第九章  南朝の悲劇

 藍と椿は、南朝方の霊達の光に囲まれていた。

「何、この堪え難いくらいの、悲しみの波動は?」

 藍は額に右手を当てて呟いた。椿はフッと笑って、

「貴女も巫女の端くれだから、この人達の心の叫びが聞こえるようね。本来、こちらが正統であったのに、裏切り者の足利尊氏によって都を追われ、吉野に都を作らざるを得なかったのよ。そんな人達の悲しみが満ちているわ、ここは。そして何百年も経ってからその正統性が認められて、南朝ではなく、吉野朝と呼ばれるようになり、明治の御世には北朝ではなくこの吉野朝が正統とされるようにまでなったわ」

 藍は椿の話を黙って聞いていた。藍も日本史の教師である。南朝が長い間正統ではないとされ、江戸時代に、大日本史を編纂した水戸藩の徳川光圀によってようやく「正統」と言われるようになり、さらには明治時代になると、逆賊は足利尊氏であり、楠正成は忠臣とされるまでに変わって行ったのを知っている。しかしそれはそれぞれの時代の欲とエゴが成さしめたものだ。

「ようやく、ここにお集まりの方々のご苦労が報われるのよ」

 人のすすり泣く声のような波動の中、次第に神気が一点に集まっていくのを藍は感じた。

「これは?」

 藍は神気の流れに仰天した。

「この流れ方は……。どうしてこんなに勢いがついているの?」

 後醍醐天皇陵に集中する神気の流れの量が、尋常ではないのだ。只単に吉野の地が神気の交差する場所というだけではないようである。藍はさらに上空へと飛翔し、吉野山全体を見た。

「そういうことなのね……」

 椿は藍の行動を見てニヤリとし、

「吉野は只の交差点ではないのよ。自凝島神社と熊野の三大社も繋がっている。そして日吉大社と自凝島神社も繋がっている。伊勢神宮と日吉大社も繋がっている。伊勢神宮と熊野の三大社も繋がっている。いえ、それだけではないわ。この巨大な三角形が四つできる聖域には、数え切れないほどの神社仏閣がある。その全ての神気を今、吉野山呪法によってここに集めているのよ。後醍醐帝のご復活だけならそこまでは不要だけれども、後醍醐帝はさらに摩醯首羅王にご転身なさるから、そのくらいの神気は必要なのよ」

 藍はその巨大な四つの三角形と、そこに収まる数々の寺社を考え、身震いした。しかし本当の恐怖は、その後に来るのである。

「帝のために命がけで戦った武将達の無念、そして戦に巻き込まれて命を落とした民の無念。全ての悲哀の情を全てここで昇華し、正統なる吉野朝の帝であらせられる後醍醐帝がご復活なさるわ」

 やがて、後醍醐天皇陵に流れ込む神気が、周囲の空間を歪ませるほどになって来ていた。

「もうすぐ私は最強の剣を手に入れられる」

 椿の言葉に藍は首を横に振って、

「椿さん、その呪法をどこで知ったのかはわかりませんが、やめて下さい。その呪法は貴女が考えているようなものではないんです」

 しかし椿は、

「後醍醐帝は、史上まれに見る聖帝なのよ。貴女になんかわかりはしないわ。そして、宗家というぬるま湯の中で生きて来た貴女には、後醍醐帝のお苦しみも理解できないのよ」

「椿さん……」

 藍は椿がすでに正気を失いかけている事に気づいた。

( 椿さんはあの神皇正統記に魅入られている。何とかしないと……)

 周囲に漂っていた魂の光も後醍醐天皇陵に吸い込まれるように消えて行った。

( 霊気までも吸い込み始めた。只の召喚術なら、たとえ神を降臨させるとしても、ここまでする必要はない。元々吉野は神聖な地なのだから、神気はそれほど集めなくても、大丈夫なはず。それなのにこれは……)

 椿が何を根拠にこれほどの神気が集まる呪法を行っているのか、藍は考えた。しかしわからなかった。

「天皇陵の全てが、皆南向きなのに、後醍醐帝の陵(みささぎ)がどうして北向きなのか知っている?」

 椿が不敵な笑みを浮かべて尋ねた。藍は、キッと椿を見て、

「後醍醐帝は、死の間際まで京に帰る事を望んでおられたから。だから、唯一京都のある方角である北向きに造られているんです」

 椿は藍の答えにゆっくりと拍手して、

「正解よ、藍ちゃん。そのとおり。後醍醐帝は京に帰るのをずっと望まれていた。でもその願いは叶わなかった」

 バッと十拳の剣で北を指し示し、

「今日がその願いの叶う日。後醍醐帝は京の都にご帰還されるわ」

「えっ?」

 藍がハッとした時、ついに後醍醐天皇陵が鳴動し、吸い込んだ光を吐き出すように強く輝き出した。そしてその眩いばかりの光の中から後醍醐天皇の霊がゆっくり姿を現し、スーッと陵墓上空に飛翔した。

「おお!」

 椿は歓喜の声を上げた。藍はビクッとして後醍醐帝の霊を見た。確かにその霊体は、秀吉の時と違い、憎しみや怨念に彩られてはいなかった。むしろ神々しささえあった。

「帝、神気をお吸いなさいませ。貴方様の本来のお姿である摩醯首羅王にご転身下さいませ。そして京の都にお戻りなさいませ」

 椿が進言すると、後醍醐帝の霊は周囲の神気を凄まじい速さで吸収し始めた。

「ムッ?」

 そこへ雅が根の堅州国から現れた。彼は後醍醐帝の状態を見て仰天した。

「この辺りの神気が皆吸い尽くされている。まずいぞ」

 雅は周囲を見た。そして椿の様子に気づくと、

「そういうことか」

 漆黒の剣である黄泉剣を出し、椿に向かって飛翔した。

「雅!」

 雅に気づいた椿と藍が異口同音に叫んだ。雅は剣を振り上げ、

「これはあの時の礼だ、椿!」

 椿に向かって振り下ろした。しかし椿はニヤリとして、

「そんな汚れた魔剣では私は斬れないと言ったでしょう、雅?」

「どうかな?」

 雅は剣撃を止めて黄泉剣を投げ捨て、椿の喉元に手刀を突き出した。

「雅!」

 藍は雅が椿を殺すつもりだと知り、叫んだ。椿は意表を突かれて雅の攻撃を避けることができなかった。

( った! )

 雅は椿の死を確信した。ところが、彼の手刀は椿に届かなかった。

「何だと?」

 雅の手刀は、巨大な手に阻まれていた。藍も唖然としてその巨大な手を見ていた。

「何?」

 その巨大な手は、椿のスーツの内側から現れていた。手は雅の手刀を掴み、腕をねじ上げてしまった。

「くっ!」

 椿のスーツの中から、鬼とも魔物とも区別のつかない生き物が現れた。それは式神であった。

「私を守ってくれているのは、何も船戸の神だけではないのよ、雅。知っているはずよね、私は陰陽道も使うって」

「……」

 雅は式神の手を振り払い、椿から離れた。藍が降下して来て、

「雅、傷は大丈夫なの?」

 雅は椿を睨みつけたままで、

「心配するな。この勘違い女を始末するまでは、死んだりしない」

 その言葉に椿はクククと低く笑い、

「勘違いしているのはどっちかしらね。もうすでに吉野山呪法は成就した。後醍醐帝が摩醯首羅王に転身するのを止める手立てはない」

 雅と藍は神気を吸収している後醍醐天皇の霊を見た。後醍醐天皇は次第に巨大化しており、その背中に六本の腕が出て来ていた。そのうちの右の三本の手が、それぞれ形の違う剣を持っていた。椿はそれを見て、

「あれこそ、血染めの草薙の剣の元となる貪欲、憤怒、愚痴の剣。あれを手に入れれば、私の大願は成就する」

 その三つの剣は、黄泉剣以上に妖気をはらみ、異様な黒さで周囲の空間を歪めていた。藍には、どう見ても、その三つの剣から生まれるという血染めの草薙の剣は、恐ろしいものとしか思えなかった。雅もその剣の妖気に気づいていた。

「何だ、あの禍々しい剣は? あれほどの神気の中でなお、それをはねのけるほどの妖気を出すとは……」

「血染めの草薙の剣なんて作らせないわ!」

 藍は天津剣を構えて、摩醯首羅王になりかけている後醍醐天皇の霊に向かった。式神がこれを阻むように立ちふさがった。

「邪魔はさせないわ、藍ちゃん。貴方の相手は、その子がするわ」

「くっ!」

 式神が藍に突進した。

「オオオオオオッッッッ!」

 後醍醐帝は加速度的に巨大化していた。

「斬!」

 藍は瞬時に式神を切り捨てた。

『いかな天津剣と言えども、あの魔剣には勝てないかも知れません。何としても阻止しなさい』

 卑弥呼が藍に語りかけた。藍はそれに頷き、後醍醐天皇の背後に回った。

「まだ摩醯首羅王にはなっていない。今なら……」

 藍は後醍醐天皇に接近した。

「フオオオオッッッ!」

 後醍醐天皇の後ろの六本の腕が、藍に迫った。まるでそれは蛇のように藍に襲いかかって来た。

「くっ!」

 藍はそれをかわしながら、剣を持つ手に近づいた。椿はそれを見て藍に向かおうとしたが、

「おい、お前の相手は俺だ。背中を見せてもいいのか?」

 雅が言った。椿は歯ぎしりして雅を睨んだ。

「どうして? 何で私の邪魔をするの? 私は貴方の事を一度だって邪魔した事はないのに!」

「俺はお前の邪魔などしていない。お前が俺の行く手を遮っているだけだ。下らんことを言うな、椿」

 雅は冷静な声で言った。椿はニヤリとして、

「そう。貴方は飽くまでも藍ちゃんの味方をすると言うのね。わかったわ」

 両手の神剣を投げ捨てた。そして呪符をスーツの内側から何枚も取り出して、

「貴方の相手はこの子達に任せるわ。私は最強の剣を手に入れたいから」

「何?」

 椿は呪符五枚を雅に投げつけた。その一枚一枚が式神となり、雅に襲いかかった。雅は再び黄泉剣を出し、中段に構えた。

「黄泉醜女!」

 剣の先から、五体の黄泉醜女が現れ、式神と激突した。

「クオオオッ!」

 二体の式神は黄泉醜女に取り憑かれて溶かされてしまったが、残りの三体は逆に黄泉醜女をその鋭い爪で斬り裂き、雅に向かった。

「黄泉醜女合わせ身!」

 次に雅は、数体の黄泉醜女を出し、合体させて放った。式神はこの強化された黄泉醜女に組み付かれて、三体とも溶かされてしまった。

「本気で来い、椿。付け焼き刃の陰陽道でやられるほど、俺は弱くないぞ」

 雅が椿をキッと睨みつけて挑発した。すると椿は、

「貴方は、一度地獄を見た人なのに、どうして私の気持ちがわからないの? どうしてあんな小娘の味方をするの? どうして吉野朝の方々の悲しみを知ろうとしないの?」

 絶叫するように言った。雅は剣を下段に構えて、

「後醍醐帝は、鎌倉幕府を実際に倒した武士を軽んじ、何をしたわけでもない公家を重用し、自分の側室である阿野廉子の言いなりになってしまった。南朝方の悲劇は帝自身が招いたものだ。誰が悪いわけでもない。そんなこともわからずに、後醍醐帝を復活させるとは、途方もない馬鹿者だな、椿」

 椿は雅の言葉に激怒した。

「今の今まで、貴方だけは助けようと思っていた。小娘の味方をしようと、私の邪魔をしようと、貴方だけは私のものにしようと思っていた。でももうやめた。貴方は芯から腐っている!」

 椿の顔は鬼のような形相になった。雅はフッと笑い、

「とうとう本性を現したか。大方、吉野山を歩き回っているうちに、南朝の亡霊共がお前を次第に洗脳したのだろうが、そんなものに左右される程度では、どれほど呪力があろうと、藍の敵ではないな」

 さらに椿を罵った。椿は輝きを増した。そして再び両手に剣を出した。

「わかった。今度は本気でいく。もうお前は殺す。その髪の毛一本も、この世に残さない!」

 雅はギョッとした。

( 何だ、この波動は? 椿は一体何に取り憑かれているんだ? )

 雅の額に汗が流れ落ちた。


 仁斎と大吾の乗る車は、吉野大橋まで来ていた。

「吉野神宮を越えれば、如意輪寺まですぐです」

 ハンドルを切りながら大吾が言った。仁斎は上空の神気の流れを見たままで、

「あまり近づき過ぎるな。少し手前で止めてくれ。考えがある」

「はい」

 大吾は不思議に思いながらも、頷いた。


 藍は必死に飛翔していたが、六本の腕が巧みに動き回り、剣を持つ手に近づく事ができないでいた。

「我の転身を阻む者は誰ぞ?」

 後醍醐天皇の霊が口から凄まじい神気の風を噴き出しながら言った。藍はそれをかわしながら、

「帝、お鎮まりなさいませ! このままでは、日本が滅んでしまいます!」

 しかし後醍醐天皇の霊には藍の声は聞こえていなかった。

「我は摩醯首羅王の化身である。日の本を浄化するは、我の務め。邪魔立て致す者は滅する!」

 その言葉が轟くと同時に、背中にあった六本の腕が横に回り、後醍醐天皇の元々の二本の腕と並んだ。三本の剣はますますその禍々しさを強くし、宇宙の果ての如く黒々として行った。後醍醐天皇の霊は、ゆっくりと藍の方に向き直った。

「吸い込まれてしまいそうな漆黒の剣……。何なの、あれは?」

 藍は三本の剣の闇の力に思わず後退した。

「滅!」

 後醍醐天皇の霊が剣を振るった。そこから放たれる黒い衝撃波が、藍を襲った。

「くっ!」

 藍は天津剣でそれを跳ね返したが、あまりの数の多さに次第に圧倒されて行った。藍は上空へ逃れ、後醍醐天皇の上に回り込んだ。

「斬!」

 天津剣の剣撃が後醍醐天皇を斬り裂いた。

「グオオオオッ!」

 しかし神気の量が膨大で、直撃していない。後醍醐天皇はほんの少し傷を負っただけで、しかもそれは凄まじい速さで回復してしまった。

「そんな……」

 藍は呆然とした。


 仁斎と大吾は、吉野朝宮跡近くに来ていた。その昔南朝の皇居があった付近である。

「お前の兄はどこにいるかわかるか?」

 仁斎が尋ねた。すると大吾は、

「妙です。近くにはいません。どこへ行ってしまったのでしょう?」

「そうか。やはりな」

 仁斎は予測していたようだ。大吾は不思議に思って、

「どういうことなんですか?」

「この大呪法は、吉野を中心に巨大な三角形が四つできるものだ。近畿一帯を巻き込んだとてつもない呪法なのだ」

「はァ」

 大吾は周囲の神気の流れを見渡しながら返事をした。

「わしらは後醍醐天皇の復活ということにばかり気を取られていて、この呪法の真の意図を見誤ったのかも知れん」

「真の意図?」

 大吾は仁斎を見た。仁斎も大吾を見て、

「恐らく椿はその真の意図を知らされずにこの呪法を完成させようとしているのだと思う。真の意図を知っているのは、お前の兄を動かしている化け物だ」

「化け物?」

 仁斎は歩き出しながら、

「化け物を縛る結界を作る。手を貸してくれ」

「は、はい!」

 大吾は慌てて仁斎を追いかけた。


「どうした、椿? 本気で行くんじゃなかったのか?」

 雅は何としても椿の気を藍から反らそうと、挑発を続けていた。

「だから殺すと言ったでしょう! 貴方なんか、私がその気になればすぐに殺せるのよ!」

 椿は二本の剣を交差させ、雅に突進した。雅は黄泉剣を中段に構え、

「来い!」

と応じた。

「姫巫女流古神道奥義、神剣乱舞!」

 椿がそう唱えると、彼女の両手の神剣が飛翔し、雅を襲った。

「何!?」

 雅は襲いかかる二本の剣を黄泉剣で払いのけていたが、その動きが次第に速くなり、かわし切れなくなっていた。

「グッ!」

 雅の右肩を草薙の剣が斬り裂いた。椿はニヤリとして、

「貴方はこの世から完全に消滅してもらうわ。その程度で死んでもらっては困るのよ」

「……」

 雅は無言で椿を睨み、二本の剣の攻撃を払いのけ続けた。椿はスーツの内ポケットから呪符を取り出して、

「足止めするわよ、雅!」

 雅に向かって投げつけた。呪符は雅を取り囲み、彼の剣を消し、飛翔術を破ってしまった。

「うわっ!」

 雅は真っ逆さまに落下した。

「くそっ!」

 しかし彼は咄嗟に根の堅州国に逃げ込んだ。

「チッ!」

 椿はそれを見て舌打ちした。そして、

「でもしばらくは戻って来られないわね」

 藍の方に飛翔した。

「その間に、貴方のお姫様を始末するわ、雅」

 椿は狡猾な笑みを口元に浮かべた。

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