君だって男の子なんだからさ。強く押せばいけるわよ、きっと」
もじもししている佐久奈を見ながらニヤニヤする。これでご飯三杯はいける。なんて冗談は置いといて。
「私も訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「はい。なんでしょうか」
「その、件の惣介君なんだけど……彼ってどういう魔術師なの?」
「どういう……?」
尭土井惣介はイレギュラーな存在だ。
これから起こり得る未来の全ての可能性を観測する私の力だが、尭土井惣介が関わる事象には全て何かしらのズレが生じる。佐久奈さんが伐花昼子を襲ったのだって、本来なら無かったはずの未来だった。観測したはずの未来では心の平静を取り戻した佐久奈さんがそのまま尭土井惣介のもとへ戻るはずだった。だが、あのような事が起き、幻術を使ってまで記憶を書き換えざるをえなくなった。
この未来視は絶対だ。あらゆる因果関係からあらゆる可能性を計算し観測する故に、視れない未来など存在しないはずだ。
そもそもこの堕天使の騒ぎだって、本当なら起きないはずだった。全ては尭土井惣介が関わったことによる因果の歪みが原因だ。
「尭土井は私の家の厭とこの地を古くから管理する息の長い家計ですが、一年前にはもう既に尭土井家は魔術師の役割を放棄しています。だから、本当は惣介は魔術師じゃないんですけど、確かに尭土井家特有の概念干渉の魔術を受け継いでいます。けど、そこまで特異な存在という訳でも……」
確か、ある少女を巡ってこの街で大規模の戦闘が起き、外部からの魔術結社との戦いの末に両親が他界したはずだ。
だがこの話をしては、折角記憶を書き換えたのにまた佐久奈さんのトラウマを呼び起こしてしまうだろう。その辺りに関係するのなら、自分で調べるのが得策だ。
「そう、分かったわ。ありがとう」
「あの……どうしてこんなことを?」
「彼は今この世界で一番『堕天使』に近いから、気になってね」
嘘ではあるが、嘘ではない。
「……っ、惣介の所にいるんですか!?」
「まだ完全に姿を現してはいないみたいだけど、そのようね。伐花昼子さんは中立性に欠けるから、あなたも近くにいてあげて? いつ何が起こるか分からないからね」
今のままでは未来視が役に立たないからね。
佐久奈さんは「はい」と力強く首肯し、そのまま屋上から手すりを飛び越えて降りて行った。
さて、未来視……もとい
「ケツァルコアトル……」
もうこの世にはいない思い人の名を呟いた私は、魔力を使い過ぎた疲労からか眠りに落ちた。
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