第2話 その人の名は
エイシスは一階にある厨房――というには粗末な台所で、大鍋に野菜を入れ、
味を確かめる。
かれこれ、あの青年の治療がはじまってから半刻は過ぎているかもしれない……。
「エイシスっ」
一度、何か理由をつけて入ってみようかしら…そんなことを考えていると、小太りで小さな眼鏡を鼻にかけた老医師が姿を見せる。
「デミス先生、あの人は」
「結構な数の傷口は縫うことになった割りには鍛えてるおかげか……致命傷はない。まあ、気を失っていたというのは出血をしながら、激しく動いたせい……まあ、貧血だろうなぁ」
「え、でも、身体にはたくさん傷がありましたけど」
「まあ、来なさい」
一階にある、元々、母親がつかっていた部屋に向かう。
今、青年は床に敷いた布の上に寝かされ、治療のために上半身は裸、ズボンも足首まであったものが裁ちばさみで切られ、適宜てきぎ、包帯が巻かれている。
で、その青年の、鍛えられ、筋肉の盛り上がった褐色の身体には無数のキズがあった。
「これはほとんどが古傷だ。まあ、軍人だからな……」
老医師・デミスはあごひげをいじりながら呟き、壁に引っかけてある彼から脱がした軍服を見る。
青地に、銀色の装飾がところどころついている。
「我が国の、ですね。それも将校」
ヴァレンタイン伯爵家が仕える、ブレネジア王国の軍服に間違いない。
王都に上れば、偉そうに闊歩している姿をよく見かける。
今、大陸の中原を領有しているブレネジア王国は、西の国・エール王国と争いを繰り広げているはずだ。
「まあ、それはそれとして、大事にはならないということですね」
「うむ。滋養のあるもんでも食わせておいて、寝ればそのうちキズもふさがる。男手が必要ならいつでも呼びなさい」
「ありがとうございます。あ、先生、スープはどうですか」
「ありがとう。でもうちで家内が飯を用意してくれてるからね」
デミスを玄関まで送ると、お湯を沸かしてタライに注いだものを部屋まで持って戻る。
布をひたし、青年の汗の浮いた顔にそっと押しつけるように拭う。
青年の姿を眺める。
襟足を伸ばした、さらさらした黒髪に、太い眉。身体は十二分に大人なのに、かすかに少年の面影があるように見えた。
迫力はあるが、野卑な印象はない。
(まあ、意識がなかったらどんな人でも天使だけど)
「……っ」
青年がかすかに呻きを漏らした。
■■
激しく切れる呼吸が聞こえる。
それは自分のものだと、ジクムント・フィデラーデはかすかな間をおいて気づいた。
追っ手は確実に近づいているはずだ。
すでにいくつかの矢が身体のあちこちを傷つけ、剣も今は失ってしまっている。
一体どれほど間、休むことなく走り続けているのか。
追っ手の目をくらますため――意識したのではなく、身体がこれまでの経験にのっとり勝手に動いていた――森に入ったところまでは覚えている。だが、この森が一体どこにあるのか全く分からない。
身体が重い。
まるで鉄の塊を両手両足にくくりつけているようだ。
目眩がする。
足がもつれる。それでも身体は迫る死から逃れるために動き続ける。
(俺は……死ぬのか、こんなところで……)
目の前できらきらと輝く筋が見えた。
それはまるで何もかもからジクムントを解放してくれるような“救い”に感じられた。
■■
青年が飛び起きた。
「……!」
エイシスはびくっと震えた。
青年の、茶褐色の瞳がゆっくりとエイシスをとらえる。
目が覚めたのね、良かった――そう、言おうとした瞬間、
まるで猫、いや、肉食獣のごときしなやかな動きで、とびかかられ、押し倒されてしまう。
蜂蜜色の髪がぱっと散り、声を出すいとまもなかった。
激しい息づかいが部屋に響いた。一体それがどちらのものなのか。
青年の目の中に、エイシスの姿が映る。
(綺麗な目……)
場違いにそんなことを思ってしまう。
まるで夕暮れどき、地平線が染まるように赤々としていながら、どこか寂しさをはらんでいる。
きっと自分の、母親譲りのサファイアブルーの目にも、彼の姿が映っていることだろう……。
言葉を交わすこともなく、荒かった息づかいが落ち着いていく。
「……落ち着いた?」
自分でもびっくりするくらい、普通に声が出せた。
青年の目が揺れる。
「あなた、社交界に入ったら苦労するわ、きっと。いきなり女性を押し倒すなんて……。で、ものは相談だけど、そろそろどいてくれない?」
怯えたのか、びっくりしたのか、力が弱まり、青年はどいた。
「ありがとう」
エイシスは立ち上がり、服についた埃を払う。
「私は、エイシス。よろしくね。……あなたは?」
「……ジクムント」
力強いアルトの声で答える。
「そう。じゃあ、ジクムント、どうして川に頭なんて突っ込んで倒れていたの。行水にはまだ早いと思うけど?」
青年は少し考えてから、首を横に振った。
「それは答えられないっていうこと」
「……いや、分からない」
「分からないっていうのはつまり、思い出せないってこと……?」
「名前は覚えてる。だが、それ以上は……。どうして俺はここにいる? 俺は、何だ?」
エイシスは小さく溜息をついた。
(記憶喪失なんて厄介ね)
ジクムントは軍人だ。それがキズを負い、倒れていた。疲れて寝ていました――ではないだろう。
「いいわ。難しいことはまた明日にしましょう」
気づくと、日が落ちている。
部屋をでて、良い具合にことことと煮込んだスープを器に注ぎ、小皿に乗せたパンと一緒に、彼の部屋まで運ぶ。
「男の人には物足りないかもしれないけど、スープ。パンはまだあるから、足りなかったら言ってね」
ジクムントは警戒するようにちらっと視線を寄越してくる。
エイシスは小さく息を漏らすと、目の前でスープを飲み、パンを一切れかじった。
「毒が入ってるって? 失礼しちゃうわね。そんなもの買うくらいだったらお肉を食べてるわよ」
「……すまん」
「いいわ。ほら、安心したでしょ」
ジクムントはよほどお腹が空いていたのだろうか、旺盛な食欲を見せてスープをそれから五杯、パンを十個はたちまち平らげた。
「うまかった」
「……あなた、すごいわ。お兄様たちよりも食べるのね」
「兄様?」
「安心して。愚兄たちは雁首がんくびそろえて都にいて、ここには私一人だから。あとで毛布を出すわね。本当はベッドに寝て欲しいんだけど、私のじゃ足がでーんと飛び出しちゃうだろうし……あなたが寝返りを打って、ベッドから落ちた挙げ句床に頭とかなにやらぶつけちゃうのも……」
「いや、ここで大丈夫だ」
「安心して。ここは私の部屋と同じくらいしっかり修繕してあるから他の部屋に比べてすきま風は入らないし、安心してくれていいわ」
エイシスが立ち去ろうとしたその時、
「――エイシス」
呼び止められる。
「ん?」
「さっきは悪かった……、あんなこと……」
「いいわ。混乱していたんだからしょうがないでしょ?」
エイシスはにっこりと笑いかけ、部屋を出た。
■■
静かな部屋に、ジクムントはごろんと仰向けに横になった。
エイシスのおかげで、腹が満ち、だいぶ落ち着きを取り戻しつつある。
(俺は、誰だ)
頭の中を探ろうとしても闇をひっかくだけで、手応えはなかった。
「…………」
睡魔が忍び寄る。ジクムントはそれに身を任せ、静かに意識を手放した。
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