第10話 そして突然の
――エイシス
(……)
――エイシス
何度目かの呼びかけに目を開けると、母の姿があった。
いや、母は幼い頃に亡くなっている。これは夢……。
それでもやっぱり母が顔に触れ、髪を撫でるその感触はとても夢とは思えない、現実感を伴う。
――……これで、いいのよ。ジークとは元々、縁はなかったのよ。私のエイシス……っ
そうして母は額にそっと口づけをする。
愛情を示す行為をしながらの言葉は、エイシスをただただ戸惑わせた。
(どうして……? どうして、そんなことを言うの……お母さん……?)
涙が伝う。それでも母の笑顔は変わらなかった。
■■■■■
エイシスが目を覚ますと、一瞬、自分がどこにいるのか理解するのに時間がかかった。
(そうだ。昨日は、ディアナに無理を言って……)
夢のせいか少し目が濡れていた。
(あんな夢を見るなんて)
よりにもよって、母の口を借りなくてもいいものを。
「エイシス」
ノックと共に扉の向こうから声をかけられた。
「ディアナ、起きてるわ」
「入るわね」
ディアナはお尻で扉を開ける。両手にはカップを持っていた。
「おはよう」
「おはよう」
ディアナの挨拶に、エイシスも答える。
「コーヒーよ」
「ありがとう」
柔らかな湯気をたたえるカップを受け取り、口をつける。エイシスの好みに合わせて、甘めだ。
「おいし」
「良かった」
ディアナはにこりと笑うとベッドの端に腰かけた。
「寝心地はいかが?」
「良かった。ぐっすり」
「あ、涙。そんなに大あくびした?」
「そ、そう」
ディアナとエイシスは声を合わせて笑った。
「ねえ、今日はどうする?」
「今日は……」
そろそろ荷物をまとめて帰ろうと思うと告げると、
「それなら一日、私にちょうだい。天気も良いし、馬車でピクニックに行きましょう。あなたが向こうに行ってから、ご無沙汰でしょ? ね、今日一日だけは学生時代に帰ったと思って」
「……あ、うん」
「決まりっ……っと、その前に、朝食は食べられそう?」
「うん」
「じゃあ、ここに持ってくるわね」
「いいわよ、そこまでしないで」
「いいから。学生時代、こうして食べたじゃない。もちろん見つかって怒られたけど」
「……エイシス、何から何まで、ありがとう」
「水くさいこと言うんじゃないわよ」
冗談めかしてエイシスの頬をつねると、ディアナは部屋を出て行った。
何も事情も聞かず、それでも勇気づけようとしてくれているディアナへ感謝の思いしかなかった。
窓の向こうを見ると、青空にまぶしい日差しが差し込んでいる。
(絶好のピクニック日和びよりね)
■■■■■
一方、王城内の軍官舎。
ジクムントが目を覚ますと、すぐ目の前にエリオットの顔があった。
繰り出された拳を、エリオットは微笑を浮かべたまま軽く身を逸らして回避する。
「危ないな。起こしに来てあげたのに」
「じゃあ、あの顔の近さは何だ」
「おはようのキスでもと思ったのさ」
「……したら殺す」
「そう言って、学生時代、ふざけあったねえ」
「あれは本気だった」
「まあ、今となっては良い思い出さ」
「悪夢の間違いだ」
エリオットはふふ、と笑う。
「腹は?」
「……すいてる」
「じゃあ、一緒に食べようか」
「…………」
「きみ、戦場に行っている間に、また面相が悪くなったかい? エイシス様にそんな人を数十人殺したあとの高ぶった顔を見せていないだろうね?」
「朝から勘弁してくれ。何のようだ。……用がないとか、ぬかすんじゃねえぞ」
ジクムントが真っ先に白旗をあげた。
学生時代から、エリオットは何かとつるんできた。どれだけ追い払おうと、本気で怒鳴っても、受け流しす。
結果、ジクムントが根負けし――その関係が今も、尾を引いている。
「中佐がお呼びだよ」
ジクムントはシャツを手早く着ると、エリオットの後に続く。
アルフォンスとは直にその下についたことはないが、話が通じやすい上官として多くの軍人に慕われているという評判は聞いていた。
常に前線に赴くジクムントは、ばかげた作戦を考えなければ誰でも良い、としか思わなかったが。
ジクムントは記憶がぶっとんでいたとはいえ、仲間たちに重軽傷を負わせてしまったことはさすがに悔いていた。
そのために奔走してくれたという、アルフォンスには感謝してもしきれない。
エリオットに対しても。しかしそれを言ったら最後、こいつのやることにお墨付きを与えてしまうようで、やはり口をつぐんでおこうと……さっきのことで改めて思った。
(それにしても、よりにもよって、エイシスの兄だったとは……)
しかし昨日エリオットから指摘されたとおり、演技にしてもひどかったとは、今更ながら後悔の念は禁じえない。
何をされても、殺されない限りはどんなことでも我慢しなければならない。
「なあ、エリオット」
「……なんだい?」
「中佐のことだが」
「まあ、動いてくれたことへの感謝を言いながら、あとは下手なことを言わず黙っていれば、さすがに中佐も、エイシス様に関しては何もしないさ」
そう話しているところで、ついに到着してしまう。
エリオットはノックをし、
「失礼します、エリオット・ダースマン、ジクムント・フィデラーデをつれて参りました」
エリオットは先ほどの声と同じ者とは思えない、力強い、男の声を出す。
「入れ」
そうすぐに答えが返ってくる。
ジクムントにウィンクをし、先に入るようにそっと促す。
「……ジクムント・フィデラーデ、出頭しましたっ」
踵を打ち鳴らし、気をつけをする。
「ご苦労」
さすがに緊張してしまう。
母親は違うと聞いたが、顔立ちはエイシスに似ている気もするが、むすっとした不機嫌具合はまったく煮ていない。
「……中佐、わたくしめのために各所と調整していただき、ありがとうございました。小官わたしはどれほど感謝してもしきれません……っ」
深々と頭を下げる。
「構わない。調練不足が招いたと言っておいた。――それからお前の存在については秘匿している。あまり目立った動きはするな」
「……なぜ、とお聞きしてもよろしいでしょうか」
「お前は、今、中将オルゲイの告発によって犯罪人として処刑されたことになっている。お前が生存していると分かれば、また一騒動だ」
「……中佐は、私の申し出を信じていただけているのですか」
「いや。ただ、お前と中将を天秤にかけ、お前を生かしたほうが俺のためになると思ったからだ」
「……はっ」
「なんだ、がっかりしたか」
「いえ」
「よし、では今回のことが無事に解決された暁には俺に忠誠を誓え。黒狼こくろうの名誉回復もしてやる。悪くないだろう?」
どうだ、とアルフォンスは身を乗り出す。
「中佐……」
エリオットが見かねたように口を開こうとするが、すぐにアルフォンスに払われる。
「分かりました」
「よし」
アルフォンスはにやりと笑う。
(噂なんていい加減だな)
良い上官どころか、とんだ野心家だ。
「よし、下がれ」
拍子抜けしてするほどで、思わず、
「……エイシスのことは」
ジクムントのほうが漏らしてしまう。
馬鹿、とエリオットが小声で言うが、もう遅い。
「……仕事に兄妹の関係を持ち込むことはしない。
お前が猟犬になってくれると言うんだからな。それで俺は満足だ。
そうさ、大切な妹を傷つけるような非道さは本当はナマス斬りにしても飽き足りないが、お前の実力に免じて許してやる。だが、お前を遣い倒してやるから覚悟しろよ。
……万死に値する行為をしたことをそれだけで許してやるんだ、安いものだ。
よし、エリオット、さっさとこの唐変木とうへんぼくを連れ出せ、これ以上、俺の前にいられると、官舎ごと氷付けにしてやりたくなる……っ!」
エリオットに手を引かれ、慌ただしく部屋を出た。
「お前、死にたいのか?」
「……すまん、つい」
「ま、これで第一段階は完了だ、良かったな」
「そうは思えないがな」
ジクムントは肩をすくめる。
と、そのまま医務室に戻ろうとするジクムントの袖を引き、エリオットは自分の部屋へ寄るように促した。
すると彼の執務机には、ケーキと花束が乗っていた。
エリオットはそれを押しつけるように渡してくる。
「……お本当に、男が良いのか? エリス」
「そういう性癖を否定しないが、違う。エイシス様と会って、事情を説明し、謝れ」
昨日の今日で、どの顔つらをさらしていけというんだ……。
「元に戻れと言わない。だが、傷つけたままでいるのは、彼女があまりに不憫ふびんだ」
「……無理だ」
「エイシス様ならきっと分かってくださる。謝ってもなお、お前のことを嫌うというのであればもう仕方がないだろう」
「……だが」
「ジクムント。彼女を大切に思うのなら、いけ。一生、後悔するぞ。それから、街へ出て行く時はこれをつけろ、いいな、正体をあらわすんじゃないぞ。さあ、私はこれから仕事だ」
エリオットに部屋を押し出される。
ジクムントはさんざん迷った末、エリオットから渡されたフード付きの街頭をまとい、伊達眼鏡をし、ケーキと花を抱えて、官舎を出た。
しかし、もうすぐエイシスの屋敷だと思うと、途端、迷いが生まれる。
彼女の涙に濡れた姿は今もはっきり脳裏に焼き付いている。
(俺がいったところで、もっと怒らせるか、傷つけるかに……決まっている)
これまで女性に特別な気持ちなど覚えたことなどなかった。
血煙のなかを駆け、生死の境をただ進む。
生き残ればまた戦場へ、死ねばそれまで――あまりに単純な世界で生き続けた。
心が動くのは部下を看取る時だけ。
それでも戦場なのだから仕方がない――その言葉で片付いてしまうことだ。
戦場と戦友、それがすべてで、エイシスはそのどちらとも無縁な存在だ。
しかし、その彼女に惹かれ、傷つけた――。
ジクムントは人生ではじめて誰かに拒絶されることを恐れていることを認めないわけにはいかなかった。
(くそ、何なんだ、俺は……っ)
自分の意気地のなさに腹が立った。
(そうだ。エイシスじゃなくて、家令か女中に渡せば……)
それでいこう、とジクムントは歩き始めるが、ヴァレンタインの屋敷前はいつになく人が集まり、騒がしかった。
その中には、エイシスの兄・ループレヒトがいた。
「どうしたんだ」
こいつらなら正体を明かしてもいいだろうとフードと眼鏡をとり、声をかける。
と、女中たちが、まるでジクムントを親の敵でも見るような具合に囲んでくる。
「何だ?」
「きみを探していたんだ。今までどこにいたんだい」
「……野暮用だ」
「エイシスが昨日から帰っていない」
「本当か!?」
じっとジクムントを見ていたループレヒトは落胆したようだった。
「きみと一緒にいると思ったんだが」
さすがループレヒトの顔からは笑顔は消えていた。
「本当に、帰っていないのか」
「一人であの森に帰ったことも考えたが、荷物は部屋に置いたままだった」
「探してくるっ」
エイシスはケーキと花束を手にしたまま駆け出す。
混乱していた。
昨夜、エイシスは部屋を飛び出した。
(どこへ行ったんだ……っ!)
まさか、誰かに襲われたなのか。
頭に浮かんだのは、平民街で襲ってきた連中のことだった。
(いや、そんな都合良くいくはずがない。どーせ、どっかで道草を食ってるはずだ)
最悪を常にかんがえつづけた。判断ミスが死に直結する世界にいつづけたのだ。
しかし今、ジクムントは最悪を考えまいとしていた。
ジクムントは、ディアナの屋敷の扉を叩いた。
もしかしたら――。
すがるような気持ちで扉を叩けば、あの初老の家令が顔を出した。
「あなたは――」
「エイシスはここにいるかっ!」
「……いえ、こちらには」
「ディアナ…さん、は」
「お出かけになりました」
「……そうか」
もしかしたらディアナが――そう思ったのだ。
そのせいで不安で胸が苦しいほどになる。
「どうなされたんですか」
「あいつ……エイシスがいなくなったと屋敷中で探してる。本当に知らないか?」
「……ご安心を。エイシス様なら、ディアナ様とご一緒です。今はお二人でピクニックに……」
しばし迷った末に、家令は言った。
「ぴ、ピクニック……?」
「左様でございます」
ジクムントはへたりこんでしまいそうになる気持ちをぐっと抑える。
「……エイシスと会いたい。どこに出かけたか教えてくれ」
「畏まりました」
「恩に着る。ディアナからは口止めされていたんだろう。俺が無理矢理ききだしたと言っておいてくれ」
「……ジクムント様」
「何だ?」
「エイシス様との間には色々あるかと存じますが、どうか、大切にしてさしあげてください……」
「分かってる」
家令の言葉に、ジクムントはうなずいた。
■■■■■
「はーっ! 久しぶりねっ!」
「ほんと」
馬車から出たディアナはすーっと、息を吸った。
エイシスも笑いながらそれに続く。
そこは王都からほど近くにある、菜の花畑だった。
葉っぱの緑と、花の黄色。
鮮やかな彩りが大地を覆い尽くしていた。
耳をすませると、そばを流れる川のせせらぎが聞こえる。
バスケットには二人でつくったサンドイッチがいっぱいに詰められてる。
太っちゃうわね、と言いながら、夢中になって作っていたらそれだけの量になってしまったのだ。
「良かった」
ディアナがくすりとする。
「何が?」
「良い笑顔になったなって思ったの」
「……うん。ディアナのおかげ」
「――それなら、ジクムントもいちころじゃない?」
「な、何言って……」
エイシスは頬が熱くなるのを感じる。
「だって、あなたがあそこまでのことになるなんて、今までなかったから。陰険な姉たちに何をされてもじっとこらえられたのに。
思い当たることといったらジクムントだもの」
「…………うん」
「ここで気分転換して、お腹をいっぱいにしたら、また、普通に話せるようになるわよ。
それじゃ、どっちがサンドイッチを最後まで食べられる競争っ! 負けた方は、学生時代の恥ずかしい秘密を言うこと!」
「え!?」
「せっかく、学生時代に戻ったんだし、いいじゃない、そのノリでいきましょっ。街に戻ったら、またかたっくるしい淑女レディにならなくちゃいけないんだから」
「私は風来坊だけど」
「淑女な風来坊ね。
――じゃ、スタート!」
「ちょ……ずるい!」
笑いあい、早速、サンドイッチをほおばった。
しかし結果的には、勝負は引き分け。どっちもサンドイッチを食べきれなかった。
二人はお腹いっぱいになったまま、ごろんと横になった。
吹き付ける風が、菜の花畑をざわざわと騒がせる。
風がさっきよりすこし強くなったのか、青空を流れる雲の動きが目に見えて分かる。
しばらくそうしていると眠ってしまったらしい。
ディアナに揺すられて目を開ける。
「そろそろ帰りましょ。雲行きが怪しくなってきたし」
「……そうね」
風も何となく肌寒くなってきた。
エイシスたちが花畑から起き上がり、馬車のところまで戻ると、そこには、来た時にはいなかったはずの黒い馬車、そしてディアナの馬車を囲むように、馬に乗った男たちがいた。
御者が跪ひざまずかせられている。
「楽しめましたかな、お嬢さん方」
白髪のまじった髪の壮年の男が馬から降り、近づいてくる。
「ディアナっ」
エイシスは親友の手をとり、逃げようとするが、馬に跨がった男たちが行く手を塞いだ。
「あなたたち、私たちを誰だか分かっているの」
エイシスがこみあげる恐怖を抑えながら、言う。
「もちろんだとも、貴族のご令嬢」
「あなたたち……盗賊……?」
ディアナが言うと、リーダーと思しき壮年の男は首を横に降った。
「お嬢さん、我々はそんなケチなもんじゃない。
……エイシス嬢、あなたに同行をお願いしたい。大人しくしてくだされば手荒な真似はしません」
男が近づこうとすると、手をふりほどいたディアナは飛びかかる。
「エイシス! 逃げてっ!」
「ディアナ、やめてっ!」
しかし所詮、女の力だ。男を取り押さえられるはずもなく、あっさり押しのけられてしまう。
「ディアナっ!」
エイシスは友人を抱き起こす。気を失っているようだった。
「あまり手間取らせないでいただきたい」
「……ディアナにはひどいことをしないで」
「もちろん」
ディアナは自分の上着をそっと彼女にかけ、男たちの監視を受けながら、どうにか馬車に、御者と共に乗せた。
「美しい友人愛だ」
せせら笑いながら言う男の顔を睨むが、相手は不敵な笑みを消さないまま、
「さあ。こちらです」
と、彼らの馬車へいざなう。
エイシスは、自分たちが乗ってきた馬車のほうを振り返り、言われるがまま乗り込んだ。
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