17:猫をかぶり始めた理由
夕食はこれで最後になるからと、マリアが腕を振るってくれた。
「手伝おうか?」
食べきれないほどの豪華な料理が載っていたテーブルを拭いていると、椅子に座っている昴が声をかけてきた。
彼は働いている人を前に何もせずにいると罪悪感を覚えてしまう損な性分なのかもしれない。
「いいわよ。疲れてるでしょ? ここは私に任せて、休んでて」
昴は夕食までの間、ずっと外でマリアに《
帰ってきたときに「数時間で使いこなせるようになるとはさすがスバル様です」とマリアも褒めていたので、もう完全にマスターしたのだろう。
万事において彼の取得速度は早いを通り越しておかしい。
「そう。ありがと」
「いえいえ」
そんなやり取りを経て、可愛らしいのれんをくぐり台所に戻ると、マリアは皿を洗う手を止めないまま微笑みかけてきた。
「家事はメイドの仕事ですのに、手伝ってくださってありがとうございます。スバル様もこれまで本当に色々と良くしてくださいましたし、異世界人はとっても親切で働き者なんですねぇ。私、見直してしまいました」
「ううん、多分、昴が特別に働き者なのよ。私は普通よ」
「そんなことはありませんよ、キサキ様だって充分に働き者です。でも」
マリアは急に声を潜めて言った。
「スバル様が働き者の素敵な殿方だというのは激しく同感です。逃がしてはいけませんよ?」
「…………あのね」
皿を受け取って拭きながら、眉間に力を込める。
どうもマリアは希咲たちが恋人同士だと思い込んでいるようだ。
これまで何度否定しても効果がなかったが、いい加減にわからせなければならない。
「だから違うんだってば。何度も言ってるけど、彼はただのクラスメイトなの。異世界に来るまではまともに話したことだって数える程度だったんだから」
「でも、こうしてお二人で異世界に来られたのも何かのご縁でしょう。大事になさいませ」
この鉄壁の笑顔には何を言っても無駄だろう。
説得は諦めざるを得ず、希咲は渋面になった。
「……はあ。言われなくても、昴がここに来る羽目になったのは私のせいだし。できるだけのことはしようと思ってるわよ。本人はあんまり気にしてないようで、それが救いだけどね」
拭き終えた皿を積み重ねていく。
マリアは視線を落とし、水を張った桶から小皿を取り上げた。
しばらくの沈黙の後、マリアはおもむろに話を切り出した。
「スバル様はあまり幸せな生い立ちではないようですが、キサキ様もそうなのでしょうか。どんなご家庭で育ったのか聞いてもよろしいでしょうか?」
一瞬、手が止まった。
本当に一瞬のことだったので、マリアは気づかなかっただろうが。
唐突な話題に戸惑いつつ顔を向けると、マリアは弁解するように言った。
「私は機械人形なので、父も母もいません。家族というものを知識として知っていても、縁遠い言葉なので興味があるのです。不躾でしたら申し訳ありません。興味本位での質問ですし、嫌でしたら話さずとも結構ですわ」
「……話すのは構わないけど……聞いてもそんなに楽しくないと思うわよ?」
「それでも知りたいのです」
緑の瞳がこちらを見る。
希咲は迷った末に、持っていた皿を置いた。
(生い立ちなんて理緒にも話したことないんだけどな。でも、興味を持たれるのは悪い気はしないし、そもそも良いっていったのは私だしね……)
観念して、話し出す。
「……そうね、私は一人っ子で、ごく普通の中流家庭で育ったわ。自分でいうのもなんだけど、それなりに頭がよくて、絵画コンクールでも賞を取ったりしたから近所でも神童と評判だったのよ。実際はなんのことはなくて、ただテストで100点を取ると両親が褒めてくれるし、お小遣いもくれるから頑張ってただけなんだけどね」
思い出して微苦笑する。
小言も多かったけれど、基本的には優しくて料理好きだった母。
証券会社に勤めていた父は仕事が忙しくて夕食も一緒に取れないことが多かったが、休みの日には自分の相手をしてくれた。
年に1回は家族旅行に行くのが恒例で、今年はどこに行くか話し合うのが楽しみだった。
北海道でたらふく蟹を食べたこともあったし、沖縄の海で疲れるまで泳いだこともあった。
仲の良い家族だった。
それなりに裕福で、特に不自由のない生活を送っていた。
友達と喧嘩して泣きべそをかいても、辛いことがあっても、帰ったら「お帰りなさい」と迎えてくれる温かな家があった。
あの頃は本当に、幸せだった。
永遠に続くと思っていた生活が一変したのは小学4年になったばかりのこと。
両親が交通事故に遭い、帰らぬ人となった。
最愛の両親の死ももちろんショックだったが、その後、誰が自分を引き取るかで揉めたときの親戚の会話もショックだった。
両親の遺産に皆が目の色を変え、残された希咲を邪魔者みたいに押し付けあった。
両親の通夜で信用していた大人たちは勝手な言葉をまくし立て、傷ついた自分の心をさらに抉った。
あんなに仲良くしていたのに、この人たちにとっては両親の死がお金にしか見えないのだと愕然として、自分は要らない子なんだと思って酷く落ち込んだ。
それからしばらくは人間不信に陥り、塞ぎ込んで食べ物もろくに喉を通らず、やせ細っていた。
「すったもんだの末に落ち着いたのが遠縁の家。でも、居心地は良くなかったなぁ。そりゃあ、わが子が可愛いのはわかるけど、おばさんもおじさんも、自分の娘と私の扱いが露骨に違うんだもの。一番印象に残ってるのがクリスマスの出来事だな。娘にはきちんとプレゼントを用意してるのに、私にはなんにもないの。娘が訊いたら『忘れてた』なんてとぼけるのよ。『かわいそうだ』ってその子に庇われたのが無性に惨めで、部屋で泣いたわ。別に高価なプレゼントが欲しかったわけじゃないのよ。消しゴムの1つでもなんでもいいから欲しかったなぁ……」
そのときからクリスマスが嫌いになった。
カーテンの隙間から覗く見知らぬ家族の団欒を憎んだ。
翌年のクリスマスは友達のホームパーティーに誘われたと嘘をついて家を出て、あてもなく雪の降る夜道をさまよい歩いた。
なんで自分を置いて逝ってしまったのかと、両親を想って公園のブランコで泣いた。
両親を亡くしてから2年間、具体的には小学校を卒業するまで、希咲は世界を憎んで呪った。
皆からもてはやされていた神童は凡人以下に成り下がり、学校の成績も散々な有様だった。
もらわれっ子、と囃し立てるクラスメイトのいじめっ子と真っ向から喧嘩して傷を作り、担任やおばさんから怒られても無言で睨み返すようなひねくれぶりを発揮し、お前みたいな問題児なんて引き取るんじゃなかったと嘆かれた。
皆から嫌われる原因を作っているのは自分なのに、改善する努力すら放棄して、自分はなんて不幸な少女だろうと悲劇のヒロインぶって、自暴自棄になっていた。
「あの頃のことを思い出すと恥ずかしすぎて、いまでも頭を掻き毟りたくなるのよね」
苦笑いしながら、積み重なった皿を食器棚に収めていく。
曲がった根性を直すきっかけになったのは、小学校を卒業した春休みの出来事だった。
入院中の祖母の見舞いに行ったときのこと。末期癌にかかっていた祖母は、無理やり連れてこられてふてくされていた希咲の手を弱々しく握って言った。
――お父さんもお母さんも、天国で希咲ちゃんを見守ってるよ。希咲ちゃんは自慢の娘だと、お母さんはいつも言っていたよ。おばあちゃんももうすぐ二人の下に行くことになるけれど、二人がいなくても希咲ちゃんはちゃんと良い子にしてたと報告しておくからね。希咲ちゃんのこと、空の上からずっと見てるからね……
幼い頃に数回会ったきり疎遠だった祖母が自分を思ってくれていたことを知ったその瞬間、希咲は号泣した。
自分を愛してくれる両親は死んだ。もう誰も自分のことを見ない。世界で独りぼっちだと思っていたのに、愛してくれる存在はいたのだ。
不幸だと嘆いて自分を孤独に落とし込み、世界から目を背け、耳を塞いでいたせいで気づかなかっただけだった。
祖母の墓に、これからは良い子になると誓った。
これまでの自分を悔い、祖母の期待に沿った孫になれるように、その日から猛勉強した。
自分を可愛くみせる努力をして、お洒落にも気を遣い、華々しく中学デビューを飾った。
初めて行われた実力テストでは再び学年トップの座に返り咲いた。
凄いでしょう私の娘、と近所のおばさん相手に自慢していた母が天国でも胸を張れるように、希咲はずっと学年トップの座を守り続けた。
褒めてくれる家族はいなくなっても、努力を結果として残せばその頑張りはきちんと他人が評価してくれる。
そのことに気づいてから、希咲は完璧な優等生たることを己に課し、同時にそれが誇りになった。
常に1番。常に完璧。誰に見せても恥ずかしくない自分。
そんな自分が好きだった。羨望と尊敬の眼差しが快感だった。
「何をしても私は1番……の、はずだったのよ。昴さえいなければね」
「といいますと?」
希咲はふ、と遠い目をして、用済みになった布巾を壁のフックにかけた。
長い語りの間に食器は全て片づけ終わっていた。
「高校に入ってから、テストで初めて昴に負けたの。どんなに努力しても駄目だった。あいつは頭も運動神経も私の上を行く化け物よ。人間じゃないわ」
腰に手を当ててきっぱりと告げると、マリアは苦笑いした。
「なにもそこまで……でも、ありがとうございます。辛い身の上をお話してくださって。一度はどん底に落ちながらも這い上がり、ご自身の信念を貫かれ、逞しく未来を切り拓かれるなんて。キサキ様はご立派な方ですね。天国でご両親もおばあさまも、さぞや誇らしく思われていることでしょう」
感動したらしく、マリアは目元をぬぐってそう言った。
機械人形なのに、彼女には泣く機能まで搭載されている。
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