3:見抜かれているのかも

 住宅街を抜け、勇気を出して学校の前までは行った。正門を閉ざす鉄の格子にタッチした。

 でも、それから無言で引き返した。

 何故ならば、夜の闇の中で聳え立つ学校はこれ以上なく不気味だったから。

 校舎の中で頭のない生徒がさまよっていたら? 無人の体育館からバスケットボールのドリブルの音が聞こえてきたら?――そんなふうに、次から次へと恐ろしい想像が頭をよぎり、一人で進軍する勇気はどんなに頑張っても沸いてこなかった。

 学校と家の中間地点にある商店街の前で、希咲は途方に暮れていた。

 このまま無手で家に帰るわけにもいかない。

 かといって学校にも行けない。

 夜の学校は怖すぎる。

(理緒に助けを求めようか……でもこんな時間だもんなぁ。夜の10時に呼び出すのはいくら友達でも失礼だよ……ああ、雪ちゃんに誘われてテレビ見るじゃなかった。彼女が好きなアイドルが出演するってだけで、どうでもいいバラエティーだったし……)

 雪ちゃんというのは、居候させてもらっている親戚の娘の名前だ。彼女の機嫌を損ねるとろくなことにならないので、三時間フルで付き合い、要所要所で適当に笑ってはいたが、内心ちっとも楽しくなかった。

 その後は彼女の宿題を手伝って感謝されたが、おかげで自分自身の宿題は手がつけられず、プリントを忘れたことにも気づかなかった。

(よりにもよって厳しい安藤先生の宿題を忘れるなんて、私って馬鹿。本当につくづく馬鹿)

 これまで自分を何度罵ったかわからない。

 それでも、何度罵ろうと現実は変わらない。

 大通りを時折自動車が走り、明るく視界を照らし出す。

 顔を上げると、道路の交差点にあるスターバックスはこの時間でも盛況で、仕事帰りであろうOLや同じくらいの年代の子が楽しそうに談笑したり、本を広げたり、ケータイを弄ったりして思い思いに時間を過ごしていた。

 あの中に友達がいたら話は早かったのだが、残念ながら世の中、そううまくはいかない。

(……フラッペチーノ飲みたい……スタバがもっと安かったらちょくちょくいけるのになあ、私はコンビニの100円コーヒーがプチ贅沢だわ……っていまはそんなことを考えてる場合じゃなくて、宿題のプリントを至急回収するべきで)

 視線を外して、何気なく右手の方向――全ての店のシャッターが閉まり、外灯だけが灯る商店街の中を見て、希咲は目を疑った。

 普段流れている賑やかな音楽もなく、人気もほとんどない、寂しい夜の商店街。くたびれたスーツを着たサラリーマンとすれ違い、俯き加減に歩いてくる、一人の少年。

 身長は175センチくらい。見慣れた黒縁眼鏡。顔を隠すためなのか、前髪は必要以上に長く、右目は隠れてしまっている。

 銀のチョーカー、黒のスラックス、十字架のワンポイントが入ったシャツ。

 服のセンスは悪くないが、店のマネキンに飾ってあった服を一式そのまま着ているかのような、無個性を地で行く少年。

「笠置っ……くん!?」

 思いもかけない人物との遭遇に、希咲は素で叫んでしまい、急いで「くん」を付け足した。

 彼もその叫び声で気づいたらしく、ちょっと驚いたような顔をして顔を上げ、こちらを見た。

 歩いていた足が止まる。

「立花さん?」

「あ……ええと、大声で呼んでしまってごめんなさい。こんばんは。奇遇ね」

「うん……こんばんは。なんでこんなところに? 立花さんの家ってこの付近だったっけ」

 笠置とまともに話すのは入学式の日以来だ。入学早々大失態を演じてしまったこともあり、どうにも顔を合わせづらく、強烈にライバル視してはいても実際の交流は最低限だけだった。他のクラスメイトと比べても会話数は少ない。

 そのことを気にしているのかいないのか、彼はすぐに目を伏せた。

 彼はいつも俯いている。軽い対人恐怖症なのかもしれない。

「うん、まあね。ちょっと用事があって。笠置くんはどうしてここに?」

 うふふ、と作り笑いを浮かべる。

 笠置はこちらを見ていないのだから意味はなかったが。

「喉が渇いたからコンビニでコーヒーでも買おうかと思って……用事があるなら、俺と話してる時間なんてないでしょう。夜道は危ないから、気をつけてね。じゃあ」

 笠置はそう言って歩き出した。こちらの脇を通って、何事もなかったかのように行ってしまう、その瞬間、脳はめまぐるしく思考を始めた。

(え――ええと――)

 希咲は焦った。普通はもっと話しかけてくるものではないのだろうか。他の男子は自分とお近づきになりたいと願い、様々なアプローチをかけてきた。

 ラブレターだって三通はもらったし、二回ほど告白されたのに、笠置は違う。

 同じ学年にいる全ての生徒は自分より下で興味もないのだろうか。

(私はこれまで彼をめちゃくちゃ意識してきたのに。絶対に負かしてやる、宿敵だと思ってたのに。彼は私のことなんてどうでもいいのかな。いやでもいまはそんなことより。宿題が。怒られる。いままで築き上げてきた優等生の像が。崩れる。私の意地とプライドが。崩れてしまう! それくらいならばいっそのこと……そうよ、こんなところで出会ったのも天の助けなのよ、彼に縋らないと私は絶対に一人で学校へは行けない! 彼一人に笑われるのとクラスメイト全員に失望されるのどっちが痛い!? いいえ、きっと彼なら私の失態を馬鹿にしないわ、だってそもそも私に興味がないんだもの! 別にいいけどってあっさりついてきてくれるわよ! それから口止め料としてスタバ奢ればオッケーでしょ、フラッペチーノおいしいし! 高いけど! おいしいし!!)

 混乱の極地で思考はよくわからない方へと暴走し、

「笠置くんっ!!」

 がっし、と。

 通り過ぎようとした笠置の腕を、希咲は素早く両腕で掴んで止めた。

 さすがにこれには意表を突かれたらしく、笠置がびっくりした顔をした。

「……なに?」

「あ、あの……お、お願いが……あるんだけど……」

 宿敵に頼まなければならない屈辱と気恥ずかしさで、顔は熱を帯び、声が尻すぼみになっていく。

「うん。聞くからとりあえず放してくれないかな。地味に痛いから」

 笠置は淡々とした口調で言った。

「あ、ごめんなさい」

 希咲が手を離すと、笠置はつかまれていた箇所を摩った。

 引きとめようと焦るあまり、結構な力で掴んでしまったらしい。

 やまとなでしこにあるまじき振る舞いだと希咲は反省した。

「……も、もし時間があったら、これから私と一緒に、学校に行ってくれません……でしょうか」

「学校に? なんで?」

「数学の宿題のプリントを忘れてしまったんです……」

「ああ、なるほど。安藤先生は怖いからな。どんなに不真面目な生徒でも、あの先生の宿題だけはやるよね。いいよ」

 笠置は頷いた。

「本当に!? ありがとう! お礼に終わったらスタバ奢るね!」

「スタバ?」

「フラッペチーノがおいしいから! モカもキャラメルも季節限定物だって外れはひとつもないよ! もちろん普通のコーヒーだってカフェラテだって超おいしいんだから!」

 ようやくこれで宿題ができるという安堵のあまり、希咲はいつになく興奮していた。意味もなく拳を握ってスタバのおいしさを力説してしまう。

 笠置は気圧されたように目をぱちくりさせ、質問してきた。

「なにそれ?」

「えっ、スタバ知らないの!? あの甘くておいしいフラッペチーノを飲んだことがないの!? 人生損してるよ!?」

「そんなにおいしいんだ? うん。よくわからないけど、じゃあお礼はそれで」

「うん。それじゃあ行きましょう!」

 意気揚々と踵を返し、学校へ向かおうとすると、背後で笠置がぽつりと言った。

「だいぶキャラ崩壊してるね、立花さん。学校での君が嘘みたいだ」

「……っ!?」

 ぎくりと希咲は顔を引き攣らせた。

(しまった! 確かにいまの私、完全にキャラ崩壊してる! 素に戻ってたぁぁ!!)

 希咲はどうしたものか考え、こほん、と咳払いして。

 くるりと身体ごと向き直って微笑んだ。

 男子たちを虜にする魅力的な笑顔を作り、一礼してみせる。

「そうね、見苦しいところを見せてしまってごめんなさい。宿題のプリントを忘れるなんて考えられない大失敗を犯してしまって、気が動転していたの。もう平気よ。すっかり平常心に戻ったわ」

「そう。俺はそんな作った立花さんより、さっきの等身大の立花さんのほうがいいと思うけど。君がそれでいいならいいんじゃないかな」

「な……」

(見抜かれてる――?)

 絶句して立ち尽くした希咲を置いて、笠置はすたすたと歩いていった。

 それから、自分がついてこないのを知って、肩越しに振り返ってくる。

「何してるの? 行くよ」

「え、ええ」

 動揺を押し殺して、希咲は足早に彼の後を追った。彼の隣に並び、ちらりと横顔を窺う。

 それでも彼がいま何を考えているのかはわからなかった。

 無表情のまま前を見て歩いている。

 ――人の心が読めるんだって。

 理緒に言われた言葉が蘇る。

(まさか本当に……いや、まさか、ね)

 ひやりとしたものが背筋を通り抜けていったが、希咲は胸中でかぶりを振って、その悪寒を否定した。

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