5:夜の学校で(2)
「ありがとう、本当に助かったわ」
教室で目当てのプリントを手に入れて、希咲は上機嫌だった。
これで宿題を忘れた間抜けな優等生にはならずに済む。
教室の入り口で待機していた笠置に歩み寄ってにっこり微笑む。
小学生のときからこれまで数多くの男子生徒を陥落させてきた、首をほんの少し傾げて浮かべる必殺のスマイルだ。
だが笠置はやはりというべきか、それほど――というか全く――心を動かされなかったようだった。
「どういたしまして」
これで少しは動揺したり、顔を赤らめたりすれば可愛げがあるのに口調は棒読み。
おまけに目を合わせることもせず、視線は希咲の顎あたりに固定されている。同じクラスになって数ヶ月が経ったが、不意に目が合うことがあってもすぐに逸らされてばかりだった。
希咲に対してだけではなく、他の誰であっても彼はそうする。
だから余計にクラスメイトと距離が開くのだ。
他人と目を合わせてはならないという家訓でもあるのだろうか。
(前髪も長すぎよね。それじゃあ目も悪くなるわけよ)
おかげで彼の顔をまともに見たことがなかった。良く見れば整った顔立ちなのに、その態度のせいで随分と彼は損していた。いや、むしろ騒がれないほうが彼にとっては好都合なのだろうか。隔てた水槽の向こうから人間の世界を見ているような、魚みたいな彼には。
「笠置くんって、他人と目を合わせるのが苦手なの? いつも俯いてるみたいだけど」
廊下に出て訊いてみると、彼は教室の電気を切ってからこちらを向いた。
「うん。まあ、そんな感じ。気に障ったらごめんね」
「ううん、別に……」
謝られてはそれ以上は言えなかった。なんとなくずるい。
「じゃあ帰るけど。まだ、いる?」
笠置は教室に来るまで繋いでいた右手を差し出してきた。
廊下は明るく、だいぶ怖さは軽減されていたが、考えた末に頷く。
「お願いします」
「はい」
今度は彼から手を掴んできた。仮にも女の子、しかも学校で一番の美少女と手と繋いでいるというのにその動作は無造作だ。緊張感などまるでない。
(もうちょっとそれなりの反応をすればいいのに……そりゃ、私が頼んでるわけだけどさ)
少しばかりムッとしてしまう複雑な乙女心など知る由もなく、彼は歩き出した。
静まり返った二人きりの校舎。
窓の外は真っ暗で、風が梢を揺らして音を立てようと、動物の鳴き声が聞こえてこようと、彼の歩みには迷いがない。
この調子なら幽霊と遭遇してもノーリアクションなのではないだろうか。
「……笠置くんって、幽霊とか信じない人?」
「うん。幽霊なんて、非現実的だよ」
(全教科満点取るあんたのほうがよっぽど非現実的だわっ!!)
希咲は心の中で全力で突っ込んだ。
握る手に力がこもってしまった気がしたが、気のせいだ。きっと。
と、いきなりばさっという物音がして、希咲は「きゃっ」と悲鳴をあげて縮み上がった。
プリントを手放し、反射的に身を寄せて笠置の腕にしがみつく。
彼の腕を抱きしめたまま、恐る恐る物音をたどってみれば、廊下の端に立てかけてあった忘れ物らしきビニール傘が倒れていた。
希咲たちが傍を歩いたわずかな振動で倒れてしまったらしい。
(よ、良かった……)
長々と安堵のため息をついてから、はっと我に返る。
腕を取られ、笠置は困った顔をしていた。
「あ、ご、ごめんなさいっ。つい驚いてしまって」
赤面しながら、慌てて身を離す。
床に散乱したプリントを拾い上げ、希咲は改めて手を繋ぎ直した。
彼の手がないとどうにも落ち着かない。ほとんどお守りのようになっていた。
笠置は希咲の醜態をどう見たのか、ちょっと迷ったような顔をしてから、空いている左手で壁に触れた。
「どうしたの?」
「いや……どうも必要以上に怯えてるみたいだから教えてあげるけど。この学校には多分、幽霊はいないよ。幽霊になるのって、たとえば登校途中で事故に遭ったり、自殺なりなんなりして、この学校に未練がある人でしょう? だったら、この学校の生徒は大丈夫だ。みんなちゃんと卒業してる。教員だって死んだ人は誰もいない」
「え? どうしてわかるの?」
「そんな話聞いたことがないから」
彼は壁から手を離し、歩きながらそう言ったが、希咲は違和感を覚えた。
彼の言い方はほとんど断言に等しかった。
根拠はないが、確信した。彼はこの学校で過ごした生徒全員が何事もなく、無事に卒業したことを知っている。事故に遭ったり自殺した人間など一人もいないと。
(でも、どうして? どうしてそんなことがわかるの?)
――あいつ、人の心が読めるんだって。
理緒の言葉が蘇った。
なくした物の行方も言い当てた。
普段の優等生な希咲が作り物であることだって、彼には何もかもお見通し。
(……何者なのよ、こいつは。本当に魔法使いなの?)
訝っている間に階段に差し掛かり、笠置は階段の傍にあった照明のスイッチを切った。途端に廊下が真っ暗になる。
階段の照明は灯ったままだが、それでも背後が暗くなったことで希咲の恐怖は増大した。と同時に、嫌な怪談を思い出した。
「……この階段の二階の踊り場にある鏡って、変な噂があるよね。子どもの声が聞こえたり、不気味な影が映るって……」
希咲が怖がりだと知っている理緒が余計なことを教えてくれたのだ。
――ねえ知ってる、部活で遅くなった女子生徒が鏡の中から幼い子どもの声を聞いたんだって。
そんなの嘘だろう、ともちろん希咲は突っぱねた。
だが彼女は「ううん」と真顔で否定し、文化祭の片付けの最中、たまたまそこを通りかかった男子生徒も聞いたと言った。
「ここから出して」と嘆願する声を。
そして、鏡の中に浮かぶぼんやりした白い影を目撃した。
あの鏡の縁には『寄贈・鈴木太郎』の文字がある。
きっと鈴木さんの子どもかその関係者が幼くして亡くなっちゃったんだよ。その幽霊が鏡に取り憑いたんだ。鏡を割って出してくれる人間を待ってるんだ……。
――だから、あの鏡の前を通るときは気をつけてね?
恐怖に震える希咲に、くすくすと理緒は笑いながらそう言った。
何人もの生徒が鏡の怪談を知っているというのに、教師は鏡を撤去しようとはしなかった。
怪談を信じた女生徒が撤去を訴えたようだが、教師は「何を馬鹿なこと言ってるんだ、そんなくだらない話で盛り上がる暇があるなら勉強しろ」と一蹴したそうだ。
「そんな噂があるんだ」
噂に疎い男子生徒の間でもそれなりに広まっている怪談だと思っていたが、笠置は知らないようだった。
クラスから浮いている彼は外部の噂話に興味を示さないし、何よりそれほど他の生徒たちと親しくもない。
独りぼっちって可哀想だな、と希咲は同情した。
「でも、ただの噂でしょう。遠回りするのも面倒だし、俺としてはこのまま降りたいんだけど。立花さんがどうしてもっていうなら別の階段から降りるよ?」
どうする? と、前髪から覗いている左目が一瞬だけこちらを見て、また伏せられた。
何度となく繰り返される卑屈な仕草。
突発的に、希咲は彼の頬を掴んで顔を上げさせたくなる衝動に駆られた。
無理やり見詰め合わせたら、彼はどんな反応をするのだろう。
もちろん実際にそんなことができるわけもなく、想像するだけだったが。
「いえ、いいわよ。このまま降りましょう」
付き合ってもらっておいてわがままはいえず、希咲はそう言った。
「そう」
笠置は階段を降り始めた。怯みながらも、希咲もその後に続く。
希咲がこの先にある鏡の怪談をしても笠置は怖がっていない。
幽霊など端から信じていないからか、それとも幽霊など歯牙にもかけない謎の力があるからか――疑惑は抱えきれないほどに膨らんで、とうとう思い切って尋ねてみた。
「……笠置くんって、魔法使いなの?」
「は?」
予想の斜め上をいく言葉だったのか、笠置は足を止めて、唖然とした顔でこちらを見た。
彼が呆気にとられる顔を初めて見た――といっても、前髪で顔の半分は隠されているのだが。
「魔法使い? なんでそう思うの?」
「いえ、だって……」
言いよどむ。素直に話すかどうか迷ったが、彼の視線は外れない。
観念して希咲は答えた。
「実は、友達に聞いたの。笠置くんには不思議な力があるって。人の心が読めるとか、なくした物の場所がわかるとか。私は半信半疑だったけど、さっきこの学校に死んだ人はいないって断言してみせたでしょう? その言葉を聞いて、もしかしてそうなのかなって思ったの」
「…………」
笠置は黙り込んだ。ひょっとしたら機嫌を損ねたかもしれない。
(やばい、置き去りにされるかも)
希咲は慌ててプリントを持った片手を振った。
夜の学校に置いてきぼりにされるなんて恐ろしすぎる!
「でもそんなわけないわよね。魔法使いなんて幽霊よりも非現実的な言葉よね、撤回するわ、ごめんなさい――」
「なら、立花さんはどうなの?」
と。
気づけば、彼はさきほどからずっと希咲の目を見つめていた。
これは非常に珍しいことだった。
というより、はっきりと初めてのことだ。
黒い瞳がまっすぐにこちらを射抜く。
(な、なんだろう)
魔法にかけられたみたいに、その眼鏡の奥の瞳から視線が離れない。
「立花さんも魔法使いなの? 俺もずっと気になってたんだ。どうやっても『視』えないから」
「……視えない?」
意味がわからなかった。ぽかんとしている希咲をしばらく見つめてから、
「……そう。やっぱりただの偶然なのか。そういう人間もいるってことなんだね」
笠置はふっと視線を外し、階段を降り始めた。希咲もその後を追って、混乱しながら訊いた。
「あの、ごめんなさい。私、笠置くんが何を言ってるかわからないんだけど。わかるように説明してもらえないかしら」
「言っても信じないと思うよ」
「信じるわ」
迷いなく即答する。笠置は肩越しにこちらを見た。
どうせ信じないだろう、とその目が何よりも物語っていた。
その目つきが癇に障って、希咲は繰り返した。
「信じる」
「…………」
笠置は無言でまた前を向いた。
少しの沈黙。
たんたん、と階段を下りる音だけが無人の校舎に虚ろに反響する。
(やっぱり話してもらえないのかな)
不安に思っていると、二階に差し掛かったところで彼は話し始めた。
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