第八章 吉野山呪法
大吾の運転する車は、高速を降りて国道一六九号線を吉野に向かっていた。
「何だ、このおかしな波動は?」
大吾は吉野山に流れ込んでいる膨大な量の神気を感じて身震いした。
「何を召喚するつもりなんだ、兄さん達は……」
大吾はギュッとハンドルを握りしめた。
椿の天津剣は姫巫女二人合わせ身が解けたせいで、消失してしまった。しかし彼女は全くたじろいだ様子はなかった。
「姫巫女二人合わせ身でも、私には勝てない。今からそれを証明してあげるわ」
椿はキッと藍を睨むと、もう一度両手に神剣を出した。藍は天津剣を中段に構えて、
「姫巫女二人合わせ身は絶対奥義。決して負けない!」
椿は哀れむような目で藍を見て、
「それは術者の力によるのよ。貴女程度の呪力では、いくら究極奥義を使っても私には勝てない。源斎に勝てたのはまぐれ。もし小山舞と貴女が戦っていたら、間違いなく貴女は殺されていたわ。雅が小山舞を始末してくれたので、貴女は命拾いしたのよ」
「……」
藍は椿の言葉に何も応えず、剣を下段にした。椿は二つの神剣を交差させて、
「さァ、行くわよ。今日が宗家の終焉の日。貴女を殺したら、すぐに仁斎様にも後を追ってもらうわ」
「そんなことはさせない!」
藍が椿に急接近し、剣を大上段から振り下ろした。椿はその藍の剣撃を二刀で受けた。激しい火花と閃光が飛び散った。
「くっ!」
藍は椿の気に押し返されるように後退した。椿の十拳の剣にピシッとひびが入った。
「やっぱり、天津剣は凄い剣ね。でももうすぐそれを凌ぐ剣が手に入るわ。それを使えばあっと言う間に天津剣は砕け散るのよ」
椿の謎めいた言葉に藍は眉をひそめた。
「天津剣を凌ぐ剣?」
彼女は大吾が持って来た神皇正統記の一節を思い出した。
「まさか……」
藍の額に汗が流れた。椿はフッと笑って、
「何か知っているようね。後醍醐帝がお持ちになっていた剣。それこそが天津剣を凌ぐものなのよ。近畿一帯の神気が集まれば、後醍醐帝はご復活される。そしてさらに多くの神気を吸収することによって、本来のお姿である摩醯首羅王に転身される。それが吉野山を使った大呪法。これがなれば、小野一門など物の数ではない」
「何ですって?」
藍は、椿が企んでいる事があまりにも恐ろしい事なのを知り、驚愕した。
「血染めの草薙の剣を使うつもりなのですね? そんなことをしたら大変な事に……」
「貴女もあの神皇正統記を読んだのね。血染めの草薙の剣は、最強の剣。私にこそ相応しい剣よ」
椿は嬉しそうにそう言った。藍は、
「椿さん、あの神皇正統記を読んだのですか? 何か妙な妖気を感じませんでしたか?」
すると椿は、
「妖気? そんなもの、感じなかったわ。わけのわからないことを言わないで!」
苛立った顔で答えた。藍は全てを悟った気がした。
( 椿さんは、建内宿禰のことに気づいていないの? それとも……)
「もうすぐ死ぬ貴女に教えてあげる必要もないでしょうけど、よく言われる冥土の土産になさい。この大呪法の真の意味を」
椿は嬉々として話し始めた。
「ここ、吉野山の位置を思い描いてみなさい。北を辿れば、大神神社、春日大社、滋賀県大津市の日吉大社。西には大阪市の住吉大社、そして淡路島の
藍は何も言わずに椿の話を聞いていた。椿は周囲を見渡して、
「ごらんなさい。かつて都が二つあった時代、歴史のいたずらに翻弄されて、敗者となった南朝方の人々が、後醍醐帝のご復活を知り、集まり始めているわ」
「えっ?」
藍はピクンとして周りを見た。そこには無数の光が見えた。
「人の魂の光?」
藍の額に汗が伝わった。その光の数は、まさしく夜空の星のように辺り一面を埋め尽くしていた。
「後醍醐帝はこれらの方々の力をお集めになって、摩醯首羅王に転身される。そうなれば日本は浄化され、素晴らしい国に生まれ変わるわ」
椿の話に藍は目眩がするような気がした。
( この人は本気でそんなことを考えているの? )
仁斎は大阪国際空港に到着し、丞斎の差し向けた大型のセダンで奈良に向かっていた。
( あの神皇正統記に記されていた呪符は、陰陽道のものではなかった。そしてこの近畿一帯の神気の流れ。まさか椿は……)
仁斎の額を一筋の汗が伝わった。
「もしそんなことを考えているのだとすれば、小野一門壊滅の危機だ。何としても止めねばならん」
仁斎は険しい顔でそう呟いた。
賢吾は、大吾が近づいているのを感じているのか、呪符を使って飛翔し、吉野に戻っていた。
「術者が邪魔をしに来る。だがそうはさせぬ。この大呪法は必ず成就させる」
賢吾は鬼のような形相で空を見上げた。彼は懐から幾枚かの呪符を取り出し、
「式神よ、我が命に服せ!」
夜空に投げ上げた。すると呪符は鳥のように宙を舞い、大吾がいる方向へと飛んで行った。
「我が式神は最強。敵は死あるのみ」
賢吾はそう呟き、大声で笑った。
一方大吾は、吉野山の近くまで来ていた。
「何だ?」
彼は上空から伝わる波動に気づき、車を停めて外に出た。
「何かが近づいている……」
大吾が空を見上げた時、巨大な黒い塊が接近して来た。
「あれは、式神?」
大吾は護符を取り出して、
「兄さんか?」
黒い塊は大吾の前まで来ると巨大な鬼の姿になった。大吾は舌打ちした。
「やはりそうか。そこまで心を失っているのか、兄さん」
式神が大吾に突進した。大吾は護符を投げ上げて、結界を張った。バチンと轟音が響き、式神と結界の激突が起こった。
「兄さん!」
大吾は破られかけている結界にさらに護符を張って強化した。式神の圧力が増す。また結界が軋んで歪み始めた。
「グオオオオオッ!」
式神は一旦遠のくと、勢いをつけて結界に激突した。結界全体が揺れ、ヒビが入った。
「臨兵闘者皆陣列前行!」
大吾は九字を唱えて式神の攻撃に耐えていた。
「これを使うと、術者が危ないが……」
大吾はためらいながらもスーツの内側から別の護符を取り出し、
「呪詛から生まれし者は、元に還れ! 急急如律令!」
唱えて結界を解き、その護符を式神に投げつけた。
「グオオオッ!」
式神は護符をぶつけられてもがき苦しみ、また黒い塊となって飛び去った。
「兄さん」
大吾は、式神が飛び去った方角を見上げて呟いた。
賢吾は式神が打ち返された事を知り、
「おのれっ!」
帰って来た式神に呪符を投げつけ、元の呪符に戻した。
「私が直接呪殺してやる」
賢吾は呪符を使って飛翔し、大吾がいる場所へと向かった。
丞斎は仁斎と落ち合い、同じ車で吉野に向かっていた。
「むっ?」
丞斎はある波動を感じてギョッとした。
「どうした、丞斎?」
隣の仁斎が尋ねた。丞斎は外を見て、
「もしやこれは?」
運転手を見ると、
「急げ。このままでは取り返しがつかんことになる。康斎の亡霊が、とてつもない事を仕出かそうとしているのだ」
「はっ!」
運転手はアクセルを踏み込んだ。車は急加速し、閑散とした夜の国道を吉野へと疾走した。
( 椿は、昔わしと真斎が康斎にかけた術を何者かにかけているのか。しかも、椿の背後には康斎がいる。その後ろには……)
丞斎は恐怖のあまり、その先を見通すのをやめた。仁斎はそんな丞斎の変化を横目で見ていたが、何も尋ねなかった。
( 椿はとんでもない思い違いをしているようだ。あれは封じられているのではないのだ。封じているのだ。解いてはならんものなのだ )
仁斎は前方の空に見える光を見据えた。
「あの光は藍と椿か」
「らしいな」
丞斎が応えた。その時、仁斎と丞斎は、大吾の波動を感じた。やがて国道の先に大吾の姿が見えて来た。
「あれは?」
丞斎は車を止めさせた。彼は車を降りた。前方から賢吾が呪符に乗って飛翔して来るのも見えて来た。丞斎は賢吾から康斎にかけたのと同じ術の波動を感じた。彼は賢吾を指差し、
「あの男が、小野奇仁だ」
「ならば、術を解かねばなるまい」
仁斎も車から降りた。丞斎は仁斎に過去の経緯を気づかれている事を知ったが、敢えて素知らぬフリをした。
「あっ、貴方は……」
大吾は仁斎と丞斎に気づいた。仁斎は、
「あいさつは後だ。まずはあの男にかけられた術を解かねばならん」
「術?」
大吾が鸚鵡返しに尋ねると、丞斎が、
「あの男は、二重に術をかけられている。まずは記憶を封じられ、その上で別の人格を降ろした霊玉を呑まされているのだ」
大吾はギクッとして賢吾を見上げた。
「お前らか、我らが呪法を邪魔する輩は?」
賢吾は地上に舞い降りながら言った。仁斎は眼で丞斎に合図した。
「現役を退いて久しいが、お前如き若輩者に遅れを取るほど腕は鈍っていないぞ、小僧」
丞斎が賢吾を挑発した。賢吾は丞斎を睨み、
「おのれ、私を愚弄する者は許さぬ。我が式神の力を思い知れ!」
呪符を丞斎に投げつけた。呪符は牛とも鬼ともつかぬ姿となり、丞斎に襲いかかった。
「神剣十拳の剣!」
丞斎は素早く剣を出し、式神を一撃で斬り、霧散させた。賢吾はそれを見て歯ぎしりし、
「また私の邪魔をするのか!」
丞斎は悲しそうに賢吾を見て、
「やはりその男に降りていたのはお前だったのか」
賢吾は丞斎を睨みつけて、
「今度は邪魔はさせぬ! 我が呪法は成就するのだ!」
「そうはさせん」
賢吾の背後にいつの間にか仁斎が立っていた。賢吾はギョッとして振り返った。
「ハッ!」
仁斎の正拳が賢吾の腹に入った。次の瞬間、仁斎の拳から光が放たれ、賢吾の身体の中に入って行った。
「グホッ!」
賢吾は崩れ落ちるように膝を着いた。仁斎は賢吾を見下ろして、
「今のは効いたろう。もう留まっていられぬはずだ。出て来い、康斎」
「ぐううううっ……」
賢吾はしばらく呻いていたが、やがて、
「ゲホッ!」
口からゴルフボールほどの大きさの白い玉を吐き出した。大吾は仰天して、
「何ですか、それは?」
「これがお前の兄を操っていた霊玉だ。ある男の思念が宿っている」
仁斎はその霊玉を拾い上げ、
「ふるえふるえ ゆらゆらと ふるえ」
すると霊玉は空中を浮遊し始め、男の姿になった。それは紛れもなく、椿の夢の中に出て来た小野康斎であった。
「康斎」
丞斎は何とも複雑な表情で康斎を見た。仁斎は康斎の姿を見て、
「どういうことだ? 康斎からは邪気が感じられぬ」
「何?」
丞斎はギクッとして仁斎を見た。すると賢吾がけたたましい声で笑い出した。
「康斎は陰陽道のために使ったに過ぎぬ。我はうぬら如きにやられはせぬぞ、小野の者達よ」
その声に仁斎と丞斎は驚愕した。
「まさか……」
賢吾は再び呪符を取り出して飛翔した。
「うぬらと戯れ合っている時ではない。もはや手遅れ。死を覚悟せよ」
賢吾はそう叫んで飛び去ってしまった。
「どういうことなんです? 兄は、どうなってしまったんです?」
大吾が仁斎に尋ねた。仁斎はハッと我に返り、
「お前の兄の波動を追えるか?」
「え、ええ、何とか」
仁斎は丞斎を見て、
「先に行くぞ」
「わかった」
仁斎は大吾の車に乗り、吉野山を目指した。
「康斎」
丞斎は康斎を見た。すると康斎は、
「父上、申し訳ありませんでした」
「康斎?」
丞斎は意外な言葉に驚いた。
「私は、まだ兄が継承者となる前、この吉野山にある大きな木の根元に、祠のようなものがあるのを見つけて中を覗きました。そこには、古びた書がありました」
康斎の言葉に丞斎は、
「もしや、神皇正統記か?」
「はい。しかしそれは巷にあるものとは違っていました。私はそれを読んでいるうちに、何かに支配されて行くのを感じました」
康斎は身震いしながら言った。丞斎は眉間に皺を寄せて、
「それは恐らく建内宿禰の妖気だ。仁斎の話では、日本各地に同じものがあるらしい。お前が封じられていた霊玉を呑まされていたのが、その神皇正統記の一冊を代々所有していた一族の者だ」
「……」
康斎は丞斎を見て、
「私はその何かの支配に抗う事も出来なかったばかりか、継承者に選ばれなかったと知った時、己の欲望のままに家を飛び出し、京都小野家を呪いました。私は継承者となる器ではなかったのです。兄が選ばれて当然でした」
自嘲気味に言った。すると丞斎は、
「いや。全てはこのわしの判断の甘さだ。小野一門の『双子生まれし時はいずれかを養子に出すべし』という掟を破ったわしが悪いのだ。本来であれば、お前が養子となり、継承者となるべき分家があったにもかかわらず、わしがバカな考えを持ったばかりに、その分家は継承者を失い、隣の分家に吸収されてしまった。わしこそ京都小野家の当主たる資格がないのだ」
康斎に対して土下座をした。
「頼む。椿を止めてくれ。あいつは二十五年前のことを誤解しているようだ。真実を伝えてくれ。あいつのやろうとしている事は、お前が望んでいる事ではないのだと。あいつが死んでしまうと、今度は京都小野家が絶えてしまう」
「父上……」
康斎は丞斎に近づき、
「お顔をお上げ下さい。私にも罪があります。私の弱さが、椿を誤った方向に導いてしまったのです。力を合わせて、椿を救いましょう」
「康斎」
丞斎の眼には涙が光っていた。康斎はゆっくりと頷いた。
大吾は車を走らせながら、助手席で腕を組んだまま目を瞑っている仁斎に、
「どうされたんですか? 何があったんですか?」
すると仁斎は目を開けて大吾を見た。
「お前の兄を助けられんかも知れん。それでもいいか?」
「!」
大吾は予想はしていたが、はっきりと仁斎から最後通告のようにそのことを告げられると、さすがに悲しみがこみ上げて来た。
「あの神皇正統記には、化け物の妖気が宿っていた。しかもお前の兄は、その化け物に魅入られてしまっておる。救い出すのは無理かも知れん」
仁斎の顔は苦渋に満ちていた。大吾は正面を見据えたままで、
「最悪の事態は覚悟しています。兄が吉野山にいると聞いた時から、それもあり得るとは思っていました」
「そうか」
仁斎は再び目を閉じた。大吾は、
「死んだジイさんから聞いています。吉野山は術者にとって一番恐ろしい場所なのだと。ですから、自分も全力を尽くすつもりです」
「わかった。わしらもできるだけのことはしよう。悔いのないようにな」
仁斎はもう一度目を開いて大吾を見た。大吾は大きく頷き、
「はい」
と応えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます