七月 十日-00:00
「今日は三日月か……」
自宅の屋根の上。平らになっている部分に寝そべりながら上弦の月が光る空を仰ぐ。
子どもの頃、一度はやってみたいと思って屋上を改造して夜中に屋上で寝てみたがそれはそれは心地よくて。ここは車も通らないし夜中は虫の音くらいしか聞こえないから不快な要素は一つもなく快適だ。
「はぁ……今日も、疲れたなぁ」
今日もまた色々なことがあった。
右手を上に掲げて握ったり広げたりしてみる。体に特に変わったところはないようだが……
「堕天使の力、か。待てよ、てことは今俺が欲望を映す鏡になってるってことなのか……? だとしたらマズいな。俺の欲望が叶うと大変なことになってしまう」
『それは問題ないわね』
「!?」
背筋が下の方から凍えるような感覚と共に、耳のすぐ横で声が聞こえた。
「ゆ、幽霊さんですかね……?」
『私よ、私。
「ああ……なんだ、って何で普通に出てきてるんだよ!?」
起き上がって振り返るとそこには半透明の女性がいた。白いワンピースを着た美しい女性。月の光を透き通す儚い女性がそこにいた。
『幽霊みたいなものね。貴方にしか見えていないから安心して』
「でもさっき昼子には見えてなかったって言ってたような……」
『欲望がない人間には見えないの。正しくは、自分で叶えられない欲望のある人間にしか見えない、だけどね』
自分で叶えられない欲望……だとすると、俺にもグルハウチェのように。
『貴方にもあるんでしょ? 教えてよ』
「そう言われてもな……俺ちょっとだけ記憶喪失だしさ」
俺の周りをぐるぐる回る堕天使。その姿ははしゃいでいる子どものようだった。
『まあ、そうだったの。じゃあ忘れちゃってるのかぁ。でも、大丈夫……』
「っっっ!?」
俺の背中に手を回し優しく抱き留めた。
透明で質量なんてないはずなのに温かさを感じた。真っ白で、雪のような存在感をしていながらも、その心は温かかった。
子どものように無邪気で、母親のように温かい。
とても懐かしい感覚だ。
体の力が空気に溶け出していく。
『大丈夫よ、すぐに思い出すわ。その欲望は貴方にとって一番大切なもののはずよ。そもそも、忘れてないのかもしれないわね?』
「どういうことだ……?」
『どうもこうもないわ。そういうこと。貴方がずっと求めたモノは、ここにあるのだから』
倒れたままふと空を見上げると、いつの間にか月が雲に隠れていた。
そして、点々と曇天の空が白く染まり始める。
「また、雪……」
『堕天使は欲望の塊。よく言えば、堕天使となった者の心をそのまま人間として具現化させたようなものだからね。『雪』、それが私の心の中、なのかもね。だからそれが、世界に影響を与えている、のかも』
広げた手のひらに落ちては溶けて消えていく雪の姿は、アレイゾンの言う通り確かに目の前の堕天使と同じだった。目の前の存在も、吹けば消えてしまいそうなくらいに弱弱しく感じてしまった。アレイゾンは、昼子の母は一体どのようなモノを抱えて、何を憎んで堕天使になってしまったのだろうか。
その儚さは昼子も同じだ。きっとまだ、昼子は俺に話していないことがあるはずだ。どのような切っ掛けがあって昼子の母親はこうなってしまったのか、を。
『月明りの方がお好みだったかしら?』
「いいや、俺はこっちの方が好きだ。寒いのはともかく、雪は綺麗だしな」
『いやだ、それって私が綺麗ってこと? 照れちゃうなー』
「まあ、それもそうだな。昼子も成長すれば、アンタみたいに美人になるかもな」
皮肉など欠片もない心からの賛辞だったのだが、何故かアレイゾンは黙ってしまった。顔は笑っているのだが、目は笑っていないというか……
『あの子はまだ……いいや、それもまた仕方がないことなのかしらね……』
「あのー」
時折昼子も何かの拍子に今のアレイゾンみたいに一瞬フリーズしては俺には全貌を理解できない独り言を呟いたりテンションがハイになったりするが、どうも俺はこういう細かいことに関しては記憶力が薄いらしくその直前に言った言葉を覚えていないせいでどういう言葉に反応しての言動なのかが反芻できないのだ。だから問い詰めようにもその材料がない。
『あ! いや、なんでもないなんでもない。これは、貴方が昼子から直接聴かなければいけないことだからね』
「はぁ……昼子が実は男だとか?」
『もしかして貴方ってそっちもイケるクチ……?』
「冗談だよ!! んな訳ねえじゃねえか!! 子どもは性別に関係なく好きだけど……」
『今ボソッと何か聞こえたわね……』
その後も何やかんや話し込んで、気が付けばもう既に一時を回っていた。
「やべっ、明日学校なんだった」
『そろそろお休みの時間ね。じゃあ、また会いましょう』
そう言いながら、ゆっくりと空気の中に消えていくアレイゾンの体。
「次は、いつ会える?」
『そうね……昼子の口からあの子の秘密を打ち明けられた後に、かしらね?』
「そうか。じゃあ、その時までだな」
『ええ、では……おやすみなさい』
その体が完全に消えると同時に、雪も止んだ。
@
「ふわぁ~あ。流石に眠たいな……」
このままだと寝不足ルート一直線、簡素な朝飯に適当な昼飯不可避である。できるだけさっさと寝て明日こそは弁当を作らなくては。ただでさえ昼子の分の昼も用意しなければならないのだから、余裕を持って行動を。ゆとりは大切だと昔テレビで誰かが言っていた。
「あぁ、学校に行くの面倒臭ぇな……送迎バスとか作ってくれんのかねぇ」
あー、喉乾いた。麦茶でも飲むか。
寝ぼけ眼を擦りながら下の階へ降りていると――階段を昇りかけでそわそわしている昼子さんが。
「あ、
「昼子、どうしたんだ。昼子も喉乾いたのか?」
いや……その……あの、とそんな反応をされると安眠しかけていた体の機能(主に下の方に集中している)が完全に覚醒しそうになって取りあえず自分の足の甲を思いっきり踵で踏みつけた。自分でやったながらに悶絶ものだ。
「尭土井さん、何やってるんですか……?」
打って変わって呆れた様子の昼子。
「いや、昼子の気を……紛らわせようと思って、な」
「それは絶対嘘です。ってそうじゃなくって!! そのですね……言いたい事が、ありまして」
そう、今思ってみれば思ってみなくても自然の摂理として思春期真っ只中の男女二人が同じ屋根の一つ下で云々かんぬんが起こることは自明の理であるからして、あるからして……なん、だと!?
「ひ、昼子! 待て! 俺は童貞なんだそんな風にされるとぉぉぉぉ!?」
自業自得のなんとやら。階段の上で足が痛くて片足で立っている上に狼狽したらそりゃ足を滑らせるに決まっている。
何とか昼子に転校生式階段落ちが決まらないようにはできたが、その代わり家の壁と意識が入れ替わりそうになってしまった。結界で何とか体は無事だが……痛いものは痛い。
「大丈夫、ですか……?」
「見ての通り大事故だ……まさかこんなところで魔術を使うとはな……」
「立てますか?」
「できれば、肩を貸して頂きたく存じ挙げる所存」
「まったく、仕方ないですね……」
いや、だから……そんな反応をされると、マズいですよ。
とにもかくにも肩を貸してもらって台所まで行ってもらった。
「もう大丈夫ですか?」
「ん、まあな……ふぅ。さて、寝るか」
まだちょっと体の節々は痛むものの、まあ大丈夫だろ。
「あ、あの……!」
「ん?」
またも、昼子がもじもじしだした。とても何かを言いたそうにしているが、ここは野暮なツッコミはせずに待っていた方がいいだろう。きっとアレイゾンも言っていた例のアレだ。
「ぼ、ボクは……その……思えば、尭土井さんに助けられて。最初はちょっと怖かったですけど、ずっと独りぼっちだった私をこんなにも親身になって匿ってくれたのは、正直嬉しかったです」
「ああ」
「だから、これからも一緒にいてほしいんです。独りは嫌なんです!! ボクのことを大切にしてくれる人を、もう失いたくないんです! だから……ですね、ボクが言いたいのは……ボクは……」
必要以上に溜めるのでこっちまで緊張してきた。思わず生唾を飲むんでしまう。
「貴方と一緒に寝たいですッッッ!! 違います!! ち、ちがっ、そうじゃなくてですね……寝たい、寝たいじゃなくて……ああもう!!」
「まあそれはそれで別にいいけど……」
「よくないですぅ!!」
「一体なんなんだよ……」
「もう、今日はいいです。さあ寝ましょう」
どうやらいつもと同じ冷静な昼子さんに戻ってしまってようで。オーバーヒートとして冷めてしまったのだろう。こうなると当分は言ってくれないな……
「……何してるんですか」
「へ?」
「へ、じゃないです。さっさと寝ますよ。もう遅いですし」
「あー、そのですね……昼子さん」
「馬鹿ですね……寂しいから起きてたんですよ! 一緒に寝て欲しかったのは事実です、大事なのはニュアンスの問題です」
「あっ……お、おう」
「何照れてるんですか……もう」
昼子と一緒に階段を昇りながら、動悸は最高潮に達している。恐らく昼子にも聞こえてしまっているだろうが、向こうも同じなのだからお相子だ。というか、互いに恥ずかしがっていることが互いに分かって余計に恥ずかしい。
一応に布団は既に敷いてある。俺は布団はでかい方がよく眠れる人なので、平均的で少し痩せめの男子高校生と中学一年生並みの背丈の少女が二人入るのに別段苦労はない。雪が降って気温が低くなったので出した掛布団も大きめだから取り合うことも譲り合うこともないだろう。
「じゃ、俺は前と同じように壁にもたれかかりながら……………………」
そう言って昼子のもとを離れようとすると……ギュっ、と服を掴まれた。非常に力なく、赤子のように。
「独りは嫌だと、何度も言いました……」
「――――――――――」
そこで俺の思考は正常な稼働を止めた。
きっと、母親が恋しかったのだろう。アレイゾンの話が正しければ、昼子は自分の母親が堕天使になってからずっと会っていないのだ。話の中にそれ以外の親族が出てこないのも恐らく会っていないか、既にいないかの二択だろう。だから、ずっと独りだった。
人間が何を棄ててでも最後に求めるのはきっと、人肌の温かのはずだ。それを二度と亡くしてしまったのだから、その悲しみは計り知れないものだ。
「あっ……」
「ああ、大丈夫だ。独りになんかしないからな……」
抱きしめられた昼子は、展望台で見せた二種類の涙とはまた違う涙を流しながら、ずっと泣いていた。
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