4:夜の学校で(1)
「昼まで雨が降ってたけど。止んで良かったね」
「うん」
工事中の赤いランプがくるくると派手に回る路地を歩き、民家や商店が続く細道を抜けて、無言で歩くこと十数分。
考えに考えて捻り出した話題はほんの一秒で終わった。
訪れるのは、再びの沈黙。
人気のない夜道に足音だけが鳴る。
視界の端で電車が走り、騒々しく通り過ぎていった。
(ま、間が持たない……っ)
それほど親しくもない、というかはっきりとライバル視している異性と二人で夜の街を歩く。それがどれだけ胃に負担をかけるかよくわかった。
沈黙が重い。雑談でもして少しでも場を和やかにしようと思うのだが、相手はこちらの気遣いがわからないのか、会話を続けようとしない。
何か話しかけても相槌か簡単な「はい」か「いいえ」で終わってしまう。
(おのれ笠置……こんなにとっつきにくい奴だったのね。山下くんも中田くんも、よくこんな奴に付き合ってられるわ……あんた、お調子者で明るい山下くんがクラスメイトじゃなかったら、間違いなく『ぼっち』になってたわよ。彼には感謝しなさいよ)
自分の斜め前を歩く彼の背中にそう念じてみる。
だが無論、心の中で思ったことに返事があるわけがない。彼は急ぐでもなくマイペースに歩いている。
歩くたびに黒髪が小さく揺れている。
天然なのか、少し跳ねた髪先。
いまどんな表情をしているのだろうか。何を見ているのだろう。肩の力を抜いた、ごく自然な態度で前を見ているようで、彼は何も見ていないような気がする。
世界から一歩ずれたところで浮遊しているような、不思議な人。
(頭は抜群に良いけど、協調性ってものがないわよね。社交性に乏しいというか……いっつもクラスの隅っこでぼーっと窓の外を眺めてるか、本を読んでるか、寝てるかのどれかだもの。話しかけられたら返事はするけど、必要以上に関わりたくないっていうのが雰囲気で伝わるから、結局みんな遠慮して、つかず離れず。私とは正反対よね。私は皆の注目を集めて人気者でいたいけど、彼は違う。自分に関わることすら他人事として切り離して、遠くから俯瞰してるような、傍観者)
――要は、変人ということだ。
振り返らない彼を見つめるのにも飽きて、意味もなく斜め上、空を見上げる。
曇天の空。星は見えないが、分厚い雲の隙間から月が覗いていた。
「綺麗だね」
と、初めて彼が話しかけてきた。
「え?」
視線を戻して聞き返すと、彼は肩越しにこちらを振り返った。
彼の表情を確認するには光が足りなかったが、それでも彼は自分を見ていた。
「月。同じものを見てると思ったんだけど、違った?」
「……ううん。私も綺麗だと思ったわ」
偶然にも、全く同じものを見て、全く同じ感想を抱いていたらしい。
月が綺麗だという、ごく普通の感想。
そもそも月を見て汚いなんて思ったことはない。
冬の澄んだ大気の中で見る透明な丸い月も、いまのように暗い雲間にあるからこそ冴え冴えと輝いて見える月も、みんな綺麗だ。
月が綺麗。
(……変なの。そんな当たり前のことで共感するなんて)
またこちらに背中を向けた彼を前に、希咲は小さく笑った。
無人の学校に辿り着き、二人で立ち止まる。
校門は当然閉じられていて、乗り越えるのは大変そうだ――並みの運動神経の持ち主ならば。
花壇の上に立って門に縋りつき、腕の力だけで全体重を支え上げ、無理やりよじのぼる。
門の上に立って希咲はその高さに怯んだものの、覚悟を決めて勢いよく飛び降りた。すたん、と軽やかな着地音が校門前の広場に響く。
(よし、10.0!)
体操選手にでもなったつもりで自画自賛する。
すると、自分よりもさらに華麗に――というのも着地音が自分よりも小さく、体勢も綺麗だった――笠置が隣に飛び降りた。
(なんだこいつアクションスターか!? っていうか、実は運動神経も私の上を行くの……!?)
彼の運動能力は平均並みという話だったが、それは目立たないようにわざと抑えていただけなのかもしれない。
だとしたら本当に希咲は何一つ笠置に敵わないということになる。思わず嫉妬の目を向ける希咲に構わず、笠置は校舎へ向かった。
離れ業を披露しておいて、涼しげな顔が憎い。
「……あれ? 昇降口には行かないの?」
彼が向かう方向に違和感を覚え、希咲は首を傾げた。
「あそこは鍵がかかってるから。美術室の窓から抜けていく。西側の窓、鍵が壊れてるって美術部の榎本さんが言ってた。一応かかるけどすぐ外れるんだって」
「そうなの? 好都合だね。でも、美術室か……なんでよりにもよって美術室……」
がっくりと項垂れる。
(どうせなら無難に教室や廊下の窓にして欲しかった……)
「なにか問題でも?」
「え、いや、あの……」
希咲は言い淀んで俯いた。美術室といえば、怪談のメッカだ。
学校の七不思議、となれば、大抵舞台に美術室が入る。曰く、デッサン人形が踊りだす。曰く、有名な絵画の絵が笑う。死んだ生徒の絵が日に日に加筆される。壁に飾ってある絵が増える……。
(ああ、考えるだけで怖気が)
身震いする。
「?」
笠置は怪訝そうにこちらを見たが、何も言わずに歩いた。
覚悟を決めて、彼の後をついて歩く。風に揺れて校舎の脇に植えてある木々がざわざわと葉擦れの音楽を奏でたが、希咲の耳にはそれが恐怖を助長する不吉な効果音にしか捉えられなかった。
一階校舎の端、閉ざされた美術室の前に着いた。
笠置は窓の一つに手をかけ、がたがたと上下に揺さぶり、手際よく鍵を外して窓を引き開けた。近づくと美術室独特の匂いがした。
紙や木材、 糊や絵の具が混ざり合った複雑な匂い。
「ほ……本当に入る……の……?」
笠置は猫のような身軽さで窓からするりと美術室の中へ入っていった。
後を追うのは身体的には簡単なことなのだが、精神的には困難を極めた。
怖がりな希咲が夜に美術室に入るというのは、清水寺どころかエベレストから飛び降りるほどの覚悟がいる。
「どうしたの?」
美術室の中から笠置が声を掛けてきた。
月明かりを浴びてきらりと黒縁眼鏡が光る。
彼の背後にあるのは無数のデッサン像。
(もし入った瞬間にあれが踊りだしたら……)
顔面蒼白になり、希咲は乾いた喉に唾を送り込んで、震える口を開いた。
「び、美術室は、あの――私用に付き合わせておいて自分勝手だというのは重々承知の上ではございますが、それでもできましたら、極力入りたくないので、校舎に続く渡り廊下の扉を開けて頂けると非常に有り難いのですが」
「……わかった。じゃあ渡り廊下で待ってて」
ぎくしゃくしながら、怪しげな言葉遣いをする希咲に何か感じるものがあったのか、笠置はそれだけ指示した。
「はいっ」
希咲は回れ右して大急ぎで美術室から離れ、渡り廊下に回りこんだ。
照明は全て落とされているため、渡り廊下も当然真っ暗である。
(ああああ早く来て笠置。私を一人にしないで)
いますぐに逃げ出して明るい光の下に行きたい――その衝動を堪えるのに必死だった。スカートの裾を掴んでひたすら無人の暗闇に耐える。
この恐怖から解放されるのならば見回りの警備員と出会って叱られることになっても構わなかったが、この辺りは治安が良く、定時に校門が閉められて全ての出入り口が施錠される程度の防犯しかされない。
治安が良いのは喜ぶべきことなのだろうが、一人になるなら泥棒でも何でも良いから会いたいくらいだった。襲われるのはご免だが。
しばらくして笠置が来たらしく、廊下の明かりがついた。鍵の回る音がして、校舎の扉が開く。渡り廊下と校舎の連結部分には三段の階段がある。
(この階段を上ったらいよいよ校舎の中……幽霊の巣窟だわ)
友人に無理やり付き合わされた、学校を舞台にしたホラー映画がフラッシュバックし、動けなくなった。
彼は校舎から出て、階段の最上段に立ち、こちらを見下ろした。
「……立花さんって怖がり?」
ほんの一分離れていただけだというのに青ざめた顔で、うっすらと涙を浮かべている希咲を見て、笠置が静かに尋ねてきた。
「え? い、いや、そんなことないわよ? 大丈夫よ? 全然全く平気」「には見えないから言ってるんだけど」
希咲の台詞は途中で遮られた。
何も言えなくなり、口ごもった希咲の目の前に――軽く開かれた手が伸びてきた。
「え」
顔を上げる。
笠置が階段の上から手を差し出していた。
「…………」
唖然とした。
彼は馬鹿にするでもなく、哀れむでもなく。
なんの表情も浮かべず、眼鏡の奥からこちらを見ていた。
「良かったらどうぞ」
「……え。あ。あの……」
予想もしない行動に、どうしたものか戸惑った。
まさか気遣われるとは思わなかった。
宿敵と思っていた相手に手を差し伸べられてしまった。
(どうしよう?)
余計なお世話と突っぱねるか。
大丈夫とやんわり断るか。ありがとうと微笑むか。
取るべき行動がわからない。
「えっと……」
希咲が対応に悩んでいると、
「いらないならいいけど」
そう言って、笠置は手を引こうとした。
もはや呑気に悩んでいる暇もなく、希咲は反射的に一歩階段を上って、その手を掴んだ。
夏だというのにひんやりした、自分より大きな、男の子の手だった。
(あっ)
思わず掴んでしまったことに自分でも驚いた。
しかしだからといっていまさら手を離すのも失礼だろう。
笠置は固まっている希咲を見て、やっぱりなにを考えているのか判然としない無表情を浮かべ、「じゃあ行くよ」と当たり前のように手を引いて歩き出した。
つられて階段を上る。あれほど遠く感じた校舎にすんなり入れてしまった。
(お礼を。お礼を言うべきだったのに)
彼の態度があまりにもそっけないので、お礼を言うタイミングを逃してしまった。笠置は希咲の手を掴んだまま歩いている。
(……男の人と手を繋ぐのは初めてかも。中学のときのフォークダンスはカウントには入らないわよね)
夜の学校を歩くのはやっぱり怖い。
でも、いまはもう真っ暗ではない。笠置が明かりをつけてくれた。
そして、自分の手を握る手がある。彼が手を繋いでくれた。
夜の校舎に二人分の足音が鳴る。
(怖い……けど、もう逃げたくなるほど怖くはない、かも)
少しだけ、繋いだ手に力を込める。
――ありがとう、は、用事を済ませたら改めて言うことに決めた。
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