七月 八日―学校

 褐色の肌とは、いつ如何なる時間帯、気候においてもその艶やかさを失わない。

 太陽が照らす陽射しの中では向日葵の咲く草原を駆け回る白いワンピース姿の少女であり、帳の落ちた闇夜の中では街を照らす月光の影だ。


 日に焼けた肌が視界に入る。

 華やかな幾何学模様が描かれた一部にあしらわれた白のポンチョ、その下には暗めの色のワンピースを着ていた。

 初老の教頭に連れられて、夜が具現化したような綺麗な女性が教室に入ってくる。


(あの人……?)

(うん、間違いないわね。聞いていたよりも綺麗な人ねそれにしても……)


 前の席に座る佐久奈に耳打ちでこそこそ話し合う。

 他の生徒も見回してみたが、男子生徒は勿論女生徒もそこそこ、エロい保険の先生並に見とれていた。


 長い黒髪をさりげなくそっとかきあげ、褐色の女性は教壇に立った。

 ダウナーな教頭がその隣で紹介を始めた。


「えー、はい。皆さん御存じの通りお休みになっていた鮭野先生ですが、ご病気のこともあり教師をお辞めになるとのことです」


 知っていた俺と佐久奈はともかく、クラス全体にどよめきが広がる。


「と、いう訳なので、今まで代理をしていた鷹島先生に代わって正式に異動されてきたこの方がこのクラスの新しい担任……ですね、はい」


 教頭の話し方がほんの少しだが褐色の女性に対する尊敬語なニュアンスが聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。

 と、今まで待つように黙っていた女性がついに口を開いた。


「――皆さん、初めまして。鮭野先生に代わりこのクラスの担任をさせて頂きますギィエルミーナ・セナといいます。呼びにくい名前ですので、『ミーナ』と呼んでくれれば幸いです。鮭野先生はとても優しくて笑顔が素敵な方だと聴きました。私も負けないように、皆を元気にできる先生になれるよう頑張りますので、どうかよろしくお願いします」




 ――昼休み。

 色々あった朝だったが、元々順能力の高い奴等だ。割とすんなりとミーナ先生を受け入れて、親しげに母国の話などをしていた。

 一時限目と二時限目はそんな『外国から来た先生』と友好を深めることでグローバリゼーションを促進する、とかいう教頭の立てたよく分からない名目のもと先生と話をする、という時間になった。

 授業が面倒臭いこちらとしては好都合である。


「ミーナせん……」


 せい、と続けようと思ったが、そこで止めた

 第一校舎の一階廊下。食堂に向かうには職員室のあるこの廊下を通るか、もう一つ中庭から来るルートがあるのだが、今回はなんとなく職員室の前を通った。するとミーナ先生に続くように、制服を着た少年が一人、職員室に入っていくのが見えた。


「アイツ確か、教室の窓側の席にいた……山口とか言ったような」


 生憎クラスメイトでも交友のない者の名前はあまり覚えていない。だが確かそうだったはずだ。

 山口も山口であまり積極的に人と関わるような性格ではなくいわゆる大人しい性格だったが、何かあったのだろうか。まあ、何もないなら先生と職員室に行ったりはしないだろう。くだらない悪さをするような奴にも見えないし。


 しかしまあ、タイミングの悪いことだ。折角一緒に弁当でも食べようと思っていたのだが。

 ……いや、別にナンパとかではないぞ。ただ純粋にメキシコの文化について興味があっただけだ。

 出鼻をくじかれた気分だ。クラスメイトと弁当を食うのをわざわざ断ってきたと言うのに、今から戻るのも悪い気がするし……どうしたものか。

 なんて考えていると、アイツがやってくるのだろう。


「おっ、奇遇だね惣介。今からお昼?」


 『おっ、奇遇だね(教室からつけてきていた)惣介』の佐久奈さんのご登場である。


「見ての通りだ。で、一緒に食いたいのか?」

「いやー、まあ、そんなところかな? 別に一緒に食いたかないって訳でもないんだけどさ」


 ん? 今までの佐久奈ならもっとこう、百獣の王の狩りの如く抱き着いて喜んでいたはずだったが……何故かほんの少しだけ煮え切らない態度だ。


「じゃあさ、屋上いこうよ屋上」

「ん、ああ。分かった」



 ――屋上は確か生徒立ち入り禁止のはずだったが、そんなもの知らんと俺達は屋上に足を踏み入れた。そもそもカギはかかっていない。立ち入り禁止というのも建前だけで、実際は何人か入ったりしている。とは言え今の時期はこの時間、農業部の皆さんが汗水たらしながら野菜を育てている頃だろう。


「あれ? 誰もいないね。残念、世利せりさん達とも一緒にお喋りしたかったんだけどなぁ」

「……なんか急な用事でもあったんじゃないか? まあこうしてトウモロコシも育っている訳だし、その内来るだろ」

「うーん、しょうがないか」


 俺達は屋上にあるトウモロコシ畑を避けて手すりの下の段差に腰かけた。妙に準備のいい佐久奈はシートを持ってきていたのでその上に座った。

 今日は家の近くのスーパーで買ってきた『スタミナ弁当』だ。


「あ、今日は手作りじゃないんだね」

「昨日は忙しかったからな。作る余裕がなかったんだ」

「そうだったんだ。何かあったの?」

「捨て猫を拾ってな……昨日季節外れの雪が降ったろ? 凍え死にそうだったからな」

「ふーん。猫かー」

「猫好きじゃなかったか?」

「私は犬派だよ」


 そうだったか? それにしても佐久奈の態度がどこか虚ろというか……上の空のように感じてしまう。


「どうしたの? 惣介」

「い、いや別に……なあ佐久奈、何かあったのか? 朝から様子がおかしいぞ」

「? 何言ってるの? えっと……惣介?」


 そんな不思議な顔をされてもこっちが困る。どうやら恐ろしいほどに話がかみ合っていないらしい。それとも、俺の方がおかしいのか? 確かにここ最近の記憶がないような気はするが……


「ねえ、惣介。今日が何日か分かる?」


 こいつはいきなり何を言い出すんだ。


「7月8日だろ」

「じゃあ、今は西暦何年?」


 これまた訳の分からないことを……訳の、分からない。

 は?

 何故、分からない?

 俺は今、今が西暦何年かが分からない?


「ま、待ってくれ……西暦……」

「惣介、一昨日のこと、覚えてる?」


 一昨日……一昨日と言えば、7月6日。俺が伐花昼子に出会う前日。その時のこと……分からない。朝昼晩に食べたモノはともかく、何をしていたか記憶がすべてごっそりと抜け落ちている。


「っ……! 痛ってぇ……」

「だ、大丈夫!? 無理に思い出そうとしなくてもいいのよ?」

「ああ……大丈夫だ」


 昨日の夜、『何か』を思い出そうとした時の同じ感覚だ。

 一切の光が届かないブラックボックスに触れようとした瞬間、脳を電動ノコギリに優しく触れられているような痛みが心を焼き切ろうとしてくる。

 思い出してはいけないと悲鳴を上げている。


「うっ……ぷ」


 胃の中がめくり返されるようだ。

 片頭痛が絶え間なく頭の中で鳴り続け、動悸は早く、体中から嫌な汗が噴き出る。


「保健室! 保健室に行こう!」


 珍しく慌てた様子の佐久奈の声が虚ろだが聞こえる。本当に珍しい、いつもならこう、これが好機と言わんばかりに抱き着いてきたりするのに。まあ、今そうされたらもれなく大変な事になるのは自明の理だが。


 俺は頷くことも肯定することもなく、保健室に運ばれていった。




「ふむ……これくらいなら頭を冷やして1日眠れば元に戻る。聞こえているか? もう起きているよな」


 意識が朦朧と、水槽の中を漂うように放浪と。

 男の声でそんな曖昧な意識は少しずつ晴れていった。

 白くて、無駄に清潔な部屋。ここは保健室か。そう言えば、佐久奈に運ばれていったんだっけか。

 うまく動かない体を動かして、時計を探す。

 時刻は午後4時半を過ぎていた。もうそろそろ授業が終わる頃だろう。だとしても、あの佐久奈の事だから授業などお構いなしに残るはずなのだが……


「ああ、厭の事か。無論戻らせたよ。当たり前だが、イチャイチャしている所を見せられても鬱陶しいだけだからな」


 涼しい顔をしてサラッと言いやがるのは冬ノ原高校の保健教諭だ。衛生上どうなのかと問いたくなる無精髭を生やした三十過ぎの渋いオヤジである。


「で、尭土井は久しぶりに学校に来たと思ったら急に倒れたときたもんだ。やはり、まだ慣れないか?」

「…………………………」

「おい、どうした。まだ意識がはっきりとしないか? それとも保健室の先生はミーナ先生の方がいいのか、そうか……そうだよな」


 何か知らんが急にセンチメンタルになる中年親父。

 みぐるし……じゃなくて。


「先生……さっき、なんて言いましたっけ? そもそもあれって俺に言ったんですか?」

「あん? そうだよ。だから、久しぶりに学校に来たと思ったら急に倒れたから大丈夫かーって話だよ」


 確かにその話を聞いていると頭が痛くなってくる。一体どういう事だ? さっきの佐久奈の質問もそうだが、やはり俺は記憶が一部だけ抜け落ちているのだろうか。だとしたら厄介だ。完全な記憶喪失でないのはいいのだが、中途半端に抜け落ちているとなると生活に支障が出かねない。通帳の暗証番号とか……その他色々。


「厭も言ってたが、どうやら記憶の一部が抜け落ちてるらしいな。まあ、何かしらの脳への強い心因的ショックによる健忘症、いわゆる記憶喪失はそう珍しい事じゃない。気にせず過ごせ、その内忘れてることも忘れるさ」

「またそんな能天気な……大事なことを忘れてたらどうするんすか」

「そん時はぁ……頑張って思い出せ。しかし、さっきからのお前の様子を見ていると、無理に思い出そうとすれば頭痛がするんじゃないか?」


 確かに、無理に思い出そうとしなくても、その記憶に少しでも触れようとすれば、痛みを発する。

 まるで、思い出すなと言わんばかりに。


「……あんまり他人の俺が言えた口じゃねぇんだけどな」


 回転椅子に座ったまま前かがみになって、保健教諭は神妙な顔で続ける。



 その言い方は、まるで知っているようではないか。知っていて、思い出すことを避けさせようとしている。


「知ってるんですね? 俺の抜け落ちた記憶がなんなのか」

「うん? ああ、いや、そう聞こえてしまったのならすまない。思い出してみろ、俺とお前がこうやって面と向かって話すのは初めてだろ。会ったのも身体測定とか検診とかの時だけだ。だからお前のプライベートなんて知らねぇよ」


 そう言い捨てた保健教諭。


「だったらなんでここまで親身に――」

「そりゃあお前保健教諭だからだろ。メンタルケアも俺の仕事だ」


 そう言われて、それ以上は何も言えなかった。これ以上どう問いただしても、この飄々とした男は何も話しそうになかったからだ。

 『分かったらとっとと治して家帰れよ。どうせ厭の事だからお前が来るのを部活にも行かずに待つだろうし。厭が退部にならない為にもさっさと行ってやれよ。あーやれやれ』というニュアンスの言葉で俺は保健室から追い出された。

 正直まだ頭痛はしていたが、歩けないほどではない。


 とりあえず荷物を取りに戻ろうと教室へ向かう。

 教室に入ると、まだ少し明るめのオレンジ色をした夕焼けに照らされて、佐久奈が待っていた。


「もう、大丈夫?」

「やっぱりか……俺は大丈夫だからさっさと部活いけよ。昨日女子がコソコソ話してたぞ。お前が先生から目をつけられてるって」


 とは言っても、コイツのことだ。そんなことは意にも介さないのだろう。


「分かったよ。でも、くれぐれも気を付けてね」

「はいはい。頑張れよ」


 そうやって、いつものように佐久奈は俺の為に……俺の為に、なんだ?


「佐久奈――


 そう言った時にはもう、既に佐久奈の姿はなかった。

 何故、今俺の心の中はそんな言葉を思い浮かべたのか。

 佐久奈のことについて、何かとてつもなく大事なことを忘れている気がした。

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